「K A R Y Y N」と一致するもの

 タイトルの『エイス・グレード』というのは8年生のこと。日本だと中2だけれど、アメリカではミドル・スクールの最終学年に相当する。世界中の子どもたちは小5ぐらいで自尊感情を失い始めることが報告されている。世界と出会い、圧倒されてしまうからだと説明されている。そのようにして喪失した自尊感情を世界の子どもは「エイス・グレード」ぐらいまでに回復するか、以前よりも強い自尊心を持つようになるのに対し日本の子どもたちが自尊心を回復する例は少なく、自信のない人間に育つ傾向が強いという(反対にオランダの子どもは世界で最も強い自尊心を抱くようになるらしい)。『エイス・グレード』が扱っているのは主人公のエルジー・フィッシャー演じるケイラ・デイが自尊心を回復するまでの悪戦苦闘。ジェネレーションZと呼ばれる世代は生まれた時からネットがあり、自尊心にとっては最大の敵ともいえる承認欲求を低減させなければ自尊心の回復はありえない。資本主義にとって承認欲求は金のなる木だし、コミュニケーションの回路は増える一方で、瞬く間に世界はトラップだらけになってしまった。『エイス・グレード』も当然のごとくケイラ・デイがネットに自撮りの動画をアップするところから始まる。彼女の1日はネット漬けで、夕食の時間もスマホを離すことがなく、ジョシュ・ハミルトン演じるシングル・ファーザー(マーク・デイ)はいつも頭を抱えている。自分の世界に閉じこもっている娘にどうアプローチしていいのかわからない父親の弱り切った気持ちも手に取るように伝わってくる。ちなみに、SNSが10代の子どもに与える悪影響は圧倒的に女子に偏重しているそうで、ネットいじめのターゲットも女子が多いというし、『エイス・グレード』の主人公を女子にしたのは、だから、とても重要なことだろう。社会問題をエンターテインメントと絡めてエデュテイメントにしてしまうアメリカのお家芸である。

 ケイラ・デイは学校で誰にも相手にされない。無視されても、無視されても、気丈に振る舞い、自分はみんなと対等だという意識を保ち続ける。しかし、クラスのクイーン的な存在であるケネディは彼女を話し相手として認めず、本当はバースデイ・パーティにも呼びたくなかった。そんな彼女を実在する人間として扱ったのはケネディの従兄ゲイブだけ。ケイラ・デイはしかし、ゲイブは眼中に入らず、ただひたすら勇気を出して、みんなの輪に混ざろうとする。誰によって承認されたいかということが彼女の中では変更がきかないのだろう。そして、片思いを寄せているエイデンに「フェラチオはできるか?」と問われ、意味もわからずできると答えてしまう。その晩、フェラチオの意味をネットで調べたケイラ・デイは……(このシーンがあるために本作はアメリカではR指定となり、作品の当事者である8年生がひとりで鑑賞することは不可に。日本では特にR指定はないようです)。さらにケイラ・デイはハイ・スクールの体験入学で知り合ったオリヴィアの男友だちからも性的なハラスメントを受けそうになり、アメリカの日常的な風景の中で中学生の女子がいかに性的な危機にさらされているかが印象づけられる。ケイラ・デイが本当に自信をなくしてしまうのは、しかし、(以下、ネタバレ)自分が過去に書いた自分へのメッセージを読んだ時だった。「夢や希望」を焼き尽くすことと決めた彼女は初めて父親とまともに会話をする。ここがターニング・ポイントとなる。『ヘザーズ』(89)、『ミーン・ガールズ』(04)、『キック・アス ジャスティス・フォーエヴァー』(13)と繰り返し同じような設定の話がつくられるということは、これはアメリカにとってよっぽどな問題なんだろう。『エイス・グレード』はこれまでのものと比べて物語としては最もシンプルで、突拍子もない展開も用意されていない。監督が言うように「リアルにつくったらR指定になってしまった」というのは本当だろうし、台本を読んだフィッシャーにフェイスブックなんて誰もやってないと言われ、インスタグラムやスナップチャットをメインにしたのも可能な限りリアルに寄せなければ当事者たちに伝わらなくなってしまうと思ったからだろう(ちなみに監督のボー・バーナムはユーチューバー出身)。もはや『ヘザーズ』のウィノナ・ライダーや『ミーン・ガールズ』のリンジー・ローハンでは若い世代のロール・モデルにはなりようがないと。

 この作品に自尊心を回復する方程式が示されているわけではない。そんなものがあれば誰も苦労はしない。しかし、日本人はこういった作品をもっと深刻に受け止め、ある程度のフォーミュラを導き出すぐらいの努力はした方がいいのではないかと思う。子どもたちが様々な困難にあっても成長することはなく、ただ何かを失っただけで、元の日常に戻れたことに感謝するというエンディングの娯楽邦画ばかり観ていても、それは「世界と出会い、圧倒されてしまう」状態を長引かせ、悪くすれば隷属状態を再確認しているだけで、いつまでも小学5年生のメンタルから逃れることはできない。安倍政権によってゆとり教育が覆された経緯には様々な思惑が絡み合っているのでひと言で表すことは難しいけれど、要は自由裁量に大きな価値は認められず、工場労働者を大量生産するための教育方針に回帰してしまったことは確かだし、そうなると自尊感情はやはり不要なのかもしれないけれど、自尊感情が低いことはどう考えてもグローバル時代には不利だし、日本はこれまでひとり当たりのGDPは低くても人海戦術でそれをカヴァーしてきたようなところがあり、ということは人口が減少し、この25年で約600万人も労働人口が減ったということは(第2次世界大戦で死んだ日本人は約300万人)、これまでと同じやり方ではGDPは下がる一方でしかない。いまでもかなり貧しい国になってきたというのに、さらに落ちぶれて、21世紀後半には中国に出稼ぎに行く人も出てくるかもしれない。ゆとり教育がうまく行かなかったのは社会に多様性を受け入れる準備ができていなかったからで、むしろ受け入れる側に自尊心が備わっていなかったことが問題だったのではないだろうかと僕は思う。東京電力の旧経営陣じゃないけれど、責任を引き受けるべき役付きの人たちが必ずしもそうした役職に見合った行動を取らない場面はしばしば目にする。日本の子どもが自尊感情を回復できないのは親に自信がないからだという分析もあることだし、だとしたら、これはデフレ・スパイラルよりも恐ろしい負の連鎖に陥っているということではないだろうか。

 アメリカではSNSの弊害が本当に大きく議論され、これによって損なわれるものからなんとか脱却しようという機運がこの作品からは力強く感じられる。ケイラ・デイはネットからダメージを受けるわけではなく、自分を保つためのツールとして利用しているものの、そのまま続けていれば鬱になることは誰の目にも明らかだったし、それが救いにはならず、どこかに繋がっていくストーリーではなかったことはやはり象徴的だった。劣等感や不安を増大させるとして英王立公衆衛生協会(RSPH)によって17年に最悪のSNSと断じられたインスタグラムはこの5月から「いいね」を非表示にするテストを始め、日本でも9月26日からテストを開始、早くも利用者から大きな反発が巻き起こっている。

Waajeed - ele-king

 デトロイトからWaajeedがやって来る。T3、 Baatin、J Dillaで構成されたヒップホップ・グループ、Slum VillageにDJやビートメイカーとして10代のときからシーンで活動するアーティストで、近年はハウスやテクノの傑作を連発しているので、好きな方には「おお!」という朗報だ。
 ちなみに、彼のElectric Street OrchestraではMike BanksやSurgeも参加している(https://dirttechreck.com/shop/music/dtr02a-electric-street-orchestra-the-natives-ep-digital/
https://samplinglove.blog94.fc2.com/blog-entry-1826.html)。また、今年7月に自身の〈Dirt Tech Reck〉よりEP『Ten Toes Down』をリリース済み(https://waajeed.bandcamp.com/album/ten-toes-down-ep)。10月にはBenji Bのレーベル〈Deviation〉 からも新作のリリースを予定している(https://deviationlabel.bandcamp.com/album/hocus-pocus)。
 関係ないけど、ワタクシ=野田のリュックには、ちゃっかり〈Dirt Tech Reck〉の缶バッヂが付いております。

■WAAJEED JAPAN TOUR 2019

10.11 (FRI) 大阪 @Compufunk Records

SPECIAL ACT
Waajeed (Dirt Tech Reck)

DJ`s
DNT (POW WOW)
MITSUKI (MOLE MUSIC)
DJ COMPUFUNK

VE
catchpulse

Open 22:00

Advance 2500 with 1DRINK
Door 3000 with 1DRINK

Info: Compufunk Records https://www.compufunk.com/
大阪市中央区北浜東1-29 北浜ビル2号館 2F TEL 06-6314-6541


10.12 (SAT) 福島 @Club NEO
- K.I.S.S.#59 -
Keep It Sound & Sense.

K.I.S.S. 10th Anniversary Party!!!!

Special Guest:
Waajeed (Dirt Tech Reck)

Resident DJ:
STILLMOMENT
MONKEY Sequence.19

Food:
Aoyagi

Photo:
Seiichiro Watanabe (swism)

Open 22:00

Advance 4000yen with 1Drink
Door 4000yen
*先着順で10th Anniversary MIX+ノベルティグッズをプレゼント!

Info: Club NEO www.neojpn.com
福島市本町5-1 パートナーズビルBF1 TEL 024-522-3125


10.14 (MON/祝) 東京 @Contact

STUDIO X:
Waajeed (Dirt Tech Reck)
桑田つとむ
Suzu (Charge / Key / Bums)

CONTACT:
MOC (Powers), Funktion crew (Yudaini, Tikini, Taiki),
Shintaro Iizuka x Takuya Katagiri (GASOLINE)

Open 17:00 - Close 22:00

Under 23 | Before 18:00 1000yen
GH S member | advance 2000yen
With Flyer 2500yen
Door 3000yen

Info: Contact https://www.contacttokyo.com
東京都渋谷区道玄坂2-10-12 新大宗ビル4号館B2F TEL 03-6427-8107
※未成年も入場可


Waajeed (Dirt Tech Reck / Detroit)

WaajeedことJeedoはデトロイト、コナントガーデンズ出身のDJ/プロデューサー/アーティスト。
同郷の、T3、 Baatin、J Dillaで構成されたヒップホップグループ、Slum VillageにDJやビートメイカーとして十代で参加する。奨学金を得て大学でイラストレーションを学ぶ時期もあったが、Slum Villageのヨーロッパツアーに参加した時に、アートより音楽を生業とすることを決めたという。自身の主宰するレーベルBling 47からJay Dee Instrumental Seriesといったインストビート集をリリース、またニューヨークに一時移り、2002年にPlatinum Pied Pipersを結成、よりR&B色強いサウンドを打ち出した。Platinum Pied PipersとしてUbiquityより2枚のアルバムをリリースしている。現在デトロイトを拠点に活動し、2012年レーベルDIRT TECH RECKを立ち上げ、より斬新なダンスミュージックサウンドを追求している。Mad Mike Banks、Theo Parrish、Amp Fiddlerとコラボレーションを経て、2018年最新ソロアルバム『FROM THE DIRT LP』を完成させた。Planet E主催のDETROIT LOVEのツアーにも多々参加し、今年の初のSonar出演では当地のオーディエンスに鮮烈な印象を与えた。

Maria Chavez - ele-king

 瀟洒な作風で知られるテック・ハウスのプロデューサー、ステファン・ゴールドマンに「Ghost Hemiola」(13)というアナログ盤のダブル・パックがあり、それぞれのAサイドに音のしない66本のループが刻まれている。本人がユーチューブで使い方を解説しているものを見ると、ターンテーブルの上で回っているレコード盤のループにナイフで傷をつけることでプチッという音が等間隔で再生され、同じことを2枚同時にやることで一種のポリリズムが出来上がるという仕組みになっている。タイトルの「ヘミオラ」というのはポリリズムを表すクラシック音楽の専門用語で、ゴールドマンはなんとも芸術的な手つきでレコード盤に次々と傷をつけていく。かつてはトーマス・ブリンクマンがターンテーブルにアームを2本付けて、やはり2ヶ所同時に音を再生するということをやっていたけれど、アナログDJの技やトリックはさらに広がっていく一方である(なんて)。

 ターンテーブルを使ったパフォーマンスで定評のあるニューヨークの現代音楽家、マリア・チャヴェスはこのダブル・パックを使って11パターンのコンポジションをつくり上げた。プリペアード・ピアノならぬプリペアード・レコードが用意されたということ以外、あとはどこをどうやっているのかはさっぱりわからない。『Plays (Stefan Goldmann's Ghost Hemiola)』と銘打ってはいるけれど、明らかに「Ghost Hemiola」から得られた音は素材に過ぎず、様々なプロセッシングを施したものが完成形となっているはずである(もしかすると米電子音楽のパイオニアであるウサチェフスキーがすべてライヴでエフェクトを加えていた例もあるので、本当に「Plays」だけなのかもしれないけれど)。レコード針と溝が擦れ合う擦過音だけが素材のはずなのに、その表情はあまりにも多岐にわたり、商業主義とはかけ離れた地平で繰り広げられる無邪気さはとても伸び伸びとしていて、妙な爽やかさまで感じられる。レイアーを重ねたドローンなどはすでにクリシェと化して久しいにもかかわらず、バジンスキーやケヴィン・ドラムに感じられる老獪さとも無縁で、DJワークをベースにしているからか、随所で遊び心が炸裂し、現代音楽といえば不条理なトーンを醸し出すという図式にも当てはまらない。それでいてヘンな音が出ることに感覚のすべてを任せっきりにしてしまうダグラス・リーディーやスペース・エイジの時代とも違い、頭の中をほぐしてくれるような現代性もある。それはきっと2019年に特有の感情表現が成立しているということなのである。全体的な構成は静から動へ。そして淀みと混沌の対比へ。

 ここにあるのはローレル・ヘイローやベアトリス・ディロンが現代音楽やミュジーク・コンクレートをDJカルチャーの磁場に引きずり込んだのとは正反対に、DJカルチャーの養分を現代音楽に注ぎ込もうという試みだと思う。現代音楽がDJカルチャーに寄生するのはこれが初めてではないし、カールステン・ニコライのあたりはすでに境界線は溶けきってしまった感もある。マヤ・ラトキエがポップ・ミュージックのメディアで評価される時代が来るとはまさか思わなかったけれど、ホットなジャンルがお互いに刺激し合わない方がウソだし、ターンテーブルが果たした役割はおそらくミュジーク・コンクレートの時期のシンセサイザーに匹敵するものになりつつあるのだろう。かつてフィリップ・グラスが1銭も手にすることができなかった数々の奨学金や助成金を手にしたマリア・チャヴェスはマース・カニンガム・ダンス・カンパニーのレジデントとなり、ターンテーブリストの草分け的存在であるクリスチャン・マークレイとも共演、さらにはパウウェルやリック・ウェイドといったDJカルチャーのプロパーだけでなく、サーストン・ムーアやリディア・ランチといった野獣のようなアウト・オブ・アカデミズムとも親交を持っているという(『いだてん』で勇壮としたサウンドトラックを奏でる大友良英とも)。マリア・チャヴェスはペルー生まれ。ターンテーブリズムに関する著作も。

interview with Kuro - ele-king

 昨年リリースの TAMTAM のアルバム『Modernluv』は、それまでバンドが経てきた音楽的変遷の最新報告として、既存のファン以外を含む多くのリスナーにその魅力を知らしめることとなった。そのリリース時にも ele-king ではメンバーの高橋アフィとKuroにインタヴューを敢行し、豊富な音楽的バックグラウンドや卓越したセンスに迫ることができたが、今回はヴォーカル担当の Kuro による初のソロ・アルバム『JUST SAYING HI』の発売に際して、彼女の単独インタヴューをお届けする。
 バンド活動と並行して制作されたという本作、一聴して聞き取れるのは内外の最新系R&Bやヒップホップ、各種ビート・ミュージックとの強い共振だ。TAMTAMにおけるバンド・アンサンブル志向を一旦脇に置き、自身による奔放な作曲を交え気鋭のトラックメイカーたちを集結して制作されたその内容は、単に「ヴォーカリストのデビュー作」と呼称するにとどめることのできないヴァーサタイルな魅力に溢れている。
 ソロ活動開始のきっかけや各種トラックメイカーのチョイス、彼等との興味深いやりとり、自身の音楽的興味の現在、いまを生きる女性アーティストとしてのライヴリーな視点、作詞家としての美学とその矜持など、さまざまなトピックについて語ってくれた。


自分を爆発させたい、みたいな感覚があって。頭を空っぽにして、気分やノリみたいなものを大事に歌おうと思いました。ピッチを守ることとかより「オラッ」って勢いを出したいと思って。

ソロ活動は以前からやろうと思っていたんでしょうか?

Kuro:TAMTAM の活動をメインにしつつ、誰かとコラボしたりソロだったり、バンド以外の活動も増やしていきたいとは思っていたので、いつか良いタイミングがあればやりたいなとは思っていました。それを今年やることになったのは、レーベルの方から年の頭に提案をもらったというのがきっかけですね。

元々ソロ用の曲も作っていたんでしょうか?

Kuro:バンド用かソロ用かは別にして新曲のデモは定期的に作っていましたね。でも、今回それらの曲は結局全て入れなかったんです(笑)。正式にソロ・アルバムを作るとなって色々方針が見えてきてから作ったものですね。

「これはバンド向け」これは「ソロ向け」と差別化して曲を作ることはあまりしない?

Kuro:TAMTAM のデモを作るときは、ドラムや鍵盤、ギターとか、バンドの編成をなんとなく念頭に置いて作りますね。

今回はそういうのをとっぱらって作った?

Kuro:自分で作ったトラックに関してはそうですね。打ち込んだものが最終版になるというつもりで作曲したと思いますし、ベースレスだったりドラムの音色もエレクトリックが前提だったり。トラックメイカーに頼んだ曲についてはアレンジも含めヴォーカル以外は基本お任せにする形だったので、自分は歌に関連することだけに集中するという意味でまったく違う作り方でした。それぞれの方に作ってもらったトラックへ自分で作ったメロディーとコーラスラインと歌詞を集中して載せていくという工程でした。

もらったトラックを元にキャッチボールをする感じ?

Kuro:そうです。自分が仮歌を録音して送り返したものに対して、少し調整してもらったりしています。

なるほど。いわゆるシンガーソングライター的な作り方とソロ・ヴォーカリストへの楽曲提供的な制作法の中間のような形だったんですね。

Kuro:まさにそうですね。

昔からソロ・シンガー的なスタイルに憧れはありましたか?

Kuro:それが全然なかったんですよね(笑)。自覚的に音楽を作り始めたのはバンドが最初なので、メンバーと一緒に曲を作って歌うヴォーカル担当という意識が強くて、そもそも「シンガーです」というつもりが最初は特になくて。デビューしてから友達が増えていくに従って、ようやく徐々に世の中にはシンガーソングライターというソロ活動の世界があるんだな、とか実感できたような感じなので。

リスナーとしてはR&Bソロ・シンガーの音楽を好んで聴いていたんでしょうか?

Kuro:そうですね。TAMTAM はバンド形態ではありますけど、昔からリスナーとしては打ち込みトラックのものもバンドも分け隔てなく聞いていますし、ネオ・ソウル、レゲエやR&B、ヒップホップなどのポップ・ソングが歌のバックグラウンドにはあると思います。でも当時は「ソロ・シンガーになりたい、歌でやっていきたい!」とかは一度も思ったことないですね。特にフォーク的なシンガーソングライターと自分は距離があるなあと思っていました。

自分のジャンル的好みとして?

Kuro:好みの問題もあるかもしれないですが、自分が歌うことを除けば好きなアーティストは多いので、単純に自分との相性ですかね。

今回、トラックメイカーに発注せず自身でトラックも含め作っている曲も2曲(“HITOSHIREZ”“FEEL-U”)ありますね。これはどんな機材で作っていったんでしょうか?

Kuro:元々 TAMTAM のデモ作りでも使っているんですけど、DAWは Ableton Live です。

打ち込みやダンス・ミュージック制作に適したDAWですよね。

Kuro:そうですね。でも、最初に買ったときはそういう判断軸はなくて単にバンドのみんなが使っているから程度の理由だったんですけど。いま思うとMIDI編集がスムーズだし、音源多いし便利で良かったなって。

通常のバンド用のデモ制作とは別に、いわゆるビートメイク的なことは前からやっているんですか?

Kuro:趣味的な感じなら結構やってます。それをこれまで世の中に出していることはあんまりないんですけどね。TAMTAM の最新アルバムに入っている“Nyhavn”が打ち込みだったり、生と打ち込みのミックスした曲があったりはします。

ビヨンセがコーチェラで「女性のヘッドライナー少なすぎない?」って言ったとき、はっとした部分はありました。日本のバンドに置き換えて考えると女性人口が圧倒的に少なくて、さらに女性が歌うバンドで自身で曲を書く人となるとほとんどいないんですよね。男性が女性をプロデュースしていることも多いし。

近頃DTMも大きく市民権を得て、色んなジャンルの人が自らの音楽を自宅で作っていますよね。DAWの発展や普及と歩調をあわせて日本のインディー音楽も凄く多様に展開してきたなあと思います。

Kuro:私が生まれた頃よりハードルは格段に下がっているでしょうね。デモを作るだけで色々操作法を覚えていきますし、最近は YouTube とかで簡単にハウツー動画を見られたりするので、自分たちもそんな中で TAMTAM での制作含めて、どういう音像を作りたいかということへかなり意識的になっていると思います。

この2曲、ほかトラックメイカーの人たちとも違うソリッドなカッコよさがあるなあと感じました。

Kuro:ありがとうございます。確かに自分でも自分以外の人が作らなさそうな曲ができたなという気がしていて。トラップを土台にしたり、普段バンドでできないことをやろうと思って作業していたんですが、でき上がったものを聴くと結果的に TAMTAM の曲に通じる要素も多い気がして(笑)。嬉しい発見だったし、自分の個性や癖が浮き彫りになったようにも思いました。

実際の作業も全てひとりで?

Kuro:ミックスの面では自分の知識だけだと自信を持ちきれなかったので、TAMTAM メンバーの高橋アフィさんを若干頼りました。イメージする音像に近づけたかったし、普段やらないということもあって色んな人の意見を聞きたかったので。

それ以外の曲におけるトラックメイカーの人選や発注はどのように進めていったんですか?

Kuro:最初は自分で全曲トラックを作ってみようかなとか、TAMTAM のメンバーを交えて生演奏の曲も作ろうかなとかいろいろ考えていたんですが、来年バンドのアルバムを出せればという予定もあって、あまり手一杯になってしまうのもよくないなと思って。で、これまでの活動で実際に出会ったり自分が好きで聴いていたトラックメイカーの人たちに頼んでみるのが面白いかも、と思って。なので、まずは近しい人からお願いしていった感じです。

初めはどなたに声を掛けたんでしょうか?

Kuro:ji2kia さん。以前彼の音源を聴いてすごくカッコいいなと思っていたから、まず連絡して。「良さそうなストックがあれば歌をのせたいので、聞かせて欲しい」って言ったら、それなら新しく作るよって言ってくれて。その次は ODOLA。“Metamorphose Feat. Kuro (TAMTAM)”という彼らの曲でフィーチャリング・オファーしてくれた経緯があったし、いい後輩って感じで慕ってくれるので。

Shin Sakiura さんは?

Kuro:Shin さんは今年の3月にTAMTAMで共演したのがきっかけですね。そのイベントでのライヴをみて、こういうメロウな楽曲で1曲は思い切りエモーショナルに歌ってみたいって思って。トラックメイクはもちろん、ギタリストとしても素晴らしい方です。

EVISBEATS さん。

Kuro:EVISBEATSさんは実はこの中では唯一お会いしたことのない方なんですが、レーベルのスタッフに曲の方向性を伝えたらアイデアとして頂いて、それですごく良さそう! と思ってお声掛けして。制作にあたっても対面でなくメールでやりとりさせていただいた感じです。普段ヒップホップのアーティストにトラックを提供していることが多い印象だったので、今回は歌とラップの中間的なものを狙えたらいいなと思っていて。そしたら凄くいいトラックが来て。ただ、エヴァーグリーンな感じのトラックで自分の歌がうまくハマるのかは心配だったんですけど、完成したら自分でも初めてなぐらいオープンな雰囲気の、器の大きい曲になって。こういうところがEVISBEATSさんパワーなのかなと感動しました。

君島大空さん。

Kuro:トラックメイカーの方に声を順次掛けていくなかでアルバムの最終的なバランスもなんとなく想像ができるようになって。で、あえて全然テイストの違う作風の人に頼んでも面白いかもと思って、君島くんに声をかけました。彼にお願いした“虹彩”だけは自分の作ったデモが先にあって、それのリアレンジをしてもらうような形で作ってもらいました。ギターをがっつり入れてくれて、かなり雰囲気が変わりました。

「こういう音楽性で」というイメージを各トラックメイカーへ発注の段階で伝えたんでしょうか?

Kuro:発注にあたって私と各トラックメイカーの間に共通言語があったほうがいいなと思っていたから、リファレンス的な音源を渡しながら依頼しました。「このアーティストのこの曲の雰囲気が好きだ」っていう、自分の趣味を伝えるようなプレイリストをいくつか作って相談していきましたね。全曲に共通するトーンとして、バンドでの曲よりもフロアユースなものにしたかったので、そのあたりも意識して伝えました。

たしかにアタックの強い低音感を含めて全体的に現場での鳴りが意識されている印象を受けました。一方で ji2kia さんや君島さんの曲にはアンビエント的なテイストも感じます。

Kuro:そうですね。順序的に制作の最初の方に見えてきたのがそのふたりの曲だったんですが、それがわりとアンビエント寄りのものでした。それはそれで凄くいいなと思ったんですけど、自分の嗜好として完全にそういうタイプでもないので、もう少しぱきっとしたピースも入れたいと思って、Shin さんの曲でそういう相談をしたりしましたね。

そういった制作法だと、最終的に全体をまとめ上げるのがなかなか一筋縄ではいかなさそうですね。

Kuro:私も最初はそう思っていたんです。バラバラで聴いていると疲れるようなアルバムではなくてスムーズに繰り返し聴けるものにしたかったので。色んな人に頼んだっていうことで正直不安はあったんですけど、最終的に自分が歌うと予想以上に自分の色でまとめることができたのは、歌う人間として嬉しかったです。それでいて、やはり各曲違うテイストがあってそれぞれ味わえるみたいな感じになったかなと。もちろんトラックメイカーさんやエンジニアさんのチューニング力はあるものの、ですね。

ミックスはどういった形で?

Kuro:オケのミックスは各トラックメイカーさんに9割型お願いしました。その後、歌録り、歌とオケとのミックス、マスタリングの3つは big turtle STUDIOS でやりました。そのお陰でさらにまとまったと思います。いま思い出したんですが、“TOKIORAIN”は最終ミックス終了の2時間前にそれまでとまったく違うオケのステムが ji2kia さんから送られてきてめちゃくちゃびっくりしました(笑)。最初は4つ打ちのビートが全体に敷かれているような曲だったんですが、もっと冒険的なものがマスタリング当日に送られてきて。でも、それがとても良かった。

それは焦りますね(笑)。でもその効果もあって、アルバム終盤に向けて凄くよい流れになっている気がします。

Kuro:そうですよね。

一部の曲でギターとトランペットの生演奏も入っていますね。特に“FOR NOTHING”でのアイズレー・ブラザーズのようなギター・ソロは強烈です。

Kuro:そうそう、凄い勢いのあるテイクですよね(笑)。TAMTAMのライヴ・サポートをやってくれている Yuta Fukai 君に弾いてもらって。今回、制作期間中TAMTAMでカナダへツアーに行っていて、それが終わった後サンフランシスコに住んでいる Fukai くんのお姉さんの家に泊まりに行ったんです。そこでくつろいでいるときに録ったのがこのギター(笑)。特にフレーズも決め込まずに2~3テイクちゃちゃっと弾いてもらって、いちばんよかったひとつを選ばせてもらいました。最後の方でしれっと爆発的なソロをぶちこんでいて、プレイバックしたときは笑っちゃいました。

全編構築的な印象のアルバムの中で、あそこだけ生のセッション感があって面白いです。トランペットはどなたが? 曲に陰影を与えるようなプレイが素晴らしいですね。

Kuro:今回あえて私が吹かずに、友達の堀君(Kyotaro Hori)に頼みました。以前から彼のトランペットが凄く好きで。技巧的な奏者ならたくさんいると思うんですけど、わかりやすく海外アーティストで例えて言うとクリスチャン・スコットみたいな。そういうセンスを持っているジャズ・トランペッターは貴重だなと思っていて。これもとくにフレーズを決めず、アドリブ的に3テイクくらい吹いてもらったんですが、どれもめちゃくちゃ良くて。歌詞で表現したかったことを楽器の音色ひとつで広げてもらったような気がしています。

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テレビドラマとかワイドショー見て気持ち悪いと思って消したり、しかもそれが世間的には人気番組だと知って、生きにくいなーと思ったり。「世の中そういうものだよね」って言うほうが共感を呼ぶのかもしれないけど、「そういう世の中間違ってるよね」と気づかせてくれる物語が好きですね。

フィジカルな感覚ということでいうと、これまでフィーチャリング・ヴォーカルでソロ参加している曲とくらべて、歌声に肉体性が増していると感じました。あと単純に凄く巧くて、スゲーって思って。

Kuro:それは嬉しいです。

レコーディングにあたって意識的にヴォーカルの鍛錬をしたんでしょうか?

Kuro:鍛錬というような鍛錬はしていないですけど、歌い方の差でいうと、以前は「フィーチャリングで呼ばれたからには、人様の作品だしちゃんとしなきゃ」みたいな思考だった。それに比べると今回は逆に自分を爆発させたい、みたいな感覚があって。頭を空っぽにして、気分やノリみたいなものを大事に歌おうと思いました。ピッチを守ることとかより「オラッ」って勢いを出したいと思って。TAMTAMのライヴも最近そんな感じですけど。

体を動かすように歌っている感じがしました。

Kuro:そうですね、実際踊ったり体動かしながら歌録りしましたね。

少し話題を変えて。今作を聴いてまず思ったのは、欧米のR&Bの最前線との音楽的共振でした。最近のご自身のリスニングのモードがそういったものなんでしょうか? レーベルの資料にも H.E.R. やシドの名前が書いてありますが、そういったシンガーに共感する部分がある……?

Kuro:そうですね、ただいわゆる“ディーヴァ系”みたいなものは最近はあまり聴いていなくて。ジョルジャ・スミスや H.E.R、マヘリアのようなポップ・シンガーは聴いていて気持ちいいし好きですけど、「歌唱力」が魅力の中心に来すぎると自分の趣味とは少しだけ違うかもと感じることがあります。むしろトラップだったり、女性の歌ものでもソランジュや IAMDDB みたいな、ディーヴァっぽさからズレたものを聴くことが多いです。シドもその部類だと思って。でもいまって歌ものとラップとのの境目もだんだんなくなってきていますよね。

確かに。

Kuro:バンドの生音と打込み系の境もなくなってきていたり。私も普段はバンドをやっていますけど、好んで聴くのは打込み系の方が多いかもしれないですね。

それはどうしてそうなっていったんだと思いますか?

Kuro:新譜を聴くのが好きなんですが、打込み系のほうがカジュアルに楽曲リリースされているイメージがあって、数も多いので自然と……(笑)。バンド系は満を持して大作を出す、みたいなイメージまだまだあります。特に国内。もちろん例外はあるし、あくまで傾向ですけど。

リアルタイムで情報を早く摂取していくっていうのは以前から意識的にやってきたことなんでしょうか?

Kuro:学生時代とかは1枚のCDを何回も聴いたりすることもありましたけど、サブスクや配信になったせいか、自分で作曲をするようになったからかわかりませんが、新しい音楽好きというところに拍車がかかった感じはあります。あとはやっぱり、TAMTAM のメンバーにニュー・リリースを聴きまくる高橋アフィさんがいるので、周りの人はその影響を受けざるを得ないというのもありますね(笑)。

北米ツアー中に見つけた絵葉書で、スヌープ・ドッグのポートレートが書かれたものがあって、それに「JUST SAYING HI」って書いてあって。スヌープが好きだし「あ、これいいじゃん」って(笑)。

ちょっと話題を変えて……先日来日して大きな話題になったジャネール・モネイなどもそうですが、自立した新しい女性アーティスト像がいまR&Bやダンス・ミュージックのシーンでクローズアップされていて、これまでにないクールなアーティスト観を提示してくれていると思っているんですが。

Kuro:うんうん。

もしかするとそれをポップ・カルチャーにおける新しいフェミニズムの興隆と捉えることも可能かと思うんですが、Kuro さんはそういったものへ呼応していこうという意識はあったりしますか?

Kuro:幸運なことに自分の活動や周りで音楽をしている人は、古いジェンダー感覚を持つ人は少ないように思えます。TAMTAM のバンド・メンバーも、良くも悪くも中性的な人間が多いですし。なので、自分が呼応って意味だといままではなかったんです。ただビヨンセがコーチェラで「女性のヘッドライナー少なすぎない?」って言ったとき、確かにはっとした部分はありました。例えば日本のバンドに置き換えて考えると女性人口が圧倒的に少なくて、さらに女性が歌うバンドで自身で曲を書く人となるとほとんどいないんですよね。男性が女性をプロデュースしていることも多いし、TAMTAM もそう見られることもあったり。

なるほど。

Kuro:今回はその意味で、シンガーとしての作品でもあるんですけど、ソングライターとしての自分のスタンスを周りに伝えることはかなり積極的にやっています。普段 TAMTAM でおこなっていることと同じではあるんですが、自立したミュージシャンである自分を主張しているつもりです。

国内外含め社会一般的的には保守化が進んでいるという意識はある?

Kuro:世間一般の話になると、違和感を覚える、間違っていると思うことは増えましたね。とある民放のテレビドラマとかワイドショー見て気持ち悪いと思って消したり、しかもそれが世間的には人気番組だと知って、生きにくいなーと思ったり。女性でもLGBTでも男性でも、ステレオタイプな見方がさも常識的なもののように描かれているとひいてしまいます。「世の中そういうものだよね」って言うほうが共感を呼ぶのかもしれないけど、「そういう世の中間違ってるよね」と気づかせてくれる物語が好きですね。

以前 TAMTAM の『Modernluv』リリース時のインタヴューでも話したと思うんですが、Kuro さんの書く歌詞は、どちらかというとそういう社会的なイシューよりも個人の感情の機微や街の風景といったものを描いているという印象があって。今回はそれがさらに研ぎ澄まされた感じがします。

Kuro:それは嬉しいです。音楽に乗せる歌詞はそういうものが多いですね。自分が歌詞を好きになったきっかけは「あれが正しい、これが間違っている!」ということを言うものじゃなく、単純に美しさだったので。今回は特に、制作期間とツアーで北米に行っていた期間が被っていることもあって、街を歩きながら歌詞を考えたりして、その景色や気分で書きたくて。

なるほど。

Kuro:特に“PORTLAND”という曲はそういう雰囲気が色濃く出ていると思います。ツアーの行程が全て終わった後っていうのもあったし開放的なマインドでした。ポートランドはご存じの通り全米有数のリベラル・シティでもあるので刺激も多くて。自分の部屋ではかけない歌詞が書けた気がします。

自分が置かれる環境によって創作がかなり左右される?

Kuro:自分のメンタルに左右されますね。気分や思考の癖を変えるために、環境を変えようとすることがあります。単純にネタ探しってこともあるけど、これまでの TAMTAM の曲もどこかに行ったり、誰かと話してできることが多かったです。自分の部屋でスマホいじって……みたいな環境にずっといるとよく行き詰まる。

たしかに、今の東京の雰囲気からはこの歌詞は出てこないだろうなと思いました。

Kuro:ああ~、そうだと思います。

一方で他の曲、とくに“HOTOSHIREZ”や“MICROWAVE“、“TOKIORAIN”などは、ラヴ・ソングの形を取りながら、その向こう側に先行きの分からない不安感や刹那的な感覚もある気がして。「この先どうなるかわからないけど今夜は遊ぼう」的な、若干逃避的な気分を嗅ぎ取ったりしたんですけど。

Kuro:ああ、なるほど……たしかにその3曲は都内で歌詞を書いてますね(笑)。東京は湿度が高いし、ちょっとした陰鬱さが似合うというか……。

それも含めてやはりどこかに日本的な要素を感じ取れる気がするんです。恋愛における心の機微とか、どこか湿度のある風景描写とか、そういうものが歌詞として抑制的な曲調に乗せられると特にそれを感じて。

Kuro:うんうん。

ざっくりした言い方で恐縮なんですが、ユーミンっぽさっていうか……。それは結構意識している?

Kuro:今回具体的に狙ったりはしていないですが、自分が歌詞を書き始めた頃の理想にはありましたね。情景描写がとても綺麗で、自分のことのように思えてくる素朴なトピックとか。むごいことでも綺麗に表現をするとか。

聞き手の感覚として、ラヴ・ソングを書くってすごくエネルギーが必要な作業なんじゃないかなって思ってしまうんです。子供の頃にユーミンを聴いて「この人はどんなすごいドラマチックな恋愛をしているのかしら?」とか思ったりしたけど、いまになってあれはいわゆる恋愛体質だとかどうとかいうより、むしろポップス作家としてのプロフェッショナリズムの為せるものなのかなとおもったりして。

Kuro:それはとても分かりますね。私自身も恋愛のトピックは多くても、ラヴ・ソングの体裁を借りていることが多いです。

短編小説的に、美しいフィクションとして提示する?

Kuro:それができていれば良いなあと思いますね。でも一方で“HITOSHIREZ”のようにトラップっぽい曲だと、作家的というより、より自分が主体で書いたかもしれないです。トラップって、瞬間の瞬発力を感じるものがよくて、ポップス的な作詞の仕方をしてしまうと妙に器用で嘘くさく見えてしまうというか。最初はなかなか歌詞を書くのが難しかったんですけど、トピックが見つかってからは勢いでガーって勢いで書いちゃいました。こういうビートだと言葉のスピード感が大事な気がしました。

先程話した刹那的感覚にも通じる話なんですが、アルバム・タイトルの『JUST SAYING HI』って、すごくポジティヴなフレーズにも聞こえつつ、とりあえず「ハイ!」って言わざるを得ない的なニュアンスにもとれるよな……と思ってしまったたんですが、このタイトルってズバリどういった意味が込められているんでしょうか?

Kuro:今回、実際に曲が上がってない状態で先にアルバム・タイトルとトラックリストをつけようと思って、内容的な部分や主張を反映しすぎないタイトル付けにしたんです。ソロ第一弾だし単純に「クロです! よろしく!」みたいな挨拶っぽい感じにしたくて。あと、たまたま北米ツアー中に見つけた絵葉書で、スヌープ・ドッグのポートレートが書かれたものがあって、それに「JUST SAYING HI」って書いてあって。スヌープが好きだし「あ、これいいじゃん」って(笑)。

そうだったんですね。つい悲観的な性格が出て深読みしてしまいました(笑)。

Kuro:(笑)。アーティスト名も初めは Kuro って名前じゃなくて、ソロ・プロジェクト用の別名をつけようと思って色々考えていたんですけど、悩んでこねくり回していくうちにどんどん偽物っぽく思えてしまって(笑)。Kuro だから Kuro でいいし、アルバム・タイトルも単純明快っていう感じを目指しました。

最後の質問です。今後ライヴ含めソロ活動はどういう形で展開していきそうでしょうか?

Kuro:TAMTAM のアルバムを来年出したいって心に決めて並行して新曲を作ったりしているので、そんなにガシガシとソロばっかりとかは思ってないんですけど、ありがたいことにイベントに声をかけてもらったりするので、そういう場所にはなるべく出ていきたいなと思っています。フィーチャリングも楽しいのでたくさんしたいです。

ソロ名義のライヴはどういう編成になるんでしょうか?

Kuro:最初はラップトップ一台でとかも考えたですけど、この夏旭川に TAMTAM の小編成版でライヴをしに行ったとき、このアルバムに入っているソロ曲もいくつかやってみたんです。ベースとドラムと、私が鍵盤を弾く3人編成で、かつオケも流して演奏するっていう編成をアフィさんが提案してくれて。完全に生楽器にコンバートしちゃうんじゃなくて、あえてオケも交えてゴチャっとした出力のライヴが面白いなあって思っています。

確かにそれはカッコ良さそう。

Kuro:あとは Shin くんがギターとマニピュレーションやっていいよと言ってくれているので、2人セットもありかなって思っています。ひとりでオケをポン出しして歌うとかはまだ、楽しくやれるかわからないな。幸いにも面白がって協力してくれる人がいるので、ソロ活動とはいえども周りにいる誰かしらを巻き込んでワイワイと活動していきたいなと思っています。

Sequoyah Murray - ele-king

 アトランタといえばいまじゃトラップのいわば聖地だが、セコイア・マーレイ(Sequoyah Murray)を虜にしたのはグライムスだった。そして彼はエレクトロニック・ミュージックに興味を抱き、地元のDIYコミュニティや即興/ジャズのシーンに出入りした。マーレイが今年の5月に〈スリル・ジョッキー〉からリリースしたデビューEP「Penalties Of Love(恋の罰)」は、“黒いアーサー・ラッセル”としてこぞって評価されているが、22歳になったばかりの若者の才能には、もっとさまざまな感覚が詰まっているという点において自由で、魅惑的かつ新鮮であることが先日リリースされたばかりのファースト・アルバム『Before You Begin』によって明らかになった。
 3オクターヴほどの音域を行き来しながら、バリトンヴォイスを自在に操るマーレイのヴォーカリゼーションは、ありし日のビリー・マッケンジーのようである。たしかにアーサー・ラッセル風だった「Penalties Of Love」とはまた違って、『Before You Begin』はグライムスの影響から来ているのであろうシンセポップ風の曲もあることも一因となって、色気と荘厳さを兼ね備えたマッケンジーを彷彿させる。つまり、イヴ・トゥモアがデヴィッド・ボウイならこやつはロキシー・ミュージックだ。恋がはじまったら、やがて終わりゆくであろうその甘美な時間は、しかし終わってはならない、断固として。

 両親ともに音楽家で、家にはプロのドラマーの父が作ったスタジオがあるという恵まれた環境で育ったセコイア・マーレイはポップスも大好きで、とくにビヨンセのファンであることを公言している。終わってはならない甘美な時間はポップスの本質でもあり、本作においてはミルトン・ナシメントとトロピカーナからの影響もあるそうだ。色気に満ちた声と実験性のあるポップ・サウンド(ゴスペル、アフロ、ラテン的サイケデリア)との素晴らしい結合は、この先大きな舞台にも昇りそうではあるが、ある記事によると今年ベルリンでマイク・バンクスに感銘を受けたというから、この若者はまだまだいろんなものを吸収していきそうである。
 近年はOPNであるとかローレル・ヘイローであるとか、ドレイクやジェイムス・ブレイクもしかりだが、ゼロ年代後半に脚光を浴びはじめた人たちもすっかりベテランと呼べるような年になって、そして同時に今後10年に重要な働きをしそうな若い世代が出はじめている。が、それにしても“Penalties Of Love”はキラーすぎる。

プライベート・ウォー - ele-king

 国境なき記者団(RSF)の発表によるとシャルリー・エブド襲撃事件が起きた15年に世界中で殺害されたジャーナリストの数は110人に及び、紛争地以外でジャーナリストが殺されるという傾向はこの年から強くなったという。昨年はトルコの領事館でサウジアラビアのジャマル・カショギや、ブルガリアでEUの不正会計を調べていたビクトリア・マリノバと同じくスロバキアのヤン・クツィヤクが殺され、アメリカでもキャピタル・ガゼット紙が襲撃されるなど殺害されたジャーナリストの数でアメリカが世界第5位に入るという現象まで起きている。それ以前はやはり戦場や紛争地帯が主な殺害場所であった。世界中で88人のジャーナリストが犠牲になったという12年は圧倒的にシリア、そして、ソマリアとパキスタンでジャーナリストの多くが亡くなり、そのなかのひとりである英サンデー・タイムズの特派記者メリー・コルヴィンがシリアで死亡するまでを追った伝記映画が『プライベート・ウォー』である。彼女は明らかに戦争中毒だった。レバノン、イラク、チェチェンと紛争地帯を渡り歩き、86年と11年にはカダフィ大佐への取材に成功している。

 タミール・タイガーと接触するところから話は始まる。MIAの父親が指導層にいたことで知られるスリランカの武装グループであり、この時、銃撃戦に巻き込まれたことでコルヴィンは左目を失う。なかなか痛ましい始まりではあるものの、カメラが彼女の内面や葛藤に踏み込んでいく気配はない。コルヴィンに引っ張り回されて、いつのまにか自分も戦場に立っているような気がしてくる撮り方が続く。それこそキャサリン・ビグローがアカデミー賞をゲットした『ハート・ロッカー』(08)がイラク戦争を批判する目的で戦争中毒を扱ったのに対し、戦争そのものに深く考察を加える様子はなく、映画の主題はあくまでもジャーナリズムの意義に当てられている(監督自身は「ジャーナリズムへのラブレター」とコメントしている)。そして、それも、哲学や思想が彼女の戦争中毒を飾り立てるわけでもなく、なんというのか、「こんな女性がいたよ」といったクールな捉え方で、良いも悪いもなく、必要以上に心を揺さぶろうとする場面も差し挟まれない。メリー・コルヴィンの行動を広くパブリックに問うものではないという意味で『プライベート・ウォー』というタイトルにしたということなのだろうか。だとすれば、それこそ安田純平を巡って激しく巻き起こった自己責任論に直結してしまうタイトルである。

 2年後、コルヴィンはイラクにいる。大勢の人々がクエート人の遺体を掘り返している。サダム・フセインが処刑を実行したかどうかを確かめるためで、予想通り遺体は発見され、遺族たちは大きく泣き崩れる。これもコルヴィンのスクープとなる。ロンドンに戻ったコルヴィンはPTSDと向き合うことになり、治療のために入院するものの、作品のトーンは変わらない。戦場にいる時とまったく雰囲気が切り替わらない。マシュー・ハイネマン監督は「彼女の人生はゆっくりとコントロール不能なスパイラルに陥ってしまった」と表現している。そして、それは監督自身が麻薬カルテルや戦争ドキュメンタリーなどを重ねて撮ってきたことで「奇妙なスリルを感じ、心に闇が宿るような体験をしたこと」に通じるものがあると話している。そう、ハイネマンはシリア内戦を扱った『ラッカは静かに虐殺されていく』(17)というドキュメンタリー映画で大きな注目を浴びた監督であり、同作はハリウッド・セレブたちにある種の熱狂を呼び起こしたと伝えられている。そして、そのハイネマンが初めて手掛ける劇映画のプロデューサーに就任したのがシャーリーズ・セロンと、主役のメリー・コルヴィンを演じたのはロザムンド・パイクだった。セロンがフュリオサ大隊長の役で砂漠の大戦闘を繰り広げた『マッド・マックス 怒りのデス・ロード』(15)はいまだ記憶に新しい。パイクも『ゴーン・ガール』(14)のことばかり言われるけれど、『プライベート・ウォー』の前には『ベイルート』(18)でやはりレバノン内戦を扱った映画に出演し、ヴァニティ・フェアに『プライベート・ウォー』の元になる記事が掲載されてから、コルヴィンにずっと興味を持っていたというのである(またしてもヴァニティ・フェア!)。ハイネマンも、セロンも、パイクもいわばコルヴィンと同じ「コントロール不能なスパイラル」に足を踏み入れているのだろう。彼らだけではない。コルヴィンが再びアフガニスタンの地を踏んだ時、観客も少なからず気分が落ち着いたのではないだろうか。戦場が非日常には感じられない空気があるとしたら、この作品は少なくともそれを表現することには成功している。戦場が怖くなくなってしまう感覚はクライマックスをクライマックスと感じさせない流れをつくり出していく。

『プライベート・ウォー』とは関係なく、続けて『ハミングバード・プロジェクト』を観に行った。監督のキム・グエンは題材の見つけ方がユニークで、彼の名前だけで僕はいつも観てしまう。とくに『魔女と呼ばれた少女』(12)は近年、アフリカを舞台にした映画ではベストに思えた作品である。ゼロ年代と比べて大作も減り、アフリカに対するヘンな幻想が再燃しているなか、同作が運んできた現実とファンタジーの融合は実に斬新だったし、続いて北アフリカのパイプラインをデトロイトの管理会社がモニターで監視するという『きみへの距離、1万キロ』(17)にはグローバリズムを生々しく体感させられ、奇抜な設定だけで呑み込まれてしまった。遠い距離を移動することがグエンの作品に共通するテーマのようで、それは『ハミングバード・プロジェクト』でも順当に繰り返されている。今度はニューヨークからカンザスまで地下ケーブルを引く話である。実話を元にしていて、それだけといえばそれだけ。株取引のために通信の速度を上げるのが目的で、「0.001秒の男たち」という副題は、観ていると、あーなるほどと思えてくる。ジェシー・アイゼンバーグ演じるヴィンセント・ザレスキは証券会社で働きながら地下にケーブルを引くことで飛躍的に株取引のスピードを早められると考え、アレクサンダー・スカルスガルド演じるシステム・エンジニアや投資家の大御所を口説いて大掛かりなプロジェクトを秘密裏にスタートさせる。この計画にサルマ・ハエック演じる社長のエヴァ・トレースが気づくかどうか。株取引のスピードを上げることに関してはトレースもかなり汲々としたものがあり、彼女は終始一貫、鬼のような経営者ぶりを見せる。『プライベート・ウォー』が戦争中毒なら『ハミングバード・プロジェクト』はまさに資本主義中毒である。戦争中毒と違って、資本主義社会に生きている者なら誰もがコントロール不能なスパイラルの入り口には立たされているわけで、その果てにいる人間たちを『ハミングバード・プロジェクト』は映し出していく。

 原作は、『マネー・ショート』(15)や『マネー・ボール』(11)を書いたマイケル・ルイス(今度はヴァニティ・フェアではなかった)。高速取引の実態を暴いた『フラッシュ・ボーイズ』(文藝春秋)がアメリカで刊行されると、株の高速取引は違法になったといい、これはこれでジャーナリズムのパワーを再認識させられるエピソードといえる。株の高速取引というのは、誰かが株を買おうとして発注をかけると、その株を買い終わる前に、対象となる株と同じ株を安く仕入れて、その株を掴ませてしまうことである。いってみれば時間を止める薬を手に入れて、自分の都合のいいようにパッパと株の配置を替えて、利益を上げるようなものである。それを回線の速さとアルゴリズムで実現していく。『ハミングバード・プロジェクト』が描くのはそのようなインフラ・マジックで、法律ができる前に新たな稼ぎ方をひねり出すという意味ではフロンティアの開拓である。日本の新自由主義者たちは既得権益を攻撃し、政府に規制を緩和させてビジネス・チャンスを得ようとするものが大半だろうけれど、この作品で展開されているのは誰かの分け前を分割して自分のところに引き寄せるのではなく、何もなかったところからお金を生み出そうという精神といってもいい。そして、キム・グエンが果たして、彼らをどのように描いているかというと、ハイネマンが描いたメリー・コルヴィンと同じように「この人は生きた!」という満足感を伴ったものになっている。彼らのやっていることにまったく否定的ではないし、ある種の青春映画のようなムードさえ漂わせている。そう、『プライベート・ウォー』と『ハミングバード・プロジェクト』を2本立て続けに観て、何かの中毒ではない僕はまるで「生きていないのではないか」という思いが残るほどであった。なんというか、自分を見失いそうである。

 ちなみに『プライベート・ウォー』の主題歌はアニー・レノックスが手掛けている。この作品を観て。彼女は8年ぶりに曲を書いたという。


『プライベート・ウォー』予告編

『ハミングバード・プロジェクト 0.001秒の男たち』予告編

Telefon Tel Aviv - ele-king

 なんてエモーショナルなエレクトロニック・ミュージックなのだろうか。悲しみがある。希望を求める感情がある。夢の中を生きている浮遊感覚がある。現実の都市をスキャンするような緊張感も漲っている。死がある。そして再生がある。

 テレフォン・テル・アヴィヴ、10年ぶりの新作アルバム『Dreams Are Not Enough』を聴いたとき、私はそう感じた。『Dreams Are Not Enough』は壊れかけた電子音とビートとヴォイスによる都市と人のいまと心を彩るサウンドトラックであり、「夜」のムードが濃厚なアルバムである。われわれは、いま、喪と悲しみが横溢する「夜の時代」を生きている、とでも告げるように。
 もちろんかつてのテレフォン・テル・アヴィヴも十分にエモーショナルだったわけだが、本アルバムではさらに深まった。10年という歳月は大きい。ジョシュア・ユースティスの盟友チャールズ・クーパーの死が深く関係しているのかもしれない。

 2009年にチャールズ・クーパーがこの世を去って、ジョシュア・ユースティスひとりとなったテレフォン・テル・アヴィヴは活動を停止した。最後にリリースしたアルバムは2009年のサード・アルバム『Immolate Yourself』だった。
 2001年、ニューオリンズ出身のジョシュア・ユースティスとチャールズ・クーパーは、テレフォン・テル・アヴィヴのファースト・アルバム『Fahrenheit Fair Enough』を、シカゴの〈Hefty Records〉からリリースした。細やかなグリッチと電子音響による00年代以降のサウンド・プロダクションと、デトロイト・テクノのエモーショナルさ、ハウス・ミュージックのエレガントさを併せ持ったトラックは、世界中のIDMファンの耳を虜にし、彼らは一躍、ゼロ年代初頭=「エレクトロニカの時代」を象徴するユニットになった。ちなみに『Fahrenheit Fair Enough』がリリースされるまでの経緯は2016年に〈Ghostly International〉からリイシューされた『Fahrenheit Fair Enough』のライナーノーツに詳しい。
 2004年、〈Hefty Records〉からセカンド・アルバム『Map Of What Is Effortless』をリリースした。ヴォーカル・トラックを中心としたシルキーなIDM/R&Bといった趣の曲を収録し、このアルバムも多くのファンから愛されている名盤である。
 2009年、チャールズ・クーパー存命時のラスト・アルバムにしてサード・アルバム『Immolate Yourself』を発表する。アナログ・シンセサイザーの音などを盛り込み、新たな可能性を模索しだ意欲作だった。しかしその直後、チャールズ・クーパーが亡くなった。テレフォン・テル・アヴィヴは活動を停止した。

 むろん、ジョシュア・ユースティスは音楽活動を停止したわけではない。ソロ・ユニットであるサンズ・オブ・マグダリーン、2013年のナイン・インチ・ネイルズのツアー参加など積極的に動いていたように記憶する。近年もヴァチカン・シャドウとのコラボレーションやビロングのターク・ディートリックとのユニットであるセコンド・ウーマンなど、インダストリアル/テクノ以降ともいえる10年代の先端音楽の領域に介入するなど、その手を休めたことはない。
 特に〈Spectrum Spools〉からリリースされたセカンド・ウーマンの二枚のアルバムは、グリッチ以降の電子音響をモードなムードの先端音楽へと変換させた決定的な作品であった。テレフォン・テル・アヴィヴ『Dreams Are Not Enough』のサウンドには、どこかセカンド・ウーマンのサウンド・マテリアルを継承する面があるように感じられる。セコンド・ウーマンの活動がテレフォン・テル・アヴィヴ再起動に影響を与えているのではないかとも推測してしまうほどに。
 じじつ、セカンド・ウーマンのファースト・アルバム『Second Woman』が〈Spectrum Spools〉からリリースされたのは2016年で、廃盤になっていたテレフォン・テル・アヴィヴのアルバムが〈Ghostly International〉からリイシューされ、テレフォン・テル・アヴィヴ復活へと動き出した時期も2016年だ。2017年もセカンド・ウーマンは新作アルバム『S/W』をリリースし、テレフォン・テル・アヴィヴはライブ活動をおこなう。このふたつのプロジェクトは10年代後半において並行して走っていた。共通するサウンドを感じられるのは当然かもしれない。

 ではなぜテレフォン・テル・アヴィヴなのか。盟友がこの世から去り、ひとりとなったテレフォン・テル・アヴィヴは「テレフォン・テル・アヴィヴ」として存在できるのか。2014年にリリースしたチャールズ・クーパーと亡くなる直前に完成させた曲も含まれていたサンズ・オブ・マグダリーン『Move To Pain』は、テレフォン・テル・アヴィヴを継承するサウンドを展開していたがテレフォン・テル・アヴィヴ名義ではない。となれば10年代中盤以降のテレフォン・テル・アヴィヴの復活は、ジョシュア・ユースティスが死という喪失を受け入れ、テレフォン・テル・アヴィヴを再生するための儀式といえなくもない。
 つまり『Dreams Are Not Enough』の収録曲はソロ作品や他ユニットのものではなく、テレフォン・テル・アヴィヴの作品なのだという確信にジョシュア・ユースティスが至ったのではないかと想像するのだ。ゴーストのようにトラックの中を徘徊し浸透するヴォイス(極端に加工されている)と幽玄な電子音の交錯を聴くとそんなことをつい考えてしまった。

 アルバムには全9曲が収録されているが、どの曲も亡霊が真夜中の都市を徘徊するような緊張感が漲っている。中でも M2 “a younger version of myself,”と M3 “standing at the bottom of the ocean;”は本作を代表する曲だ。クラッシュするような電子音と透明なヴォイス、断続的に鳴らされるビート、全体を包み込む密やかな刺激と静かなアンビエンスのバランスが奇跡のように美しい。“a younger version of myself,”はリード・トラックでありMVも作られた。エドワード・ホッパーの夜の街を思わせる映像も本作のムードをよく表現している。

 M4 “arms aloft,”も軋むようなグリッチ・ノイズと霧のようなヴォイス/ヴォーカルにアトモスフィアなアンビエント/アンビエンスが交錯する。曲の終わりではすべてが溶け合ったようにアンビエント/ドローンへとカタチを変えていく。
 M5 “mouth agape,”では前曲を継承するようにアンビエント/ドローンで幕を明けるが、うっすらとした声が重なり、サウンドもまた闇から光が溢れるように変化する。この流れが非常にエモーショナルだ。M6 “eyes glaring,”と M7 “not seeing,”もさまざまなサウンド・エレメントが融解したようなアンビエントな曲。ここでは声がまるで讃美歌のようにサウンドが溶け合っている。おそらく“arms aloft,”、“mouth agape,”、“eyes glaring,”、“not seeing,”の4曲は組曲的な扱いではないか。アルバム冒頭で提示された“a younger version of myself,”と“standing at the bottom of the ocean;”のサウンド・フォームとエレメントが融解し、聴き手の意識の深いところで音が作用するような感覚を覚えるのだ。まるで瞑想への誘いのように。
 続く M8 インダストトリアルな“not breathing,”で、リスナーは心地良いインナースペースから目を覚まさせられることになるだろう。このハードなエレクトロ・トラックを経てアルバムは再び現実へと回帰し、穏やかにして不穏な M9 “still as stone in a watery fane.”で、終局を迎える。

 こうしてアルバムを聴き進んでいくと、『Dreams Are Not Enough』は、この10年あまりにジョシュア・ユースティスが経験したふたつの死(親しい友人と父親の死)への思いが込められているように感じられた。喪失と再生のように。そんなパーソナル/エモーショナルさゆえに本アルバムの曲たちは、セカンド・ウーマンでもなく「テレフォン・テル・アヴィヴの曲」である必要があったのだろう。個人的であることは大切な他者を心の中に思い続けること意味する。そう、『Dreams Are Not Enough』には、ひとりの音楽家の新たなはじまりが刻み込められている。

Looprider - ele-king

 『バンドやめようぜ!』でお馴染みのイアン・F・マーティンのレーベル〈Call And Response Records〉の新たなリリースは、東京ストーナー・ロックの新世代、Looprider(ループライダー)が待望の新作『Ouroboros(ウロボロス)』。ベースレスの3人編成となったLoopriderの新境地は、メロディアスな側面が際立っており、Borisの面影もちらほら。ぜひ注目して欲しい。
 なお、アルバムのリリースにともない、9月22日(日)に東高円寺二万電圧でリリース記念イベントの開催も発表。ゲストアクトとして Melt-Banana、GROUNDCOVER.、P-iPLEが出演。東京のアンダーグラウンドなノイズ・ロック・シーンを体験しよう。

アーティスト: Looprider
タイトル: Ouroboros
発売日: 2019.10.02 on sale 品番: CAR-49
価格: 2,000円 (税抜)
レーベル:C​all And Response Record
https://callandresponse.jimdo.com/
https://looprider.com/


リリースイベント

2019.9.22 (Sun)
東高円寺二万電圧

Call And Response Records presents Looprider “Ouroboros” Release Party
Open: 18:00
Start: 18:30
Adv: 2,500円+1 drink
Door: 3,000円+1 drink
Acts: Looprider, Melt-Banana, GROUNDCOVER., P-iPLE

Have a Nice Day! - ele-king

 Have a Nice Day!のライヴはすごい。“FOREVER YOUNG”であらゆる場所をパーティ・フロアに、“FAUST”でオーディエンスを昇天させる。2011年新宿のアンダーグラウンドを拠点に活動を開始、数年のうちにわずか数人のフロアからZEPPまで駆け上ったHave a Nice Day!の原動力となったそれら代表曲が新録音でアナログ発売。
 カップリングは日本のパーティ・シーンにおけるバレアリック・スタイルのオリジネイター、YODATAROと東京のハウス・シーンを20年渡って牽引してきたSugiurumnによる本格的フロア・リミックスを収録。世代を超えて、ダンスしよう。
 

7インチの先行予約受付中!
FOREVER YOUNG
https://store.kilikilivilla.com/product/receivesitem/KKV-094VL

FAUST
https://store.kilikilivilla.com/product/receivesitem/KKV-095VL


https://open.spotify.com/track/1V5SlTvrW6m52Y87Fr8eBF

国府達矢 - ele-king

 前作『ロックブッダ』(2018年)が、あのすばらしい『ロック転生』(2003年)のその先を見つめた身体のアルバムであったならば、この『スラップスティックメロディ』と『音の門』は精神のアルバムである。もちろん、心身二元論をうんぬんしたいのではなく、ひとつのたとえであり、整理のしかただと思ってほしい。

 「コブシを回して歌ったほうが身体が喜ぶ」「頭の中が真っ白になった時に、アジア的な旋律が突然生まれた」「意識していないところでそうした音楽が肉体に刻み込まれていたのかもしれない」「アジア的なものに立脚して音楽を考えてみようと思い付いた」と、『ロックブッダ』の制作について国府達矢は語っている(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/17323)。BAD HOP が言うところの「内なるJ」ではないけれど、国府はおそらく、それよりもべつの視点と深度で自身の身体に埋め込まれた非意識的なものへと向き合った。極東の島国にうまれ、生きる者として避けがたくある、なにかに。そうした対峙が、独自のグルーヴと奇妙な拍節感をともなったリズム、旋律、節回しであらわされたロック・ミュージックへと、13年がかりで実を結んだのが『ロックブッダ』だった、と。

 対して、この『スラップスティックメロディ』と『音の門』は、『ロックブッダ』の制作過程で「廃人」となり、完全なる「鬱」状態のなかで副産物のように生まれたアルバムだという(https://mikiki.tokyo.jp/articles/-/22921)。

 うつ、ひいてはメンタルヘルスの問題というのは、いま、とにかくトピカルで、アクチュアルなものだ。(ある種の映画や小説とはちがって)音楽の世界では、どうも作り手がそれをオープンにし、共有することで聞き手を勇気づけよう、エンパワメントしよう、という論調になりがちで、それが求められているきらいさえある。それを否定したいわけではないけれど、それに窮屈さを感じる瞬間もある、とわたしはおもう。なにもやる気が起きない、だるくて起き上がれない、ねむれない、食事をする気力さえない、なにもかもがどうでもいい……。もちろん、手助けも社会的包摂も必要だ。それでも肯定的なものに、どうしてもインクルードされえないネガティヴィティというものがあるとして、それをそのままのものとして、ただあるがままに受け入れ、提示できるうつわや表現というものも、あってはいいのではないか。

 今回のふたつの作品についてミュージック・マガジン誌に語ったインタヴューで国府は、自身の父親について言及している。ギャンブル依存の父によって国府の家庭は壊れ、その父はいま、生活保護によって暮らしている、と。「そういう人とか、路上で生活をしている人を見ると、他人事だとは思えないんですよね」。社会に、ぎりぎりのところでインクルードされている者も、セーフティネットからとりこぼされてしまった者も、国府はじっと見つめる。そして、網の目のほつれから転がり落ち、路上にねそべる自身の姿を幻視する。彼は歌う。「だれにもなれず どこへもいけず/なんにもできずに/ただ ただよう だけのもの」(“日捨て”)と。あるいは、「あんまり かんじないから/ぼんやりとしてたから/きょうも いきていられた」(“うぬボケ”)と。

 『スラップスティックメロディ』と『音の門』での国府の歌、詞、音は、自身のネガティヴィティを認め、それをただそのまま素描しているかのようだ。わたしも抑うつ状態におちいったことがある、そのなかでこんな歌が生まれた、それによってわたしは回復した、あなたもこれを聞いてがんばってほしい、わたしもがんばるから、応援する、と言うのではない。スナップショットや記録映像のような、ただただこうだった、という、むきだしのなまなましさがここにはある。それ以上でも以下でもなく、なにかを考えることでさえおっくうだ、といわんばかりの歌がレコードとして定着され、音楽としてかろうじてつなぎとめられている。シンプルなメロディとふくよかなリズムで語られるロック・レコードの『スラップスティックメロディ』よりも、まるでデモのようなざらっとした音質の弾き語りを中心とした、アシッド・フォーキーでさえある『音の門』のほうに、とくにそれは顕著である。とはいえ、世を捨てつつも、『スラップスティックメロディ』の“not matter mood”や“fallen”といったエレクトロニックなプロダクションの曲では、ハイハットのあつかいかたなどに現代的な音と向き合う姿勢が感じられる点もまた、おもしろい(制作中にドラムを生に差し替えた、ということも国府は語っているので、おそらく、これらはそれ以前のなごりではないかとおもう)。

 曲を書く、つくる、歌う、吹き込む、という行為が自己治癒になりうることは、フランク・オーシャン(あるいは、兄が刑務所で受けたセラピーに着想を得て『Psychodrama』をつくりあげたデイヴ)などを参照せずとも、これまで多くの音楽家から語られてきたことではある。だが、国府の『スラップスティックメロディ』と『音の門』はセラピー的ではない。彼は自身の内側にびっしりと生えた、ざらざらとした表面の襞にひっかかったままの、どろどろとした言葉や音をそのまま吐き出している──二作を聞いていると、そんなふうに感じられるのだ。パーソナルだの、内省的だの、闇をさらけだしただのという粗雑な形容でこれらふたつのレコードをかたづけてはいけない、とわたしは感じている。重みを重みとしてそのまま引き受けること。否定性を否定性としてそのまま受け入れること。こぼれたもの、あぶれたものを、そのままのものとしてただ見つめること。国府が聞き手に手渡したこのふたつのアルバムは、そんなことを提示しているようにおもう。

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