「K A R Y Y N」と一致するもの

Vince Staples - ele-king

 あれから8年がたった。アール・スウェットシャツが、ミックステープ『Earl』収録のオッド・フューチャー賛歌“epaR”にヴィンス・ステイプルズをフィーチャーしたのは2010年のことだった。当時はふたりともに、ここまで大きな存在になるとは思っていなかったかもしれない。この8年間で、アールは祖母との別れや、母親によって2年間にわたってサモアの特殊学校に送られたこと、そして成功したアーティストとしての苦悩など様々な私生活面での困難を経験し、それらをリリックにも落とし込んできた。
 そんなアールのファースト『Doris』収録の“Burgundy”で「悩んでる場合じゃないぜ、俺たちはお前のラップを聴きたいんだ」と発破をかけたのはヴィンスだった。歯に衣着せぬ発言が注目を浴びてきたヴィンスは、ラッパーたちの音楽ではなく私生活やゴシップにばかり話題が集中することに苦言を呈しているが、これは間接的にアールの憂鬱の一因に言及しているようでもある。だが、ふたりは何よりも音楽で繋がってきたのであり、この過酷なラップ・ゲームの世界で、ドープなライムとビーツによって名を馳せてきた。

 2018年の11月に相次いでリリースされた、ヴィンスの『FM!』とアールの『Some Rap Songs』。前者は11曲で22分、後者は14曲で25分。二冊の短編集を思わせるそのコンパクトさは、ストリーミング時代に、それでも「アルバム」という単位で作品を残しいくための次善の戦略にも見える。
 一聴したところ、盟友同士によるこのふたつの作品を貫く質感は全く異なる。短編集から想起させられる作家に例えるなら、ボルヘスとコルタサルがごとく。ラジオ放送を模した『FM!』に描かれるのは、カヴァーのイラストにあるような西海岸ロングビーチの抜けるような空の明るさだが、一方の『Some Rap Songs』が露呈するのは、陰鬱なアールの精神世界のゴシック調の暗さだ。サウンド面の印象でいえば、前者はハイファイに彩られ、後者はローファイの美学に立脚しているように聞こえる。

 アルバム・カヴァーのイメージ通り、オープニング曲に“Feels Like Summer”と名付けるヴィンス。彼はロングビーチの夏をどのように描写しているのだろう。“Feels Like Summer”のヴァースは「ロングビーチのワイルドな夏の季節/俺たちはパーティするぜ/太陽か銃が顔を出すまで」と幕を開ける。その飄々としたフロウで運ばれるライムには、毒が効いている。そうだ。ヴィンスの描く空の青さの裏側には、常に地上で流れる血の赤さがこびり付いている。それはアールが先述の“Burgundy(ワインレッド)”で表現した、祖母との間に流れる同じ色の血でもある。
 ヴィンスはデビューEPの「Hell Can Wait」(2014年)から一貫して、涼しい顔をしながらビターなライムと挑発的なフロウをアグレッシヴかつ不穏なビートでコーティングしてきた。ダビーな不協和音とベース・ミュージック的な音圧感のベース、そしてハイピッチな自らのフロウを切り刻むような、細かい譜割りのエレクトリックなリズム。クラムス・カジーノと No I.D. によるプロダクションがヴィンスのリリックに完全にシンクロした『Summertime '06』(2015年)はまごうことなき傑作だったし、さらにエレクトリックでアヴァンギャルドなサウンドを加速させた『Big Fish Theory』(2017年)の成功は誰もが知るところだ。
 『FM!』でそのようなヴィンス印の不穏なサウンドが聞けるのはたとえば、「Hell Can Wait」の大半を手がけたハグラーによるプロダクションの“Relay”だ。ここで聞こえる歪んだベースにグリッチーなハット、不穏なモダンGファンク的なウワモノに合わせてヴィンスは、警官に車で職質されながらもバイヤーにドラッグを届ける様を「次のコーナーへのリレー」に見立てライムする。
 ファースト・シングルの”FUN!”ではタブラのようなサウンドを核にした静かに沸騰するダンサブルなビートに乗って、ヴィンスは「俺たちは楽しみたいだけ」と歌うのだが、その物言いはタイトルに反してテンションが低い。それもそのはず“FUN!”は「Fuck」「Up」「Nothing」の頭文字で、それは要するに楽しみたいけれどヘマをこくわけにはいかない、という叫びだ。なぜならロングビーチのノースサイドでは「ヘマ」はすぐに死に直結しかねないからだ。
 ヴィンスが今作で描く低温のパーティ・ソングは、パーティ・ソングを偽装したリアリティ・ソングだ。そしてその「低温」さを達観したような声色でコントロールできるヴィンスの表現力こそが、彼がいまの位置に辿り着いた理由かもしれない。

 ラジオ形式のこのアルバムで突然現れるインタールードのひとつは、“New earlsweatshirt”と題されたわずか20秒ほどの掌篇だ。このごく短いアールのヴァースでは、アールがサモアに送られた際にヴィンスに別れを告げた場面も回想される。
 アールとのつながりは、他にもある。キーワードは「Outside」だ。2曲目に置かれたその名も“Outside!”で、あの“Nyan Cat”をサンプリングしたコミカルでバウンシーなビートを手がけるのはケニー・ビーツだ。上に乗るライムは、ヴィンスが生活してきたギャングたちの闊歩する「屋外」を描写する。その現実と逆行するように、終盤テンションを上げていくヴィンスのフロウが印象的だ。
 一方のアールのセカンド・アルバムは『I Don't Like Shit, I Don't Go Outside』と名付けられていた。彼は最初のシングル“Grief”のフックで「なんてことだ/俺は自分が蒔いたものを刈り取ってきた/わずかの間も“外”で過ごすことはないよ/書いたものの中で生きてきたから」と綴った。自己嫌悪や孤独が通底するこのアルバムで、彼はひたすら「内に篭る世界」を構築しようとした。

 そんなアールの『Some Rap Songs』は、その内省的な箱庭を、さらに徹底して具現化した作品だ。オープニングの“Shattered Dreams(粉々の夢)”というタイトルが象徴するように、チョップで粉々にされたサンプリング・サウンドの断片が組み合わされてより大きなビートの断片を構成し、アールの極めてパーソナルな独白ラップが乗せられて11の掌篇を形作っている。しかしわずか25分というコンパクトな箱庭的世界ながら、同時に何度繰り返し聞いても咀嚼し切れない迷宮的な側面も併せ持つ本作は、聞けば聞くほどに「一体ここで何が語られているのか」理解したくなる異様な引力を有している。
 冒頭の“Shattered Dreams”からその「異様さ」は明らかだ。アール自らが手がけるビートの中心となるのは歌声の断片と、かろうじてリズムを刻む寡黙なスネアとキック、そしてベースラインなのだが、典型的なビートのイディオムから外れたその作りは、テンポをつかむことさえ困難だ。
 しかし本当に「異様」なのは、アールのラップだ。いや、果たしてこれは本当にラップなのか? いわゆるポエトリーリーディング的なスタイルとは違い、ビートには乗っているのだが、こう言ってよければ、声に「生気」が全く感じられない。それは何度か挿入される「Yeah」の掛け声を聞いてみれば明らかだ。歌もののように声を加工することなく、しゃべり声に近いラップからは、そのラッパーの健康状態を含めた様々な状況が聞こえてきてしまうことを指摘したのはECDだが、こんなにも行き場のない「Yeah」が記録されているラップ・アルバムが、かつてあっただろうか。オッド・フューチャーの一員として、そのラップスキルに脚光が当たり華々しくシーンに登場したアールとは、別人のようなのだ。
 そのような脱力したフロウで語られるのは悲痛な叫びだ。「銃をぶっ放し/銃弾が僕の頭に/なぜ誰も血が出てるって教えてくれなかったの/頼むよ、この夢から覚ましてくれ」とフックで訴え、ヴァースでは、アルコールとドラッグ中毒に溺れる自分を誰も助けてくれなかったことを吐露している。
 曲が進むごとに声のトーンは少し上向きに感じられるものになったり、あるいはフロウも、従来のリズムのしっかりしたラップのそれにシフトしていく。しかし自身の暗部をえぐり出すような語り口は悲痛を極める。“Nowhere2go”で「そう、僕は人生のほとんどを鬱状態で過ごしてる/頭の中にあるのは“死”だけ/いつ自分の番が来るとも分からずに」と歌う彼は、アルバム制作中に詩人である父親を亡くしている。その父への想いは“Peanuts”にしたためられ、そこでアールが強調するのは死の“酸味”だ。そして“Playing Possum”は父親の詩の朗読と、母親がアールについて話しているスピーチを組み合わせ、想像的な両親の会話を構築している。自らの両親との関係性をラップのリリックという形で表現するのではなく、彼らの肉声をそのまま提示すること。ひとりの人間の生に、こんなにも踏み込んだラップ・アルバムが、かつてあっただろうか。
 もしできるなら全体で25分間のひとつのトラックに仕立て上げたかったと、アールは言う。半分以上は自らが手掛けたビートもまた、こわばった表情や、憂鬱さを湛えている。ひきつったミニマルなサンプルの断片たち。それらはシーケンサーによって集積され、結果、やがてそれぞれが1~2分間の塊となる。そしてアールの言葉と絡み合いながら、次々にバトンをリレーしていく。
 これらのビートはその短さや、歪なサンプリングの組み合わせ方から、マッドリブやディラからの影響も指摘されている。たとえばぶつ切りの歌声の断片を中心に据えた“Shattered Dreams”や“Red Water”、そして“The Bends”辺りは確かにディラの『Donuts』収録の“Airworks”や“One For Ghost”を想起させる。通常歌声やストリングスのサンプルは、ラップの声と周波数を食い合う、つまりラップを邪魔しかねない。だからディラはそれらを「ラップしにくい」ビート群だと指摘していた。アールはそのことを逆手に取り、サウンド面でビートに埋もれる自身の声を、文字通り憂鬱の沼に「埋もれゆく声」として示しているのかもしれない。
 ヴィンスがロングビーチのアンビヴァレントな「夏」を描いたように、本作にも「夏」を主題とした曲がある。“Cold Summer”と題されたこの曲で、アールもやはり「低温」の寒いほどの夏を描写する。しかしふたつの夏は、僕たちが「夏」という言葉で呼び表しているひとつの現象に対するふたつの表象に他ならない。それらは真逆のようでいて、実はコインの表と裏なのだ。

 ヴィンスは、ある「社会的な状況」に置かれた人々の現実を、否応無しに代弁する。一方でアールが描くのは、極めてパーソナルな「個」の物語だ。両者は互いの世界の登場人物として、あるいは互いの世界にぽっかりと開いた「穴」として、互いの作品にも現れる。その「穴」を通じて、ふたつの世界は互いに接続され、互いに開かれる。
 ひとつは典型的なコンシャス・ラップでもギャングスタ・ラップでもない形で、ある社会のリアリティを映し出してしまうライムとフロウ。そしてもうひとつは、どこまでも自らの内側へ、内省の方向へとひたすら掘り進む言葉たち。このふたつの作品を自由に往復することは、いま、ラップのリリックを聞くということが一体どういうことなのか、改めて考えてみる契機なのかもしれない。

vol.111 : ヴェジタリアン&ヴィーガン事情 - ele-king

 NYにいると、だいたいどこのレストランに行ってもヴェジタリアン& ヴィーガン・オプションがある。NYは人種のるつぼなので、ヴェジタリアン& ヴィーガンの背景には、宗教的なものもあればアレルギーもあれば、健康上の理由、自分のポリシー、たんに好き嫌いなど、様々な事情がある。

 ミュージシャンにはヴェジタリアン、ヴィーガンが非常に多い。理由はさまざまで、動物を食べるのが嫌だという理由もあるし、健康のためというひともいる。肉は食べないが魚は食べるペスカトリアンもいるし、肉は食べないが卵は食べるなど、いろんな人がいる。彼らはだいたいその食生活を長く続けるので、ヴェジタリアンはみんな似たような顔つきになり、最近は顔を見れば、その人が肉を食べるか食べないか、わかるようになった。人は食べ物でできているわけだ。

 でも、その食習慣を変える人もいる。知り合いで、25年ヴェジタリアン(その間5年ほどヴィーガン)だったひとが最近肉を食べはじめた。理由はツアーが多く、自分の希望のものが各地でなかなか手に入らない、ということだった。「そんな長いあいだ肉を食べなくて、いきなり食べて大丈夫?」と聞くと、「最初は変な感じだったけど、だんだん慣れてきた」という。昔より少し顔つきがワイルドになり、なんだか良い気を持っているようにも思える。
 また、別の友だちはグルテン・フリーダイエットをしている。彼女は、いかにグルテンが身体に悪いかと言うことを長々と話してくれたのだが、たしかに会うたびに、顔が白く、不健康そうになっている気がする。健康上のためというが、普通になんでも満遍なく食べるのがいいんじゃないかな、と私自身は思う。アレルギーがある人は仕方がないが。

 話しは変わりますけど、私がやっているたこ焼きイベントに来てくれるお客さんにもヴェジタリアンは多い。オプションにコンニャクを使うのだが、先日間違えてタコの方を渡してしまった。「ごめん!」と謝ったら、彼女は「これタコだったの? 美味しい」と、タコの方をキープした。アレルギーがあったら、とドキドキしたが、食べれるんじゃん、とまあ、そこまで厳しいヴェジタリアンはそうそう多くはいないのだ。なかにはタコが好き過ぎてタコが食べれないというひともいる。アメリカでは、タコはとても賢く神聖な生き物だとされているから。

 とにかく、NYではヴェジタリアン&ヴィーガンレストランがトレンドだ。スウィートグリーンチョップトなどのサラダ専門店は、ピークは過ぎたが、いまはディグインヘールアンドハーティビヨンド寿司など、一貫したポリシーを持つ、個性のあるレストランが人気だったりする。

 アセンスにいた頃、まわりはヴェジタリアン&ヴィーガンばかりで、同じレストランで同じものを頼む友だちに「いつも同じものを食べて、飽きない?」と質問したことがある。彼は、これが好きだし、自分でもいろいろ作るよ、と他の友だちを誘って、ポットラック・パーティを開いてくれたことがあった。豆腐のラザニア、ケールのお浸し、フェイクミートのチキンウィング、マックアンドチーズなど、肉を使わなくてもこんなにバラエティの富んだ料理ができるんだと感心したことがあった。本当に美味しかったから。

 ウィリアムスバーグに引っ越し当初は、champs diner
というレストランによく通っていた。近所だし、美味しくて、来ている人もオシャレで居心地が良かったので通っていた。でも、そこがヴィーガン専門だと知ったのは少し後だった。メニューには、バッファローチキンやフィリー・チーズステーキ、ルーベン、チーズバーガーまである。しかし、それらがセイタンなどのフェイクミートで作られていると知ったときは本当に驚いた!
 ラーメン屋に行っても、ヴェジタリアン&ヴィーガンオプションは当たり前。昨日行ったラーメン屋では、友だちが美味しそうにベジタリアン味噌ラーメンを食べていて、私も味見をさせてもらった。で、自分の鶏ガラベーススープよりも、美味しいと思ってしまった。いまやヴェジタリアン&ヴィーガン=不味いというのは過去の話で、ヴィーガンスイーツなどはたくさんオプションがあり過ぎて困ってしまうぐらいだ。有名なのはエリンさんのbaby cakeベーカリー
 ちなみに、NYのフードブログ のgrub streetがおススメのヴェジタリアン&ヴィーガンレストランを紹介している。いまの私のお気に入りはSuperiority burger。元パンク・ドラマーで、ファンシーレストランのデル・ポストで、デザートシェフを務めていたbrooks hardleyの新しい冒険。いつ行っても行列で、しょうがないのでテイクアウトにするのだが、彼の手先の器用さはドラムさばきから来ているらしい。ツアーのときに、何もないのでバンドメイトに料理を作ってあげたことからフードの世界に入り、あっというまにアワードを受け取るデザートシェフになったという。そして、自分のヴィーガンバーガー屋をオープンして現在にいたる。働いている人もミュージシャンや俳優などで、そうなるとファンも付いている。まるでショーを見に行く感覚だ。ギャング・ギャング・ダンスのブライアンもこの店のファンで、アルバム制作に影響を与えたとか。たしかに、このフードならわかる気がする。



パンク・バンドのドラマーからヴェジタリアンフードのシェフになって成功したブルックスのお店、Superiority burgeの展開です。

Tsudio Studio - ele-king

 80年代は終わらない。よって90年代は訪れない。夢想のなかにある架空の世界のおとぎ話だ。

 この世界では神戸の震災もこない。オウム事件も存在しない。不況の訪れもない。山一証券の破たんもない。悪趣味ブームは訪れない。小室哲哉はTM NETWORKを続け、金色の夢を見せ続けてくれている。フリッパーズ・ギターはファースト・アルバムで解散する。よってヘッド博士は存在しない。ピチカート・ファイヴはファーストアルバムを遺して活動を停止した。渋谷系は訪れない。80年代が継承され、ニューウェイヴが洗練と革新を極めて、AORは都市の夜を美しく彩る。WAVEは閉店せず、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカなど世界中の音楽がいつまでも並べられている。バブル経済ははじまったばかりで、そして永遠に終らない。

 この並行世界では、日本経済は安定成長を続け、雇用は安定するだろう。人びとは高度消費社会を満喫する。世界から輸入された商品たち。おいしい食べ物。美しい芸術。街は煌めく。ウィンクしている。人は笑う。ときに泣く。文化芸術は豊かに存在し、音楽は美しく、映画が心を満たす。デパートに多くの人が訪れ、セゾン文化を謳歌する。ヨーロッパ映画が次々にシネヴィヴァンやシネセゾンで上映され、レコードショップには海外の音楽が次々に輸入される。パステルカラー。品の良いファンシー。ポストモダン。知的な意匠。美しい装丁の本。アート。鑑賞。フリーランスのデザイナー。ライター。カメラマンたち。ああ、空間デザイナー。
 人びとは苦しまない。人びとは生きる。人びとは死なない。微かな悲しみと喜びがプラスティックなムードのなかで炭酸水のなかに消えていく。80年代が永遠に続く。街には小さくて小奇麗なファッション・ショップ、レコード店、文房具屋、クレープ屋、カフェが存在する。ブラウン管のテレビジョンが青く光る水槽のように永遠に光を放つ。虚構の80年代。夢想。いうまでもなく。

 インターネットでTsudio Studio『Port Island』を聴いた。どうやら「架空の神戸」を舞台にした音楽らしい。ここには80年代的なイメージの欠片が、「金色の夢」のように、全6曲にわたって展開していく。私は泣いた。
 リリース・レーベルは、「ele-king」への寄稿でも知られる「捨てアカウント」が主宰する〈Local Visions〉だ。〈Local Visions〉は記憶のなかにあるポップの魔法をヴェイパー的な意匠を存分に受け継ぎつつも、しかし日本独自のポップとして生成し続けていることですでにマニアに知れ渡っており、今年すでにfeather shuttles forever『図上のシーサイドタウン』、Utsuro Spark『Static Electricity』の2作をすでにリリースしている。この速度。まさに時代のムードを象徴するレーベルといえよう。OPNによる悲観的未来とはまた別の電子音楽の現在である。

 Tsudio Studio『Port Island』は、2018年にリリースされたアルバムである。たとえるならエレクトロニックなトラック&エディット・ヴォーカルによるモダン・AORか。10年代後半の洗練されたエレクトロニック・トラックと胸締め付けるコードとメロディと加工されたシルキーな声。都会の彩りを添えるような瀟洒なサックス、ファンキーなベース、軽やかで端正なビート……。たしかに「ヴェイパーウェイヴ」に強い影響下にあるのだろうが、まずもってポップ音楽として美しい。
 Tsudio Studioは「日本のポップ・ミュージックを大胆に引用(サンプリング)するヴェイパーウェイヴ」から影響を受けながらも、日本人として「欧米の強い影響下にあった日本独自の「戦後」ポップ・ミュージック」を再構築するという極めて日本的な「捻じれ」を引き受けているのだ。しかし90年代的サブカルのようなシニカルな優位性を担保するような振る舞いに陥ることもない。希望と夢想の音楽をまっすぐに創り上げている。私はここに感動した。私見だが、このポップへの希求は高井康生によるAhh! Folly Jetが2000年にリリースした『Abandoned Songs From The Limbo 』を継承するような「80年代的なもの」への希求を強く感じた。いや、むろん何の関係もないのだが。低級失誤が手掛けたアートワークも本作の80年代的なクリスタル・イメージを実に見事に表象する。

 本アルバムにはこんなインフォメーションが添えられている。

 このアルバムの舞台は神戸ですが
 架空の神戸です
 不況も震災も悲惨な事件なんて無かった
 都合の良いお洒落と恋の架空の都市

 ああ、もうこの一文で泣ける。トーフビーツの後継者? ピチカート・ファイヴ『カップルズ』の2018年における継承? 失われた80年代を夢見るロマンティスト? いや、それだけではない。ここにあるのは、この音楽を生んだ若い音楽家が、この世に生れる以前に失われた世界の物語であり、夢であり、かつての光であり、ここにあってほしい煌めきでもあるのだ。
 では、この音楽は夢なのだろか。最後の希望なのだろうか。絶望の果てに生れた夢のようにロマンティックな音楽だろうか。ここにあるのはすべて美しい世界だ。哀しみの涙もクリスタルなダイヤモンドの欠片のように、透明な星空のように、ただただ綺麗なのだ。街が美しく、ヒトには人の心があり、やさしさがあり、思いやりもあり、ほんの少しの哀しみがあり、別れがあり、再び朝がくる。

 むろん虚構だ。しかしこんな「世界」が、いまの日本にあれば、私たちは今日も美しい涙と刹那の笑みで生きられた。だが現実は違う。いや、だからこそ、この音楽は生れたのではないか。いま、〈Local Visions〉の音楽が、この国の、この街にあること。Tsudio Studio『Port Island』があること。つまりは希望だ。
 そう、『Port Island』は、極めて同時代的な音楽なのだ。パソコン音楽クラブのアルバムやトラックとの同時代的な共振は言うまでもなく、あの山口美央子の新作(!)『トキサカシマ』と並べて聴いても良い。『Port Island』と『トキサカシマ』には世代を超えた共振がある。また、インターネット経由で海外の音楽ファンにも知れ渡った竹内まりや“プラスティック・ラヴ”と繋いで聴いても良いだろう。

 初期ピチカートをモダンなエレクトロニック・トラックと、AOR的なコード進行で生まれ変わらせたようなM2“Azur”とM4“Snowfall Seaside”。AORとモダンなファンク・アレンジが夢のようにクールで、まるでヴェイパー的に紛れ込んだ角松敏生のようなムードが堪らないM3“Port Island”(サックスが最高!)。80年代の細野晴臣のようなインスト・トラックで、まるで「ホテル・オリエンタル」のロビーで流れる音楽のように響くM6“Hotel Oriental”。

 これらの脳内に溢れんばかりに降り注ぐ架空の都市の光を存分に摂取/聴取して頂きたい。『Port Island』は、ポップ・ミュージックの魔法などではない。魔法と化したポップ・ミュージックの粒子なのだ。

Carpainter - ele-king

 昨年設立6周年を迎え、果敢なリリースとパーティでどんどん新たなリスナーを獲得していっているレーベル、〈TREKKIE TRAX〉。その創設者のひとりでもあるDJ/トラックメイカーの Carpainter が新作となるミニ・アルバム『Declare Victory』を2月22日にリリースする。全体的にレイヴィな感触で、スピーカーでもヘッドフォンでもアガること間違いなしの内容だ。現在“Mission Accepted”が先行公開されているけれど、同曲の Otira によるリミックスおよび、おなじく『Declare Victory』収録の“Sylenth Warrior”がポーター・ロビンソン(ヴァーチャル・セルフ名義)のDJセットにフィーチャーされるなど、すでに海外でも注目を集めている。これは要チェック!

Carpainter - Declare Victory

『仮面ライダーエグゼイド』オープニング・テーマ、三浦大知“EXCITE”を共同作曲・編曲し、オリコン1位を獲得するなど、着実にそのキャリアを歩んでいるDJ/トラックメイカーの Carpainter、彼のニュー・ミニ・アルバムが自身が主宰する〈TREKKIE TRAX〉よりリリース!

本作は Carpainter の得意とするジャパニーズ・テクノの回帰と昇華を引き続きテーマに、テクノ・レイヴ・ブレイクス、そして現行のフューチャーベースともミックスした音源を集めたレイヴィーなミニ・アルバム。

Remix には新進気鋭のテクノ・ミュージック・アーティスト Otira を起用し、ハード・テクノ・テイストの Remix をも収録!

既にグラミー賞でもノミネートした Porter Robinson の別プロジェクト、Virtual Self の最新DJセットにもEP収録曲が2曲もプレイされており、リリース前から全世界から称賛を受ける注目の1作となっている。

Carpainter - Declare Victory
発売日 : 2019/2/22
価格 : 1,350yen

Track List
1. Transonic Flight
2. Declare Victory
3. Mission Accepted
4. Enrichment Center
5. Sylenth Warrior
6. Wut U Tryin
7. Noctiluca
8. Future Folklore
9. Mission Accepted (Otira Remix)

iTunes、Bandcampで発売
Apple Music、Spotifyなどの各種ストリーミング・サービスでも配信!
配信URLまとめ : https://smarturl.it/CarpainterDeclareV

iTunes : https://itunes.apple.com/jp/album/declare-victory/1451190075
Bandcamp : https://trekkietrax.bandcamp.com/album/declare-victory
Spotify : https://open.spotify.com/album/0XMFwTtdAQZW0XpZJGAoCc

Carpainter
横浜在住の Taimei Kawai によるソロ・プロジェクト。Bass music / Techno music といったクラブ・サウンドを軸に制作した個性的な楽曲は国内外問わず高い評価を得ており、これまで自身の主宰するレーベル〈TREKKIE TRAX〉や〈Maltine Records〉よりEPをデジタル・リリース、2015年にはレコード形態でのEPやCDアルバムをリリースするなど、積極的な制作活動を行っている。
またポーター・ロビンソン、tofubeats、初音ミク、東京女子流、カプコンといったメジャーアーティストにRemix提供など行っているほか、人気マンガ家 浅野いにお がキャラクターデザインを務めた映像作品「WHITE FANTASY」では全編において楽曲を提供。2016年には『仮面ライダーエグゼイドの主題歌』である、三浦大知の“EXCITE”の作曲・編曲を共同で手掛け、同楽曲はオリコン・シングルチャート1位を記録した。
その勢いは国内だけにとどまらず、フィンランドの〈Top Billin〉、イギリスの〈L2S Recordings〉〈Heka Trax〉〈Activia Benz〉、カナダの〈Secret Songs〉やアメリカの〈Hot Mom USA〉など、諸外国のレーベルからもリリースを行なうだけでなく、イギリスの国営ラジオ局「BBCRadio1」や「Rinse.fm」「Sub FM」でも楽曲が日夜プレイされている。またアメリカ、オーストラリア、中国や韓国でもDJツアーも敢行した。
2016年からは自身の楽曲により構成されたLive Setもスタートし、ライヴ配信サイト「BOILER ROOM」での出演などを果たしている。
ほかにも、m-flo の ☆Taku Takahashi が主宰する日本最大のダンス・ミュージック専門インターネットラジオ局「block.fm」では、レーベルメイトと Bass Music を中心としたプログラム「REWIND!!!」のパーソナリティも担当しているなど幅広く活動している。

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音響から環境へ、あるいは即興性へ──ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』に寄せて

おそらくは、われわれは皆、ベートーベンの第六交響曲(田園)ではなくて、実験的なノイズ音楽を聞くようになったほうがいい。 ──ティモシー・モートン(1)

 それ自体が即興的/断片的に綴られた『〈即興〉ノート』のなかで音楽批評家の間章は、即興をめぐる議論の神秘化を避けるための具体的なモデルとして、デレク・ベイリーの即興演奏とシュルレアリスムにおける自動筆記を挙げていた(2)。時代もジャンルも異なるこの二つの「モデル」を列挙したことは、意識に介入/検閲されることのない無意識の表出を自動筆記が目指していたように、即興演奏においてもまた、抑圧された無意識の領域を解放することが肝要であるという捉え方として受け取ることができる。それは他方では、意識に浸されることのない無意識を意識化できるということが前提になっており、作曲が意識的作業だとするならば、作曲に侵されることのない即興演奏、つまりは純粋かつ自然な即興行為を言祝ぐ価値観のもとにあるようにも思える。だがそれは截然と区別された「人間と自然」という二元論から「自然」を対象化するという、あまりにも人間的な視点に立ってはじめて言い得ることなのではないだろうか。そうではないはずだ。おそらく即興的実践は、演奏され聴かれるそのときにはすでに、いくらか「作曲」されてしまっている。

 『自然なきエコロジー』の著者ティモシー・モートンは、エコロジーをめぐる思想が為すべきことは通常言われるところの自然へと回帰することではないばかりか、自然的なるものに言及しようとした途端に本来あるはずの「自然」を捉え損ねてしまうと警鐘を鳴らしている。たとえば彼は次のように述べる。

 「自然なきエコロジー」は、「自然的なるものの概念なきエコロジー」を意味している。思考はそれがイデオロギー的になるとき概念へと固着することになるが、それにより、思考にとって「自然な」ことをすること、つまりは形をなしてしまったものであるならなんであれ解体するということがおろそかになる。固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではないエコロジカルな思考は、したがって「自然なき」ものである。(3)

 かたちあるものの解体という「自然」な思考は、それがイデオロギー的になり概念へと固着することによって阻まれてしまう。そうではなくエコロジカルな思考においては「固定化されることがなく、対象を特定のやり方で概念化して終えてしまうのではない」ようなプロセスが必要とされる。であるがゆえに対象化された自然概念はもはや「自然」ではない。わたしたちが環境について語ろうとするとき、多くの場合は「自然」を前景化し中心へと呼び出すものの、まさにそのことによってわたしたちをとりまく背景としての「自然」は雲散霧消してしまう。しかしながらエコロジーの思想はこの「自然」にこそ接近しなければならないだろう。ここには人間とは明確に区別された客体としての自然を保護しようとする旧来のエコロジー運動や、自然のために人間の死をも受け入れなければならないとする全体主義的な環境至上主義(ディープ・エコロジー)とは異なる視座がある。「自然なきエコロジー」とはつまるところ、意識化に固着することなく無意識を捉える試み、より正確に言うならば、環境を対象化することなく「とりまくもの」として感得する試みのことなのだ。

 1968年に英国ロンドンで生まれ、現在は米国テキサス州ヒューストンのライス大学で教鞭を執っている人文学的環境学者ティモシー・モートンは、2007年に刊行された彼の実質的なデビュー作『自然なきエコロジー』のなかで、こうした「自然」をいかにして語るかという問いを追求している。エコロジカルな思想、つまり環境について考えることがなぜ必要なのかといえば、グローバルな規模で発生している環境汚染や地球温暖化、あるいは度重なる異常気象などによって、わたしたちがこれまで自然なものとして自明視してきた環境が、否応なく思考せざるを得ない対象として迫り来る状況が訪れているからである。むろんこれまでにもエコロジーをめぐる思想は少なくない議論を積み重ねてきているのだが、本書のユニークな特徴として、エコロジーについて語るために数多くの芸術的実践を、たとえばロマン主義時代の小説や詩から、20世紀の前衛的な芸術あるいは大衆的な映画、さらにとりわけジョン・ケージ、リュック・フェラーリ、アルヴィン・ルシエ、フェリックス・ヘス、AMM、デイヴィッド・トゥープといったいわゆる実験音楽やノイズ・ミュージックなどの先鋭的な音楽実践を引き合いに出していることが挙げられる。それは固着化した「自然的なるものの概念」に対して芸術が流動的かつ非概念的な領域をもたらすからに他ならないが、同時に単なる美的なるものは固定化と概念化の発生源にもなりかねない。この危うい道筋をいかにして通り抜けていけばよいのか。そこで鍵概念となるのが「アンビエント詩学」である。

 アンビエント詩学は「とりまくもの」を通して「自然」へと接近するための手がかりである。ラテン語の「どちら側にもあること」を意味するamboが語源になっている「アンビエンス」は、「周囲のもの、とりまくもの、世界の感覚」といった意味を有するが、それはモートンによれば「なんとなく触れることのできないものでありながら、あたかも空間そのものに物質的な側面があるかのごとく(……)、物質的であり物理的でもある」(4)という。わたしたちをとりまく「アンビエンス」は、物体として、あるいは通常の意味での客体として触れることができるものではないが、非物質的な想像上の産物であるわけでもなく、むしろ空間がそうであるように物質的かつ物理的なものである。それはわたしたちが無視し得る背景であるとともに注意深く気にかけることのできる実在でもあり、この意味でブライアン・イーノの提唱したアンビエント・ミュージックを強く想起させる。環境を遮蔽するBGMであるミューザックとは異なりアンビエント・ミュージックが環境の独自性を際立たせるとき、そこにはモートンが言うところのアンビエンスが浮上するだろう。そしてモートンはアンビエント詩学の重要性をその「当惑させる質感」に見出していく。「アンビエンスの当惑させる質感は、私たちを越えたところには「外側」としての自然と呼ばれる「もの」があるという信念を麻痺させ、作動できなくする」(5)。アンビエント詩学に触れるとき、わたしたちは自然や環境を「外側」として受け取るのではなく、むしろわたしたちの内部にさえ浸透した「とりまくもの」としてのありようを垣間見る。

 ここにはアンビエント詩学としての芸術的実践を通して、人間の眼差しによって客体化された自然を相互包摂的に人間へと取り込み、「人間と自然」という二元論が瓦解する瞬間にわたしたちが立ち会うだろうことへの感覚が伺える。そしてモートンはそのような「とりまくもの」を語るための準備段階として、アンビエント詩学の主要な要素であるという「演出」「中間」「音質」「風音」「トーン」といった用語を検討していく。たとえば「中間的なもの」について彼は次のように述べている。

 中間的な言明によって指し示すことのできるメディアの一つが、声か書くことそれ自体の、まさにその媒質である。音楽の音は、たとえばバイオリンという媒質によって聴くことができるようになるので、中間的な音楽の一節を聴くとき私たちは音の「バイオリンらしさ」つまりは音質を意識するようになる。(6)

 話し声を「中間的なもの」として捉えるとき、わたしたちは声が運ぶ言語的なメッセージではなく声の肌理とも言うべき音の響きに、あるいはそれが鳴り響く身体や空間に、意識を向けることになる。同じように「中間的な音楽」においては、メロディやハーモニー、リズムといった記号化し得る要素よりも、まずはその音楽を可能ならしめている媒体としての音質、つまりは音響が聴き手に意識される。ここからは90年代からゼロ年代にかけて音楽とその周辺で交わされてきた、いわゆる「音響をめぐる言説」と非常に近い議論がなされているようにも読める。音響をめぐる言説、つまり音楽から切り離された即物的な響きとしての音を介して、非音楽的なノイズの探求や聴くことおよび空間を問題化した議論においては、まさしく音楽を可能ならしめている条件としての媒質に焦点が当てられたのだった(7)。モートンが指摘しているように、「私たちがノイズと考えるものと音楽と考えるもののあいだの境界をまさに無効にしようとする実験的なノイズ音楽は、音質(timbre)に関心を寄せる。ケージのプリペアド・ピアノは、ピアノの物質性に気づかせてくれる。(……)逆に、音の持続する振動や持続低音は、振動が起きているところである空間に気づかせてくれる」(8)。楽器が音楽のための道具である以前に備えている物質性、あるいは音が音楽のための記号である以前に満たされている空間性。それらはわたしたちがなにを音楽と呼び、なにを音楽ならざる背景もしくは雰囲気と呼んでいるかの区別に揺さぶりをかけていく。アンビエント詩学としての実践はまずもって「背景と前景のあいだの通常の区別を掘り崩す」(9)

 さらにモートンが「コミュニケーションが起きている媒質を指摘することは、コミュニケーションを中断させることである」(10)と述べるとき、それは音響的な即興演奏における丁々発止ではないやり取り、反応の拒絶、無関心を装った演奏の並走状態といった特徴を想起させる。音響的な即興演奏では、それが起きているところの媒質すなわち音響が前景化することによって、非対話的な演奏へ、つまりはありふれたコミュニケーションの中断へと進んでいったのだと解釈することもできるだろう。『自然なきエコロジー』は2007年に刊行されているが、ここ日本に限っても同年に音響的即興に関する論争が収録された大谷能生『貧しい音楽』と北里義之『サウンド・アナトミア』が、前年には音響派を90年代から取り上げてきた佐々木敦による聴取論『(H)EAR』、翌年には音楽家としての立場から音響と聴取を論じた大友良英による『MUSICS』が刊行されるなど、いわば「音響をめぐる言説」の総括の季節でもあり、こうしたことを踏まえるならば、モートンの思想からは時代の機運のような側面も感じられるように思われる。

 とはいえ言うまでもなくモートンの議論を「音響をめぐる言説」へと収束させることはできない。後者はあくまでも特定の時代におけるある種の音楽の傾向を語るなかから浮かび上がってきたものだからだ。それに対してモートンの思想は小説、詩、絵画、映画と時代も領域も縦横無尽にわたり歩きながら「自然」に関わるための術を探っていく。いわば「音響をめぐる言説」の汎用化である。それだけでなく、モートンがアンビエント詩学を通して考察するのは、音響をも含み込んだ環境へと接近するためだということを見落としてはならない。たとえばモートンは米国実験音楽の作曲家アルヴィン・ルシエが1969年に手がけた「I Am Sitting in a Room」──パフォーマーが椅子に座りながら「わたしは部屋で座っている」という言葉を発し、それをその場で録音したものを同じ部屋でスピーカーから再生するとともにまた録音する、ということを繰り返していく作品──について次のような解釈を与えている。

 作品は、言葉と音楽のあいだの、音楽とまったき音のあいだの、そしてつまるところは音(前景)と雑音(背景)のあいだの揺れ動く余白に位置している。事後的に、私たちは、過程のそもそもの始まりから部屋が声において現前していたことを知ることになる。声はつねにすでにその環境において存在していた。(11)

 重要なのは音楽の媒質から響きの肌触りや聴くことの称揚へと向かうのではなく、「声はつねにすでにその環境において存在していた」と捉える点だろう。それはモートンがアンビエント詩学の根本的かつ基本的な性格とする「再‐刻印」のきわめて洗練された在り方とも言える。声の録音と再生を繰り返すことから次第に空間の周波数特性が顕在化し、声は靄のようにくぐもってかたちなき響きへと融解していくこの作品では、空間の特性としての環境を漸次的に増幅することで事後的に声がはじめから環境とともにあったことを明らかにする。すなわちパフォーマーが語る声はつねにすでに環境において存在するのであり、そして声と環境のどちらが先でもないという点で環境に刻まれた声は起源ではなく差異と遅延を孕んだ痕跡である。もちろん声が「再‐刻印」であること自体はこの作品に限ったことではない──あらゆる声はつねにすでにその環境においてしか存在し得ないだろう。だがそのような環境のありようは普段は聴こえないものとして隠されているのである。さらに言うなら録音と再生の自己言及的な反復は、同一の空間であっても僅かな差異を増幅することで実演の度に異なる相貌を明らかにするのであり、この意味で環境のありうべき潜在性を仄めかしてもいる。いずれにせよ音楽が環境とともにあり、あるいは環境が音楽において現前することは、音楽とその環境という二項対立が崩壊する瞬間をわたしたちに聴かせることになる。だがそうであるからこそモートンは二元論を放擲し一元論へと還元することもしない。アンビエント詩学とされる芸術的実践は「内と外の差異を実際のところは解体しない」(12)のである。

 モートンのこのような思想からは、意図されざる響きとしてのサイレンスを音楽の主要な要素として取り込んだジョン・ケージや、その仕事を引き継いで何の変哲もないかのような録音に突如として録音メディアの不透明性に気づかせる仕掛けを施したリュック・フェラーリ、あるいは観客が会場空間に介入することによる微細な変化を電子音やオブジェによって可聴化/可視化したフェリックス・ヘスなどについても、同様のアンビエント詩学を湛えていると言うことができるだろう。それらはどれも音楽がおこなわれるところの条件としての環境──サイレンス、録音物、会場空間──に言及する。だが普段は隠されている環境に言及することは、それが見られ聴かれるものとされた途端に、環境であることをやめてしまうということを忘れてはならない。それを「自然なき」ものとして感得するためには、音楽の条件としての環境を明らかにすることそれ自体を概念化するのではなく、なおもその環境が流動的であるような曖昧さのうちに留まらなければならない。

 モートンはアンビエント詩学の作品について「知覚しえないものを知覚できるものにしつつ、その知覚しえなさのかたちを保つ」(13)とも述べている。知覚しえなさのかたちを保つとはどのようなことだろうか。モートンはこのような「かたち」について「自由即興を思い起こさせる」(14)という。体系化されたジャンルの技法に基づくことのない自由即興においては、あらかじめ決められた「かたち」の再現ではなく、手探りの状態でその時その場に生成するいわば「かたちなきかたち」を試みる。それはつねに事後的にしか結果がわからないような意想外な出来事へと、つまりは未知のものの領域へと突き進んでいく。だが未知のものが引き起こされた途端に、わたしたちにとってそれは既知のものになる──現在ではジャンルとしての「自由即興」が再現可能なスタイルと化しているように。そうではなく自由即興をその本質──いわばその即興性──において捉えるならば、それは既知のものと化したうえであらためて未知のものを探っていく試みだと言わねばならない。こうした未知のものと既知のものの往還運動が自由即興にあるのだとしたら、それはモートンが言うように「未知のものを既知のものにすることを欲する」(15)のであり、同時に「未知のものの特質である、当惑させる不透明性を保持しておくことをも欲する」(16)ことになる。自由即興における「かたちなきかたち」が事後的に未知のものであることをやめ、ひとつの「かたち」として既知のものに変化することは、自然について語ろうとした途端にそれが「自然」であることをやめることにも似ている。

 私たちが自然を真正面からみるとき、自然はその自然性を失う。私たちにはそれをただ歪像として垣間見ることができるだけである。歪みとして、形のないものとして、あるいは他のものがその形を失う状態として。この「かたちなきもの」が、エコロジカルに書くことの形式そのものである。(17)

 自由即興と銘打っていれば無条件で「即興性」をもたらすのではない。むしろ自由即興を真正面から──どれほど複雑であろうとメロディ、ハーモニー、リズム、音色などに還元された静的な構造を──聴き取るとき、演奏はその「即興性」を失ってしまう。わたしたちは「自然」を歪像として垣間見るように演奏の「歪み」を聴き取らなければならない。そしてそのように垣間見られた音の歪像こそがモートンに自由即興を想起させた「かたちなきもの」なのだろう。実は即興的実践に関してモートンは別の著作で興味深い一節を書き残している。本書の訳者である篠原雅武が2016年に刊行した『複数性のエコロジー』では、モートンとの直接の対話からアンビエントの議論を語根を同じくするアンビギュイティすなわち曖昧さ──「硬直性、二元論、首尾一貫した確定状態において消されてしまうもののこと」(18)──の議論へと接続していた。そしてモートンは「この曖昧さを、たとえば即興という表現行為との関連で指し示す」(19)のである。その一節として篠原はモートンによる2013年の著作『リアリストマジック』における次のような文章を引用している。

 即興とは、デリダが指摘したように、読むことと書くことが容易に区別できなくなっている状態で、読むことである。(20)

 わたしたちはふつう、読むことと書くことは別の行為だと考えている。だが文章を読解しあらたに何かを書き起こすとき、読むことは書くことへと入り込み、また、書くことによって、もとの文章には読むことのいわば痕跡が残される。あるいはもっと素朴にこう言ってもいいだろう。なにがしかを書いているとき、わたしたちは書かれつつあるその文章を読んでもいるはずなのだ。事前に書くべきことを決定しているならともかく、わたしたちは書きつつ読み、読みつつ書き、そしてついに思いもよらなかったことを書き出してしまうこともある。それはきわめて即興的な行為と言い得る。即興演奏に比すべきは、読むことなく自由連想法的に書き続けていく自動筆記ではなく、むしろ「読むことと書くことが容易に区別できなくなっている状態」だったのではないだろうか。

 そしてこれを音楽において考えるならば、音を発することと聴くことが容易に区別できなくなっている状態で聴くことである、と言い換えることもできる。あらかじめ発する音が決められた演奏行為においては、聴くことと発することはあくまでも区別されたものとしてある。極端なことを言うならば、そこでは聴くことがなかろうとも「決めごと」に従って音を発しさえすれば、演奏はその目的を完遂することができる。だが音を発しつつ聴き、聴くことが発する音に変化をもたらし、また音を発することが聴くことを変化させていくとき、それはつねに生成変化する「即興性」の本来的なありようを描き出す。ここで重要なのはこうした「即興性」が作曲によって損なわれないばかりか、むしろジャンルと化した自由即興やスタイルとしての即興演奏によって立ち消えてしまうということだ。すなわち自由即興をその「即興性」において捉えるならば、作曲ではない純粋な即興演奏をフォルマリスティックに追い求めていくのではなく、むしろ作曲と即興の区別が曖昧な状態で即興することへと向かわなければならない──そこには必然的に作曲としての契機が織り込まれている。そしてこのように生成変化する「即興性」は、アルヴィン・ルシエの作曲作品における録音と再生や、フェリックス・ヘスの展示作品における装置と観客が、その環境において相互陥入的に影響を与え合い変化していく循環的なありようと類比的なものとして捉えることもできる。二元論を放擲するのではなく、しかし従うのでもなく、アンビエント詩学によっていたるところに現出する二元論の瓦解の瞬間を聴き取り、感じ取ること。そのようなモートンの環境思想は、音楽の条件としての環境に言及するとともに、環境への言及それ自体が曖昧になるような当惑させる質感をともなう「即興性」に、そのアクチュアルな具体性をあらわすことだろう。

 繰り返しになるものの本書『自然なきエコロジー』は2007年に刊行されている。このことの意味は大きい。なぜなら同年に英国ロンドンのゴールドスミス・カレッジでおこなわれた学術会議が、のちにモートンがその文脈で語られることになる思弁的実在論の出発点となっているからである(21)。読まれるように本書には思弁的実在論とその周辺の議論は一切出てこない。だがそのことはかえって、スタイルに当て嵌めてしまっては取り零してしまうようなモートンの思想の深部があらわされた、彼自身のキャリアのなかでも比類なき内容になっているように思う。それは19世紀に蓄音機を発明したトーマス・エジソンが、娯楽として音楽を複製し流通させるという20世紀的な用途をほとんど考えておらず、その代わりに教育やコミュニケーションなど生活の傍で記録と保存を担うといった、いわば20世紀的思考が覆い隠してきた蓄音機の物質的な可能性に触れていたように、本書もまた潮流としての実在論/唯物論以前にあるような、多方向に展開し得る脱人間中心主義的な思考の複数の軌跡が刻まれていることだろう。その痕跡を読み取るにあたって概念とイデオロギーによる硬直化を注意深く避ける必要があることはあらためて言うまでもない。

(註)


(1)  ティモシー・モートン『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』(篠原雅武訳、以文社、2018年)13頁。

(2)  間章『間章著作集 III さらに冬へ旅立つために』(月曜社、2014年)。

(3)  ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』47頁。

(4)  同前書、66頁。

(5)  同前書、354頁。

(6)  同前書、75〜76頁。

(7)  たとえば次を参照。「『音響的即興』再考」(「大胆不敵な音楽の熟達者たち――AMM論」)https://www.ele-king.net/columns/006473/index-4.php

(8)  ティモシー・モートン『自然なきエコロジー』76頁。

(9)  同前書、同頁。

(10) 同前書、74頁。

(11) 同前書、93頁。

(12) 同前書、100頁。

(13) 同前書、186頁。

(14) 同前書、同頁。

(15) 同前書、同頁。

(16) 同前書、同頁。

(17) 同前書、124頁。

(18) 篠原雅武『複数性のエコロジー 人間ならざるものの環境哲学』(以文社、2016年)68頁。

(19) 同前書、同頁。

(20) 同前書、同頁。

(21) 正確を期するならばモートン自身は思弁的実在論ではなくオブジェクト指向存在論の立場を取っている。

AJ Tracey - ele-king

 「グライムの次世代」からオールラウンダーMCへ

 2014年以降のグライム“リヴァイヴァル” のなかで、SNSやインターネット・ラジオでは次世代のグライムMCが頭角を現してきた。ストームジーノヴェリストといった才能とともに注目を集めてきたのがエージェー・トレーシー(AJ Tracey)だ。2012年よりビッグ・ズー、ジェイ・アモらとクルーMTP(My Team Paid)を組み、ヒップホップやグライムのミックステープをリリースする一方、ソロ名義で2015年にリリースした2枚のEP「The Front」「Alex Moran」はグライム・シーンを釘付けにした。

初期のキャリアを決定づけたヒットチューン :
AJ Tracey - Naila

 その後2016年~2017年にはEP「Lil Tracey」「Secure the Bag!」でトラップ色の強いメロディックなトラックにも自在に乗りこなす幅を見せ、昨年にはUSのヒットメイカー、バウワー(Baauer)とのコラボレーションを実現。「AJ Tracey - Butterflies (ft. Not3s)」では、ミドルテンポのアフロビーツを乗りこなし大ヒット、夏のアンセムとしてYoutubeだけで2000万回以上の再生回数を記録した。

AJ Tracey - Butterflies (ft. Not3s)

 数多くの客演やコラボレーションを経て、2019年2月、子ヤギを抱えたジャケットでリリースさえたデビューアルバム「AJ Tracey」は、G.O.A.T (greatest of all time)であることを証明するようにその才能を存分に発揮している。彼がが他のMCと一線を画してきたのは、トラップ、アフロビーツに対応する柔軟なフローと、「グライムMC」であることに囚われないトピックの幅である。
 とくに今作に収録されている“Wifey Riddim”は彼のパーソナリティを示している。自分の元カノやWifey(妻のように真剣な関係な彼女のこと)とのトピックを扱ったこのシリーズは、彼のスピットする本人の経験談、ストーリーが魅力となっている。

  ロンドン、西ロンドン、キングスロード近くのチェルシー
  彼女はエリアの郵便番号に興味もないし、
  彼女が住んでる郵便番号なんて知りもしない
  エセックスの双子は知ってるけど、
  俺のことを求めすぎて無理になった
  言っておくが、俺はそういう人はwifeしない

   Yo, I've got this ting from London West London,
    Chelsea, near Kings Road
   She don't care about my area code
   She's about like she ain't aware of the road
   And I know twins from Essex
   But one of them wants me bad,
   I might dead it
   I don't wife these tings, I'll stress it

“Wifey Riddm” (EP『The Front』より)

 本作に収録されている“Wifey Riddim 3”でも、彼の女性に対する考え方や女性遍歴がスムーズなラップに載せて披露されている。

 これは“Wifey” Pt.3 、
 俺のグッチは「盲目的な愛」って言ってるけど見えないな
 きみは俺のWifeyにはなれないけど、ジーンズを脱いだ姿が見たいな
 これは“Wifey”Pt.3 、俺の携帯を鳴らしまくっても、
 おれは「読む」にしたままだ*
 友だちとはもう終わりだぜ、
 俺はプレイボーイ、いろんなシーンから女の子をゲットする

 *スマホの通知欄にあるメッセージを開かないという意味

 It's "Wifey" part three My Gucci says,
  "Blind for love," I can’t see, yeah
 My girl, you can't be
 But I wanna see you up and out of them jeans, yeah
 It's "Wifey" part three If you’re blowin' up my phone,
 I'll leave you on "Read," yeah
 I'm done with them fiends (Uh)
 I'm a playboy, babe, got girl from all scenes, yeah (Ayy, ayy)
   

“Wifey Riddim 3”

 こうしたトピックを披露するのは、男性らしさ、ハードコアさ、バトル性を追求することの多いUKラップ・シーンにおいて異色だ。比較的スラングの少なくわかりやすい言葉選びとメロディックなセンスは彼の音楽性を高めているが、さらに彼の見た目の醸し出す雰囲気には、父親がトリニダード出身であるというミックスルーツも関係しているかもしれない。彼自身、しばし南国のロケーションでミュージック・ヴィデオを撮影しているが、その姿には見応えがあって白々しく見えない。
 そして最近のラッパーと同じように、プラダやグッチ、バレンシアガ、フェンディといったラグジュアリー・ブランド、またヴィー・ロン(V LONE)やオフホワイト(Off-White)といったUSのストリート・ブランドを言及しているが、そうしたブランド名には引っ張られない存在感を放っている。

AJ Tracey - LO(V/S)ER

 アルバム前半をアフロビーツのミドルテンポな曲が占めるのに対して、アルバム後半にはハードで聴き応えのあるグライムトラックやクラブ映えするトラックが収録されている。
 とくにギグス(Giggs)を客演に迎えた“Nothing But Net”には耳を奪われた。

 奴らはフローについてペラペラ話してるけど
 俺が一番バッドで一番マッド、
 そういうラッパーは俺のつま先に及ばない
 キルしてカマす、あいつらは後ろに下がっとけ
 ラップしまくって、祈ってるって、
 お前は(自分のお葬式の)手向けの薔薇でも用意しときな

 Niggas chattin' and braggin' about flows (Uh?)
 I'm the baddest and maddest, I got these rappers on toes (Woah)
 Killin' and spillin', I hope these brothers lay low
 'Cause I'm sprayin' and prayin', you're gonna have to lay rose (Lay low)

AJ Tracey & Giggs“Nothing But Net”

 高速フローとそれをまったく無理なくはめ込む技量、さらに内容も自分のラップスキルについてラップしながらそのスキルを見せつけるという部分で非常にウィットに富んでいる。客演のギグスに対してもまったく引けを取っていない。  自分の出身地をタイトルにした“Ladbroke Grove”ではUKガラージ・スタイルのトラックのうえを往年のガラージMCスタイルでラップ、コーラスに参加しているJorja Smithのヴォーカルも素晴らしい。

 アフロビーツからクラブ・トラックまで、本作を手がけているトラックメイカーの人選も興味深い。以前UKラップ・プロデューサー特集で取り上げたナイジ(Nyge)やADP、スティール・バングルス(Steel Banglez)、カデンザ(Cadenza)といったUKラップのヒットメイカー、さらにリル・ウジ・バード(Lil Uzi Vert)を手がけてきたマーリー・ロー(Maaly Raw)、アップカミングなMCでもあるマリック・ナインティファイブ(Malik Ninety Five)、グライムのヒット曲をプロデュースしてきたサー・スパイロ(Sir Spyro)、スウェフタ・ビーター(Swifta Beater)、さらにUKガラージのDJ/プロデューサーとして知られるコンダクタ(Conducta)らが参加。幅を持ちつつもバランス感のある人選に彼の賢さが光る。

 前半ではトレンドのアフロビーツを自在に乗りこなし、後半ではグライム、トラップ、UKガラージといったUKクラブ・ミュージックをアップデートする。AJ Traceyのデビュー・アルバムはオールラウンドな才能が存分に発揮した作品となっている。

Nkisi - ele-king

うちゅうろん【宇宙論】
宇宙の起源・構造・終末などについての理論の総称。宇宙を対象とした自然学として哲学や宗教の重要部門をなすが、現在では現代物理学的・天文学的研究をいう。コスモロジー。

 と、『スーパー大辞林 3.0』には載っている。リー・ギャンブルのレーベル〈UIQ〉から、去年のズリ『Terminal』に続くレーベル史上2枚のアルバム『7 Directions』を発表したプロデューサーの意図は、自らがここ数年リサーチを重ねてきたアフリカのバントゥ・コンゴのコスモロジーに着想を得たサウンドの構築にある。
 作り手の名前はアルファベットで「Nkisi」と書いて「キシ」と読む(本人に確認したので間違いない)。「Nkisi」とは、中央アフリカ、コンゴに伝わる、魂が宿るとされるオブジェクトのことである。その名前を自らに宿した作り手の本名は、メリカ・ゴンベ・コロンゴ(Melika Ngombe Kolongo)という。コンゴ出身でベルギーのルーヴェンで生まれ育ち、6年ほど前からロンドン在住。

 アメリカ、ヴァージニア州リッチモンドに拠点を置くチーノ・アモービ、南アフリカのケープ・タウンのエンジェル・ホとともに彼女が2015年に立ち上げたレーベル、あるいは世界に散らばる表現者たちの共同体である〈NON Worldwide〉は、アカデミックな理論、詩、ファッション、チャリティ活動まで様々な表現を横断しまくることによって、音楽シーンに「黒い」衝撃を与え続けている。
 レーベル設立当初のコンセプトをいくつかあげてみれば、「脱中心」、「反バイナリー構造」、「アフロ・ディアスポラ」など、アカデミアで主に使用される言葉が散りばめられている。〈NON〉には中心的リーダーや拠点がなく(脱中心)、白や黒、男と女、正義や悪、といった二元構造(バイナリー)の破壊を希求し、そのパワーの構成員は、奴隷制以降世界に離散していたアフリカにルーツを持った者たちだ(アフロ・ディアスポラ)。よって、〈NON〉は2017年の『Paradiso』で脚光を浴びたアモービのレーベルなどとされることがあるが、それは検討外れであり、個である構成員がその共同体を作り上げている(むしろ、アモービによれば〈NON〉の初期コンセプトの多くを考案したのはキシらしい)。

 キシのここ数年の動きを整理してみる。2015年の〈NON〉の第一弾コンピに “Collective Self Defense”を、2018年の第二弾コンピには “Afro Primitive”を発表している。ソロワークでは、2017年に〈Rush Hour〉傘下の〈MW〉からEP「Kill」を、2018年には〈Warp〉傘下の〈Arcola〉からEP「The Dark Orchestra 」をリリース。そのどれもが高い評価を得ていて、去年の英誌「Wire」年間ベスト・アルバムには「The Dark Orchestra」がEPとしてランクインした。キシの影響元である、ドゥーム・コアやガバがミニマリズムを媒介し、オリジナリティを作り出しており、彼女のDJスタイルにある凶暴性と高速性は、深夜のロンドンのフロアで多くを惹きつけている。
 近年、ロンドンの大学で心理学系の修士課程を修了したキシは写真家やインスタレーション・アーティストとしても活動しており、2018年にはロンドンのギャラリー、アルカディア・ミサで『Resonance (Forced Vibration)』サウンドとオブジェクトを用いた個展を開催している (https://arcadiamissa.com/resonance-forced-vibrations/)。
 そのインスタレーションでもテーマになっていたのが、『7 Directions』も基づいている、冒頭のバントゥ・コンゴのコスモロジーだ。また今アルバムはアフリカ研究の権威であるキムワンデンデ・キア・ブンセキ・フーキオ(Kimbwandende Kia Bunseki Fu-Kiau。著書に『African Cosmology of the Bantu-Kongo: Principles of Life and Living』など)に捧げられている。個展の説明や、先日ロンドンのブリープのポップアップ・ストアで開かれた「Wire」主催のトーク・イベントでの発言によれば、その宇宙の捉え方において、時間は直線系ではなく円系であったり、「見ること」は「聞くこと」であったりと、西洋近代の「宇宙」のあり方とはまったく違うことがわかる。

 今作『7 Directions』はタイトルが示す通り、7曲のトラックで構成され、曲名には「Ⅰ~Ⅶ」の数字が割り振られている。曲順通りに展開していく従来のアルバムの概念をフォローしているというよりは、別々の方向を向いた7つのオブジェクトが序列なく並存している様子が思い浮かぶ。今作のレコード盤のラベルには、レコードの回転方向である「右」とは逆の方向を向いた矢印が、自身の名前をあしらったダイアグラムとともにプリントされており、時間感覚の非論理性が増大されている。特定のコスモロジーを示したダイアグラムはコスモグラムと呼ばれるが、このラベルはそれに該当するだろう。ドレクシアが過去を前方向に押し進め続けているように、キシの円循環は右向きに左の指針を歩む。西洋のコスモロジーが音を立てて崩れていく。そして、そのサウンドとともに聴くものはアフロの宇宙に包まれる。


【『7 Directions』のレコード盤のラベル】

 “Ⅰ”は、ヨハン・ヨハンソンの劇伴を思わせる、霧のかかったフィルターで減退していく持続音ではじまる。同様のアンビエンスのもと、その背後では太鼓が鳴り響き、異なったモチーフのドラムが徐々に追加されていく。メインテーマのシンセとともに、TR-707的タムのビートと、スティックが、プリミティヴな循環を穏やかに描いていく。
 BPMは140に保たれたまま、“Ⅱ”はテープ・ディレイ的な反響音とともに開始。10分にも及ぶトラックの内部において、前半部は楽曲のリズムの骨組みが示されたあと、中盤から一定音を保持したロングトーンのシンセが階層化し、序盤の楽曲構造に最終部では回帰、音像はフェードアウトする。
 “Ⅲ”では速度が上昇し、ここに至るまでに示されたものと類型のリズムを通過したのち、1:44からガバ的な4/4キックが投入される。キシのDJセットで展開される高速のヴァイオレンスへと、自身の音楽的ルーツを提示するようにして、『7 Direction』は接続されてもいるのだ。
 “Ⅳ”では遠方から群衆が攻めてくるのが予感されるようなキックが冒頭で鳴り響き、50秒経過したあと、50-60ヘルツ音域の低音が倍増された低音ドラムが合流し、聴く者の身体を大いに揺さぶる。深いディレイと淡いディストーションがかかったテクスチャーの2種類のメロディ・モチーフが交互に入れ替わって現れる。低域のブレイクはほとんどなく、ドラム・パートの抜き差しが巧妙に行われる。変化と持続と低域の破壊力という意味では、今作最高のダンス・チューンだと断言できるだろう。
 再生される前から楽曲が開始していたことを示唆するようにフェードインではじまる“Ⅴ”は、淡々とループされるモチーフに、断続するスネアがリズムに表情をつける。終部のパーカッションの連打から、シンセ・オンリーのアウトロに息を飲む。
 “Ⅵ”でビートはバウンシーに跳ね上がり、これまでのシンセ・モチーフとの類型がここでも示される。ハイファイにシンセサイズされたパーカッションと衝突を繰り返すスティックがブレイク部分で展開する合奏が、キシ流のダブを彩っている。
 漂流するコードと広域へと押し上げられた金属音で開始する“Ⅶ”では、それぞれが別のリズム軸で進行する歪んだスネアと絃楽器のフレーズが交互に現れ、時にその二つが重なり見事なポリリズムを生む。このアルバムでの標準速度とも言えるBPM140代でトラックは進行し、決して遅くはないスピードであるものの、散発するシンセとポリリズムによって、身体が吸収するその速度感は緩やかになる。僅かなスネアと低域ビートを残し、アルバムは構成上終わりを告げる。

 最近ではベルギー時代の〈R&S〉からリリースされたアフロトランスをフェイヴァリットに挙げているキシだが、典型的なダンス・ミュージックのスタイルは、今作に高い強度を持ったパーカッションの大群に追いやられている。ハイハットもなければ、定位置のスネアもクラップもなく、ビート間のブレイクもほぼない。けれども先日公開された『RA』での彼女のミックスを聴けば明らかなように、『7 Direction』の楽曲はガバやトランスとの混成も可能な潜在性に満ち溢れている。
 現代思想の文脈を鑑みれば、人類学者のフィリップ・デスコラやエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロがアマゾンやアジアのコスモロジーから存在論的転回を起こしたように、我々の宇宙観の「外部」には「内部」を転覆させるような、あるいはその内外の境目など曖昧であることを示唆するような可能性に満ち溢れている。ここではその分析に踏み込むことはできないが、オルタナティヴが無いかのように見える昨今において、多元的な世界を感じる意味を『7 Directions』は日々の視点にも与えてくれるのではないか。

 『ele-king vol.22』のインタヴューで述べられているように、理論を応用し、文化や政治、エコロジーを表現するチーノ・アモービのインスピレーションは日常からやってくる。先日のトーク・イベントでは、それを踏まえた上で「日々の生活はあなたのコスモロジーのどこに位置していますか?」と僕は本人に質問した。彼女によれば、アフリカのコスモロジーは日常の「普通」を疑う自分に妥当性を与えてくれるものだ。コンゴからやってきた両親のもとで、ヨーロッパ社会で育つことは、日常に生活に常に疑問を持つことの連続だったとキシは答える。友人や家族がグローバルに散らばるディアスポラな世界を生きる彼女は、「国境などなくなってしまえばいい」とも力強くいう。キシの日常生活とは異なる宇宙を行き来するメタフィジカルな交差空間だ(彼女のサウンドクラウドに上がっているトラック“Deconstruction of Power”のタグは「metaphysics」だ!)。その意味で『7 Directions』は、異なる宇宙の境目で現代を生きる彼女の宇宙観を示すコスモグラムであるとも断言できるだろう。

The Matthew Herbert Big Band - ele-king

 やはり、きました。2016年の国民投票の結果を受け、ブレグジットに抗議するビッグ・バンドを編成し、各地をツアーしていたマシュー・ハーバート。日本にもおよそ1年前に来日し、ブルーノートで素晴らしいライヴを披露してくれましたが、そのビッグ・バンド名義でのアルバムがついにリリースされます。同作にはEU加盟国出身のミュージシャンが1000人以上(!)も参加しているそうで、さらにはアート・リンゼイの名も。発売日は、イギリスがEUを離脱する3月29日。これまでもさまざまなコンセプトにもとづいて作品を発表してきたハーバートですが、はたして今回、彼はイギリスのEU離脱にたいしどのような試みで対峙しているのか──楽しみです。

The Matthew Herbert Big Band
『The State Between Us』
(ザ・マシュー・ハーバート・ビッグ・バンド/ザ・ステイト・ビトウィーン・アス)
2019.3.29 (金) 発売

★鬼才マシュー・ハーバートがビッグ・バンド名義で約11年振りとなるアルバムをリリース!!
★今回のコンセプトはイギリスのEU脱退に対する抗議! EU全加盟国のミュージシャン、アーティストとのコラボレート・アルバム! 発売日はEU脱退日=2019年3月29日!
★アート・リンゼイ、マルチ・インストルメンタル・プレイヤーであるメルツ、ラヘル・デビビ・デッサレーニ、パトリック・クラーク、ソロ・インストルメンタリストであるエンリコ・ラヴァ、ヴァイロン・ウォーレン、シェイラ・モーリス・グレイ、ナサニエル・クロスら総勢1000名以上のEU加盟国出身のミュージシャンが参加。更に劇作家キャリル・チャーチル、18世紀の英国詩人パーシー・ビッシュ・シェリー、16世紀の詩人ジョン・ダン、更にイギリス独立党の政治家らの言葉が歌詞に仕様されている。今作アートワークにはベルギー出身のフォトグラファー、エヴァ・ヴァーマンデルの写真を基に芸術家サラ・ホッパーがアートワークを制作した。

不動の人気・支持を誇るダンス・ミュージック/サンプリング界の鬼才マシュー・ハーバートがビッグ・バンド名義で約11 年振りとなるアルバムをリリースする。ハーバートは作品毎に設定するコンセプトを基にアルバムを制作しファンを魅了してきた。本作はイギリスのEU 脱退に対して抗議する為に、EU全加盟国のミュージシャン、アーティスト達とのコラボレートで制作された。ハーバートはEU脱退がイギリスの国民投票で決定した後、イギリス、ヨーロッパ、日本をビッグ・バンド編成でツアーしプロジェクトの締めくくりとして本アルバムをEU脱退の日=2019年3月29日にリリースする。

artist: The Matthew Herbert Big Band (ザ・マシュー・ハーバート・ビッグ・バンド)
title: The State Between Us (ザ・ステイト・ビトウィーン・アス)
label: Accidental / Hostess
format: 2CD
cat no: HSU-10288/9
pos: 4582214518947
発売日: 2019/3/29 (金) 世界同時発売
定価: 2,590円+税
■ボーナストラック、歌詞対訳、ライナーノーツ付(予定)

【TRACKLIST】
01. A Devotion Upon Emergent Occasions
02. Fiesta
03. You're Welcome Here
04. Run It Down
05. The Tower
06. An A-Z Of Endangered Animals
07. Reisezehrung
08. Moonlight Serenade
09. Be Still
10. The Words
11. The Special Relationship
12. Where's Home
13. Fish And Chips
14. Backstop (Newbury to Strabane)
15. Feedback
16. Women Of England

https://hostess.co.jp/releases/2019/03/HSU-10288-89.html

【バイオグラフィー】
1972年、BBCの録音技師だった父親のもとに生まれる。幼児期からピアノとヴァイオリンを学ぶ。エクセター大学で演劇を専攻したのち、1995年に Wishmountain 名義で音楽活動をスタートさせる。以降、ハーバート(Herbert)、ドクター・ロキット、レディオボーイ、本名のマシュー・ハーバートなど様々な名義を使い分け、次々に作品を発表。彼の作品はミニマル・ハウスからミュジーク・コンクレート、社会・政治色の強いプロテスト・ポップに至るまでジャンル、内容を越え多岐に亘っている。また、プロデューサーとしても、ビョーク、REM、ジョン・ケイル、ヨーコ・オノ、セルジュ・ゲンズブール等のアーティストのプロデュースおよびリミックスを手掛けている。2010年、本名であるマシュー・ハーバート名義で「ONE」シリーズ3作品(ワン・ワン、ワン・クラブ、ワン・ピッグ)をリリース。2014年には4曲収録EPを3作品連続でリリースしている。そして2015年に『ザ・シェイクス』を発表し HOSTESS CLUB ALL-NIGHTER で来日公演を行う。2016 年、アルバム『ア・ヌード(ザ・パーフェクト・ボディ)』を発表。2016&2017年に開催した HOSTESS CLUB ALL-NIGHTER ではレジデントDJとして2年連続出演、更に2017年にビッグ・バンドとしてモントルー・ジャズ・フェスティバル・ジャパン、ブルーノート・トウキョウ(単独2日間)での来日公演を行った。

Ninjoi. - ele-king

 昨年、Spotify にて最も急成長したジャンルの2位にもなったローファイ・ヒップホップ(別名:チルホップ)。その元祖と言われている存在が、共に故人であるヒップホップ・プロデューサーのJ・ディラとヌジャベスのふたりであり、それはつまりビート・シーンやジャジー・ヒップホップと呼ばれるジャンルとも深くコネクトしていることを裏付けている。今回、ピックアップするニューヨーク・クイーンズ出身のニンジョイも、まさにそのローファイ・ヒップホップのシーンにいる若きアーティスト(現在22歳)のひとりであり、昨年末にリリースされた彼のこの最新作『Masayume』を聴けば、彼もまたJ・ディラやヌジャベスから多大な影響を受けているのが分かるに違いない。
 少し話は逸れるが、ニンジョイは昨年、二度来日しており、その際に共通の友人の紹介で本人とも出会い、何度か音楽の話をする機会があった。10代半ばでDJを始めたという彼は、その後、ビートメイキングをスタート。60年代、70年代のジャズ(一部、日本のジャズ・ミュージシャンも含む)や彼にとっては非リアルタイムなひと昔前のヒップホップをディグし、さらにアニメ好きということも手伝って、『サムライチャンプルー』からヌジャベスを知ったのも彼にとってはごく自然な流れであった。冒頭に彼をローファイ・ヒップホップのアーティストとして定義したが、実は彼の音楽性の本質はジャジー・ヒップホップであり、ヌジャベスの存在がその一因であるのは言うまでもない。一方で、彼にとってのインスピレーションの源は古い音楽のみだけではなく、ビート・シーンなど現在進行形の様々な音楽ジャンルにも精通しており、良い意味で、若さゆえの柔軟性が彼の音楽の多様性を生み出している。ちなみに「ninjoi.」というアーティスト名は「忍者」と「enjoy」を合わせた造語であり、彼の作品タイトルにも日本語が多用されていることからも分かるように、日本のカルチャーも彼の音楽を構成する大事な要素になっている。
 約5年前から SoundCloud や Bandcamp を通じて作品の発表を開始し、2017年にはEP「Benkyo」をリリース。続いて昨年2月にリリースされた2作目のEP「Kami Sama」を経て、ようやく完成したファースト・アルバム『Masayume』。実は作品のヴォリュームという意味では、前2作のEPと今回の『Masayume』はさほど変わらない。しかし、彼自身が本作をファースト・アルバムとあえて呼ぶのは、3作目にしてようやく自らが思う完成度の高さに達したという、自信の表われでもあるだろう。文字通りのローファイな質感のビートにピアノや生楽器のメロディが乗ることで完成する、メロウネス溢れるグルーヴ感。特に彼のサウンドの特徴となっているのは、サンプリング、あるいは一部自ら弾いているというピアノの美しい旋律の部分にあるが、そこにはある種のノスタルジーを想起させる、言葉では表せない何かが存在している。この強く感情を揺さぶられるような感覚は、今回の『Masayume』は前2作を大きく上回る。加えて、本作をより完璧なものにしているのが、特にアルバム後半部分で大々的に披露されている彼自身のヴォーカルだ。シングルカットもされた“Cigarettes”を筆頭に、ジャジー・ヒップホップやローファイ・ヒップホップというカテゴリーを超えた、彼自身の音楽性のさらなる広がりが強く感じさせてくれるヴォーカル曲は、本作をより魅力的なものにしている。
 ちなみにアルバムジャケットのイラストを含めて、作品のアート・ディレクションも彼自身が手がけており、さらに最近ではバンド編成でのライヴも模索しているというニンジョイ。まだまだ知る人ぞ知るという存在であるが、彼の溢れ出る才能が大きく花開く日も近いのではないかと、彼の友人のひとりとして大いに期待したい。

interview with Masato Matsumura - ele-king

 前衛音楽という言葉を用いることにはどこか抵抗感があった。理由は二つある。一つ目は狭義の「前衛音楽」に関するものだ。そこでは結果の確定できない音楽を指す「実験音楽」と対比されるものとして、音の結果をどこまでも管理する西洋芸術音楽の理性の結晶のようなものとして「前衛音楽」は使われていた。そこに仄見えているある種の思い上がりとも言える優越心に嫌悪感があった。それに進取の精神に富んだ音楽実践であったとしても、必ずしも西洋芸術音楽の文脈に基づいているわけではない。にもかかわらず「前衛音楽」と名指した途端に、こうした理性的表現を追求する西洋由来の価値観に従うことになる。それは音の具体的実践を捉え損ね、ただひたすら権威におもねることになるだろう。そして二つ目は広義の「前衛音楽」に関わるものだ。より一般的に言って、「前衛音楽」とは「難解」「高尚」「奇妙」「異常」などとされる音楽の総称を指している。ここで「前衛音楽」はもはや実質を欠いた記号と化していて、そのラベルが嫌悪の対象に安易に貼られることもあれば──そこには「正統なるこちらの音楽」を安定的に維持しようとする欲望があるのだろうが──、その裏返しとして、この記号に吸い寄せられて個人的嗜好を満たす者もいるだろう。パブロフの犬のように反射的に拒むのも浸かるのもそれとしては構わないのだが、記号へと還元された言葉は内容を欠いて空虚であり、それは当の音楽の実際を示し得ない。どちらの意味においても「前衛音楽」には近寄りがたいところがあった。

 『Tokion』『STUDIO VOICE』にて編集長を務め、各所で尖鋭的な音楽について執筆してきた松村正人による待望の単著『前衛音楽入門』は、こうした「前衛音楽」の意味をあらためて問い直し、その歴史を辿り直していく。むろん本書はまずもって万人に向けて開かれた入門書であり、前衛音楽なるものを知るきっかけとしても、あるいは教科書として学ぶためにも活用し得るだろう。しかし20世紀の前衛を眺めることは単なる懐古趣味ではなく、その核たる部分では、使い古された「前衛音楽」という言葉をもう一度肯定的に捉え返し、これからの時代へと差し向けるように読者を誘っていく。本書では軍隊用語から転用された音楽用語としての「前衛」を、20世紀音楽に特有のモダニズムの一つの系譜として描き出していくものの、見られるようにそこには実験音楽もミニマル・ミュージックもポストモダン・ミュージックも含み込まれている。考えてみれば「形式の絶えざる更新」は必ずしも理性による支配を必要としないのだ。そしてそこから出て来た「前衛」の意味合いは、西洋的眼差しの優越心でも単純化された記号でもない、音のごく楽しげな触れ合いと厳しさを兼ね備えたダイナミズムとして立ち現れることだろう。本書を通して「前衛音楽」という言葉が蘇るのだとしたら、著者の松村にはどのような執筆の背景や目論見があったのだろうか。「前衛」の定義から現状認識、あるいはモダニズムについて、先達の音楽批評家たちについて、そしてなによりも「前衛音楽」の音の悦びについて、語っていただいた。

前衛音楽とは何か

けれどもケージに対する批判も一方からはあるわけですよ。ルイジ・ノーノのように「そこまでいったら音楽じゃないんじゃない?」みたいにいうひとたちも一方にはいた。

これまで現代音楽を中心に書かれた概説書や広義のポピュラー音楽を対象としたもの、あるいはカタログやディスクガイドのような本はあったものの、20世紀全体を前衛音楽というテーマで辿り直した入門書というのは、ありそうでなかったのではないかと思います。どのような経緯で入門書という体裁になったのかといったところからお話いただけますか。

松村:最初は前衛的な音楽、実験的な音楽、それこそポピュラー音楽全般をふくめて、思いつくままに書き進めていきました。私は音楽について書くときに、なるべく対象を作り出した人物はもちろん、時代や政治や文化の状況をふまえたいと考えているのね。だから最初はいろいろなものを織り込んで、しかもメインの事象が登場するまでの前提の部分、『前衛音楽入門』だったら、前衛音楽というものが登場する前提みたいなものから書き起こして、当時の文学や宗教や社会情勢をふまえて書きすすめると、話がぜんぜんはじまらないということに、ある日ふと気づいたの(笑)。200枚書いたのに本題のとば口にも到達していないではないか、この調子だといつ終わるか見当もつかないと。それで編集を担当した野田さんに相談したら、「入門の体裁で、わかりやすく書くのがよいのではないか」と言われて、ああなるほどと。入門書というのは、いわゆる功なり名を遂げた方が書くことで説得力をもつものだと思うのだけど、簡便に語る構えをとれば、迂遠になりがちな私でも論を進められるのではないかということです。そう考えて、うちの書棚をみてみると、伊福部昭の『音楽入門』という本があって、あとがきに「以上、私は不要なことに饒舌にわたり、必要なことを簡略に、あるいはまた全然触れませんでした」の一節があったのを思い出したんです。この名著にして、そのようなことをいうのは、大作曲家一流の韜晦や含羞もあるかもしれないですが「入門とはこういうことかもしれない」とも思ったんですね。カフカの「掟の門」じゃないけど、読者ひとりひとりにそれぞれの門があるにちがいない。著者の役割はとくに聴くことが最終目的である音楽という分野においては門前に誘うことであろう、そう考えたのでした。

『前衛音楽入門』は入門書であり、同時に20世紀音楽の一つの系譜を描いた歴史書でもありますよね。

松村:仮にも入門書であるならば、前後関係ははっきりしていたほうがいい。そうなると歴史を辿る必要があるなと思ったんですね。以前細田くんと話したとき、20世紀の音楽についての本があると便利じゃないかといったら、そんなのダサいですよ、若い子は前世紀なんて気にしませんよ、といわれ打ちのめされたのだけど、私はやっぱりモダニズムが好きなんですよ。ダダとかシュルレアリズムとかロシア・アヴァンギャルドとかバウハウスとか近代文学とか。YouTubeにアップされている昔の歌謡曲の映像についたコメントによく、この時代に生まれたかったってのがあるじゃない。それをいったら、私だって1920年代の東欧で青春を送りたかったよと思うもんね。でも、それをノスタルジーで語るとたんにないものねだりになっちゃうから、そのときそこにあって、いまはもう喪われたと思われているものも、歴史を辿り直すと、21世紀の現在もちがうかたちで見出されるのではないかということですよね。

なぜタイトルに前衛音楽という言葉を付したんでしょうか。

松村:当初は『モダーン・ミュージック』というタイトルを考えていて、それは近代の音楽という意味と、かつて明大前にあったレコード店の名前のダブルミーニングのつもりだったのだけど、羊頭狗肉になりはしまいかと思って止めました。それに近代=モダニズムだと読者もイメージが結びづらいかもしれない。あくまで音楽の本であって、とりあげる対象がアヴァンギャルドな音楽であれば、前衛の呼び名はあるかもしれない。あとがきでも書きましたが、「前衛」という言葉は微妙な位置づけだとも思うんですね。アヴァンギャルドというレコード店の棚の仕切りにはあったとしても「前衛」とは謳わない。要するに死語なんですよ。画数多いしね。わがことをふりかえっても、昔は前衛的な音楽が好きですと合コンでいっていたのがあるときを境にぴったり言わなくなった。その一方で、現代音楽、実験的やエクスペリメンタルという用語は誰もが普通に使っている。オルタナティヴでもいいですけど、それらと前衛とのちがいはなんなのか。そのような言葉の曖昧さの裏には、時代ごとの音楽の形式の変遷と、それにたいする見方のようなものがあるはずで、前衛の語はその原点として働くのではないか。そこから考えると、みなさんがいま聴いているエクスペリメンタルな音楽の実相がより鮮明になるのではないか、目論見としてはそういうのはあったけどね。

本書での前衛音楽の定義を教えてください。

松村:本でも何度か言及していますが、ジョン・ケージは『サイレンス』のなかで、結果が予測できない音楽が実験音楽だといっているじゃない。スコア(譜面)が音楽の見取り図だとすると、見取り図があっても結果がわからない音楽。最終的に実験音楽は見取り図そのものも偶然や演奏家にゆだねたりするんだけど、そこから考えると前衛音楽はどれだけすごい見取り図を描けるかの競い合いなんじゃなかったかな。形式の新しい領域を探すというか、誰も手をつけていない場所に新しい領土を開拓するというか。今回一番難しかったのが、その線引きをどうするかということだったの。マイケル・ナイマンも『実験音楽』で、前衛と実験の区別を慎重しているのだけど、「ケージとその後」が副題のあの本からももう何十年も経っていて、ケージやナイマンの定義はすくなくとも一般的にはぼんやりしてしまったのはあると思う。それは開拓すべき領土ももはや存在しないということかもしれないし、レコードという記録媒体ができたからかもしれない。

取り上げる音楽家や作品はどのように選んでいったんですか?

松村:それこそ最初の見取り図は壮大なものだったよ(笑)。日本や、海外も西ヨーロッパやアメリカ以外の作曲家とか、サウンド・アートやパフォーマンス・アートとか。ノイズや日本のロックについても書こうと思っていたけど、それらの分野には専門の方がおられて、先駆的な本もいっぱいあるじゃない。川崎(弘二)さんや畠中(実)さんだってそうだし、金子智太郎さんの研究もすばらしいと思う。そして書物は特定の形式を掘りさげるにはすごく便利な形式だけど、一方で言葉は羅列的にしか語れない。私は歴史が好きで、学生だったころ、日本史や世界史の教科書をくりかえし読んだのだけど、歴史の出来事で最大の発見ってヨーロッパで宗教改革が起こっていたとき、日本は南北朝時代だったとか、横軸のつながりだったの。「そのころ一方~」の感覚といえばいいのかな。出来事が世界中で散発しているのに想像をいたく刺激される。本だとそれは順番に書かないといけないのだけど、たとえばケージがこう考えていたとき、シュトックハウゼンはこう考えていた、大西洋のこちら側である作品が評判をとっていたとき、反対側ではどういう動きがあった――と書くと、読んでいる時間が巻き戻ったり、重なり合ったりする。一歩すすんで二歩さがる目線には探求的な視点とはちがう風景が映るかもしれない。ひとつの事象を掘りさげるより広がりを描きたいというのがまずあって、でもあまりに広げすぎると分量の問題もあるから、コンパクトにまとまる範囲でということで、このかたちになったの。

コンパクトとはいえ、数多くの音楽家や作品が登場しますよね。100年の歴史を膨大な音盤を聴き返しながら辿っていくという作業もあったかと思われます。

松村:前衛音楽って聴きやすい音楽じゃないじゃない? ブーレーズの全集を頭からお尻まで通して聴いてごらんなさい、しおしおになりますよ。

松村さんにも前衛音楽は聴きづらいという感覚があるんですね。

松村:いや聴きづらいというのとはちょっとちがう。人間が集中して聴けるのは限度があるということだよ。でもたしかにBGMにはなりにくいもんね。三田(格)さんが仕事場に来たとき、松村くんはいつもピキンとかガシュとかいう音をかけているけど、きみは楽しいのかと訊かれたことがあるもん。

「聴きづらさ」というのは、時代の先をいっていたという側面もあるじゃないですか。同時代の人には受け入れ難かったけど、いまとなってはすんなり聴けてしまうという。第1章に出てくるエリック・サティとかクロード・ドビュッシーっていうのは、当時は不協和音だったかもしれませんが、いまとなってはイージー・リスニングと括られたりもしますよね。けれども第2章以降には、いまの耳で聴いてもハードな音楽が数多く出てきます。

松村:アルノルト・シェーンベルク以降だよね。新ウィーン楽派の十二音技法は調性を否定したから必然的に聴きづらい聴感になるのだと思う。調性や自然というのも『前衛音楽入門』のテーマのひとつでした。自然に対する人工は近代の特徴で、調性から逃れようとする意志が前衛を決定づけて、その逃走/闘争の歩みがシェーンベルク以降に明確に始まっていく。すると鋭い印象の音楽になっていく。歴史を辿って聴くとそのことはとりわけわかりやすい。

本書の執筆を通して、前衛音楽というものに対する考え方や捉え方は変わりましたか?

松村:いまシェーンベルクは聴きづらいっていう話になったけど、リズムはそうでもないよね。リズムはものすごくわかりやすい。それがもっと時代を降っていって、オリヴィエ・メシアンあたりになるとリズムも入り組んでくる。さらに降ってカールハインツ・シュトックハウゼンとかピエール・ブーレーズのあたりになると、もっと細かいパラメーターで音楽はどんどん複雑になっていく。一口に前衛音楽といっても、あるいは現代音楽とひとしなみにとらえただけではわからないダイナミックな変化があの時代には起こっていたことに、あらためて気づいたのは収穫でした。それって、特定の対象を押さえるだけだとみえにくいポイントだとも思うの。前衛って先行する音楽のある部分を革(あらた)める、っていうことを突き詰めていくわけじゃないですか。それをたんに進歩史観でとらえるとエリーティズムやアカデミズムに陥ってしまうけど、20世紀前半の音楽家たちの試みが、実験音楽の時代を経て、最終的にポピュラー音楽やクラブ・ミュージック、おそらくは私たちがいま聴いている音楽にも流れ込んでいる、その運動もふくめて、私は前衛的だと思う。

クラバーのための前衛音楽

現在のテクノやアンビエントと形容される音楽の多くは、ミュジーク・コンクレートやミニマル・ミュージックの成果を当たり前に取り入れていますよね。それらがもともといつ頃から出てきたのだろうとか、最初はどういう意図で用いられていたのだろうとか、そういうことを知る楽しみも本書にはあると思います。

松村:いまの音楽にも先人の努力の痕跡というのはなにかしら絶対にありますから、無意識にせよね。クラブ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックから遡行して20世紀の前衛を聴いていくのはけっこう発見があると思いますよ。

「シュトックハウゼンに聴かせるべきはエイフェックス・ツインではなくオウテカだった」という一節も出てきます。

松村:オウテカはテクノロジーを対象化することに長けていると思う。ソフトウェアを更新していって、その力量を引き出しながら彼らの音楽に落とし込むじゃない。おそらくその作業は最初感覚的なものであっても、スタイルやロジックにおとしこまれるのだと思うんですよ。でもエイフェックス・ツインは本能が表現に直結している。

実験的でハードコアな印象もあるいわゆる音響派が、テクノ、ハウス、ヒップホップなどのクラブ・ミュージックをその前提として含み込んでいる、と指摘されていた箇所も印象的でした。

松村:デイヴィッド・トゥープ的といいますか、彼みたいな音楽の聴き方が大きかったと思うんですよ。トゥープの本で『音の海(Ocean of Sound)』ってあるじゃない。あの本はアンビエントが中心だけど、サウンド・アートから実験音楽、ロック、ジャズ、レゲエまでおよそ考えつく音楽をとりあげているのだけど、一方で彼は『ラップ・アタック』というヒップホップの本も書いている。文学やアートへの広範な知見もあって、ビザールでストレンジな表現にも目端が利き、自分でも音楽をやっているわけじゃない。あの博覧強記と横断性は90年代という時代を象徴していた。トゥープが代表する価値観は彼も寄稿していた雑誌の『The Wire』的なものでもあって、前後関係はさておき、それらがクラブ・ミュージックにアヴァンギャルドを接続したのではないかということです。たしか2001年だったと思うのだけど、岸野(雄一)さんにご協力いただいて『Studio Voice』という雑誌で「日本の作曲家」という特集を組んだとき、外からみた日本の音楽への視線という切り口で、日本の音楽家の作品を15枚ずつ選んでレヴューするというコーナーの原稿をジム(・オルーク)さんに書いてもらったことがあったのね。原稿は『別冊ele-king』の「ジム・オルーク完全読本」に転載したので読まれた方もおられるかもしれないけど、同じ主旨でトゥープさんにも原稿を依頼していたんですよ。ふたりのセレクトはおおまかにいえば傾向は同じで、武満徹とか細野さんのように重複するミュージシャンもいたのだけど、同じ音楽家の作品でも、ジムさんは武満徹は『コロナ』で細野さんは『コチンの月』をあげ、トゥープさんは映画音楽集と『トロピカル・ダンディ』をあげたことが、トゥープさんのポピュラー音楽よりの志向をあらわしていて、それがクラブ・ミュージックとアヴァンギャルドを接続したという論拠なんだけど、わかりづらいか(笑)。他方ではね、これも「別冊ele-king」でポストロックと音響派を特集したとき、いろいろな方にご寄稿いただいたなかで、著者ごとに音響派の定義というか、来歴の捉え方がちがうと思ったのもある。大谷(能生)さんと虹釜(太郎)さんの史観はべつのものだし、『前衛音楽入門』の第9章でもふれましたが、佐々木(敦)さんの定義からして、私はむしろその行間を読むべきものだと思う。

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録音と自然について

私はやっぱりモダニズムが好きなんですよ。ダダとかシュルレアリズムとかロシア・アヴァンギャルドとかバウハウスとか近代文学とか。YouTubeにアップされている昔の歌謡曲の映像についたコメントによく、この時代に生まれたかったってのがあるじゃない。それをいったら、私だって1920年代の東欧で青春を送りたかったよと思うもんね。

20世紀のある種の音楽史を描くに当たって、参考にした書物などはありましたか?

松村:それぞれのパートでいろいろな本を参照しましたけど、全体の構想や構造を立てるにあたって参考にした本はあんまりなかったかなあ。それよりもユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』とか、ジャレド・ダイアモンドの『銃・病原菌・鉄』とか、ビッグ・ヒストリーみたいなものは意識したかもしれない。歴史とかある程度の厚みのある時間を対象にするという意味でね。でも音楽で歴史を溯るのってむずかしいと思うんですよ。ポール・グリフィスの『文化のなかの西洋音楽史』のように、発祥まで溯ると、音楽は壁画にも遺物にもならないわけだから、語るにあたっては空想にちかくなってしまう。その空想は類型的になりがちで、論証も反論もできない。もちろんそうするしかないにしても、私なぞがいうまでもない。だったら、ネウマ譜の時代からはじめればいいともいえるけれども、それを語る言葉を私はもっていない。もちろん記録がないとダメってことでもなくて、西洋音楽に限定する必要もないのだけど、いまの音楽の状況を考えても、いろんな読者と語り合える点でもそっちのほうがいいかなと思った。クラシック音楽みたいな学校で教える音楽には畏怖も抵抗もあったけど、ロックやジャズやそのほかもろもろの勝手のわかった音楽を語るのも自分が成長しない気がした。たしか保坂(和志)さんがいっていたと思うのだけど、なにかを書くのは、書く前と後で書くひとが変化するためでもあると、私もそう思うから、だったら、それまで聴いてきていても、あまり書く機会のなかった「古典的な現代音楽」って言い方も妙だけれども、そのような音楽をちゃんと聴き直して考えてみたいと思った。話はかわるけど、ポピュラー音楽の批評って、どうしてもロックンロールの発生を起点にしがちで、音楽はそれ以前から連綿とつづいてきたはずなのに、その前と途絶しがちだと思うんですよ。日本の近代のはじまりを明治時代に置いたときに、江戸以前が歴史にくりこまれて不動になってしまうように。20世紀の、ことに前半はポピュラー音楽の読者には遠い過去で、逆にクラシック音楽の愛好家には現代音楽の時代なわけで、両方をつなげて、生き生きと描けたらおもしろいんじゃないかという考え方です。話を戻すと、参考にした本については、音楽の書き手にはそれぞれの分野にすごいひとがいて、参考にした文献は無数にあって、きっと誰かが同じことをいっていると思ったけど、現代音楽もジャズもロックもクラブ・ミュージックも同じ目の高さでみるという意味では、特定の書物を参考にしたというよりそれらのあいだを考えていた気がする。

19世紀と20世紀の大きなちがいの一つに録音というファクターがありますよね。『前衛音楽入門』の序ではミシェル・レリスによる録音装置の描写が引用されています。

松村:そのレリスのくだりはたまたまね、積んでいた本が崩れて付箋がついた箇所を開いて引いただけなのだけど、原稿を書いていると、そういうことがよくあるじゃない。それを読んで、ジョイスの『ユリシーズ』にもたしか蓄音機で音を録音するくだりがあったことを思い出して、20世紀前半に録音再生装置っていうものが記録媒体としてかかわりはじめたときの人々の驚きを再確認したんだけど、それってカセットでもハードディスクでもTikTokでも同じだと思うんですよ。私にとっても録音再生装置の驚きというものはあって。中学生の頃にカセットデッキを親から買ってもらって、ラジオとか喋り声とかを録って遊んだりすると、再生するともとの音とまったくちがう響きになるのがわかる。それは記録すること以上のなにかをもたらすわけです。そうした驚きが音楽そのものにフィードバックしていくのが電子音楽でありミュジーク・コンクレートだと思った。録音の面白さみたいなものは私自身も実感として感じていたから、電子音楽やミュジーク・コンクレートの作曲家の内面を考えてみたらすごく親近感をおぼえた。録音再生装置が紡いできた音楽史というものがあり、近代の芸術ときりはなせないなら、音楽の歴史と録音物の歴史みたいなものをなるべく往還しながら考えていく、というのはごく自然にやってました。

レリスの描写の面白い点は、録音再生装置の描写であるとともに、録音メディアというものが透明な存在ではないということを捉えた文章でもあるところだと思います。つまり再生に伴うノイズだとか、再生することの得体の知れなさが描写されているんですよね。それは自明なものや前提条件にあるもの、いわば自然と化したものに対する自覚を促してくれるんですが、そうした自然なるものから距離を見出していく運動というのが、前衛音楽の歴史でもあるわけですよね。

松村:おっしゃるとおり。

これはたまたま私がいまティモシー・モートンの『自然なきエコロジー』について書いていたからかもしれませんが、『前衛音楽入門』では「自然」が一つのキーワードになっていると思いました。それはドビュッシーによる「自然の音楽はわれわれをすっぽりと包み込んでいます」という言葉から始まり、アドルノの「第二の自然」というルカーチを借用した音楽の捉え方や、あるいは「不自然な即興」という章題にもつながっています。

松村:自然という言葉はふたつの捉え方があると思うんですよね。ひとつは自然=環境というようなものの見方。あらかじめ備わっている、疑うべくもないもの、そういう自然なものに対して懐疑的になるのがやっぱり前衛音楽の勘所だと思った。あらかじめ与えられたものごとに対して「本当にそうかな?」って考える行為。アドルノの「第二の自然」っていう言い方はすごく上手いもんだなと思っていて。音楽って人工物じゃないですか。でも人工物なのに、たとえば調性のようなものは神の摂理みたいに考えられている部分がある。平均律も機能和声もきわめて人工的なものだけど、誰もが当たり前のように思っていて、21世紀のいま、そのことは19世紀より支配的になっている。Jポップをもちだすのはどうかとも思うけど、流行りの音楽を聴くと、メロディの洪水につかれるんですよ。ティモシー・モートンのその本は私は読んでないけど、音楽をひとつの環境とすると、前衛的な人工性より無垢な原初主義に軍配をあげるのは旧来のエコロジー観といえるかもね。問題はそこでいう自然に道徳的なニュアンスがあることで、同時にそれは音楽のルールというものにもつながるのだけど、その外に踏み出したのが前衛音楽であり、即興も既存のルールをのりこえようとする点では不自然だったと思うんですよ。で、自然のふたつ目の意味は言葉そのままの自然、ジョン・ケージ的な非音楽の世界。音楽的には不自然な音そのものの広がりみたいなもの。そういう、何重かの意味が重なっている「自然」っていう言葉は、たしかにすごく象徴的だなとは思います。

音楽批評の先達たち

それをたんに進歩史観でとらえるとエリーティズムやアカデミズムに陥ってしまうけど、20世紀前半の音楽家たちの試みが、実験音楽の時代を経て、最終的にポピュラー音楽やクラブ・ミュージック、おそらくは私たちがいま聴いている音楽にも流れ込んでいる、その運動もふくめて、私は前衛的だと思う。

『前衛音楽入門』のもう一つの特徴として、教科書的な体裁をしているんですが、事実説明的な文章ではまったくないんですよね。パフォーマティヴで物語的というか。文体の強さとも言い換えられるかもしれませんが。

松村:野田さんには難読漢字ばかりで、おまえは小林秀雄かって注意されたんだけど(笑)、私、小林秀雄に入れ込んだことないんだよなあ。まあでも、自分の文章はよくわかりません。文体が強くても弱くても、精一杯書いているとしかいえないのだけど、表現にかまけるのは止めようと思ってきたかもしれない。ひとつには、雑誌編集者をやっていたある日、ポエティックな文章は書き飽きたと思ったから。音楽でそんなことをやると夜郎自大な感想文になっちゃうじゃん。この夜郎自大という四字熟語も注意されてしまうかもしれないけれども、習い性としてお許しいただくとして、表現よりも文の構造と展開が散文の勘所だとは思っているところはあるかも。そのほうが読んでいて、いろいろ考えられると思うんですよ。

そうした点が本書を教科書から音楽批評へと押し上げていると思うのですが、松村さんにとって重要な音楽批評家の先達というのはいらっしゃいますか?

松村:そりゃもうみんなすごいなあって思ってますよ(笑)。90年代末から2000年代初頭にかけては、仕事の関係もあって、三田さんや野田さんの原稿からはいろんなことを学んだし、湯浅(学)さんや佐々木(敦)さんは学生のころから読んでいたし、竹田賢一さんや岸野さんから原稿が届いたときはうれしかったし、松山(晋也)さんは編集者としてもみならっていました。ひとまわり上の世代の書いてきたことを受けて、私は原稿を書きはじめたし、彼らの音楽の聴き方や考え方からは多大な影響を受けてきました。その一方で、文章を書くという点では、私はele-kingでこんな古めかしい音楽と関係のないことをいうのはどうかと思うけど、第二次世界大戦に強迫観念的な執着があって、その手の文献を読み漁ってきたのね。それを入り口に、小島信夫とか島尾敏雄とか庄野潤三とか、第三の新人の本はだいたい読んだけど、あの世代でいちばん好きなのは古山高麗雄かも。編集者だし。

若い頃に読んで価値観を揺さぶられた音楽書とかはないんですか?

松村:あ、そうだ、秋田昌美さんの文章は好きだった。『前衛音楽入門』を書くにあたっても、『ノイズ・ウォー』を読み直しました。あれ絶版なんだよね。もったない。秋山邦晴さんの『エリック・サティ覚え書』が再版になったのはよかった。高橋悠治さんの本はどれをとっても閃きがある。武満徹の本もふくめて、私は音楽をやることと書くことが結びついているひとの文章に惹かれるのかもしれない。でも私の若いころは、音楽の文章というと本にまとまっているのより雑誌に載っているのを読むのがずっと多かったと思いますよ。

『前衛音楽入門』では間章の引用もありますが。

松村:間章の本は私が学生のころは手に入りにくかったからね。妄想が広がって、じっさいの文章はその妄想をも上回るものだったんだけど、私にはちょっと濃密すぎたかな。彼が言及するレコードや、たまに引用するモーリス・ブランショなんかは私も好きなんだけど。

間章と犬猿の仲とも言える平岡正明はどうですか?

松村:平岡正明は、そうだね、私は先に湯浅さんの文章を読んでたんですよね。ふたりはまったくべつの書き方だけど、言い切ることでひとつの世界をたちあげるところに通じるものがあるんじゃないかな。おふたりとも、対象にたいする濃度というか熱量のようなものをもっていて、平岡さんはそこに向かう向かい方が直線的だけど、湯浅さんは面的な気がする。抽象的な印象論ですけどね。直線的な語り方は説話的だけど、面的だと散文的になると私は思っていて、自分には後者のほうがしっくりくる……というか、細田くんはなんでそんな答えにくいことばっか訊くの。

これからの前衛音楽のために

だって嫌いなものを好きになることってあるじゃないですか。そういうふうに考えたら、音楽の聴き方って生理的体験だけではない、ということがわかったのが20世紀だなとも思った。前提にあるものや後に続くものを含めて聴き比べてみたら何か発見もあるだろうし、前衛音楽に対するバイアスも緩むにちがいない。そもそも私、『前衛音楽入門』でとりあげた音楽はどれもキャッチーだと思ってるんだけどね(笑)。

面的で散文的な向かい方というのは重要だと思います。それは開放感と言い換えられるかもしれません。たとえば前衛音楽に開放感をもたらすにはどうすればいいと思いますか。裾野を広げていくというか。この前タワーレコード新宿店の10階に行ったら、ニューエイジコーナーがすべて星野源コーナーになっていたんですよ。時代もジャンルも多種多様な音楽で埋め尽くされていたニューエイジコーナーが、星野源というたった一人のアーティストに駆逐されてしまったように感じて、たいへん寂しい思いをしました。

松村:それは……!? そうなったんだ。あそこよかったんですけどね。現代音楽系の新譜もけっこうとりそろえていて、しかも人がいなくてゆったりみられるからよく行ってたんですけどね。

人がいないんじゃないですか(笑)。これは私の意見ですが、閉塞感の一つの原因として、前衛音楽という言葉が記号化して、「ああ、前衛音楽ね、興味ないや」と見向きもしない人と、「おお、前衛音楽か、聞いてみよう」と飛びつく人に二極化してしまっていることがあるような気がするんです。それは実験音楽とかフリー・ジャズといった言葉も同じように扱われていると思いますが、ともあれ、嫌いだろうが好きだろうが彼ら/彼女らにとって内実はどうだってよいわけですよね。この短絡的な思考が閉塞感を呼び込んでいるのではないかと思います。

松村:やれ難解だとか複雑だとか高尚だとか、そういった短絡化は前衛音楽にはこれまでもあったけど、前衛がひとの口の端にのぼらなくなってから、記号そのものが空洞化したきらいはあるよね。情報化の煽りを喰って、細田くんがいったような状況になっているのだとしたら、その状況は閉塞的というよりもっとのっぺりしたものだと思うのね。ポストモダンを云々するのはわかった気になるからイヤなんだけど、細分化をくりかえして記号がどんどん細かく、軽くなっていく一方で、行き着くところまでいって、揺り戻しが来ているのがいまで、いろんなレーベルから過去の音源も含めて、前衛音楽や実験音楽のレコードが再発されているじゃない。刷られている数はたいしたことはなくても、一定の枚数をうけとるリスナーはいるということですよ。そこで本を書くことの意味はなんだろうと考えてみると、たとえばカタログだと記号の数になっちゃうけど、一冊の本を書き上げていくっていうことは、それがなにがしかの時間の幅を持ったものになっていくことではないかなと思ったんですよね。たとえば『前衛音楽入門』を雑誌の特集としてやることはできると思うわけ。でもそうすると風景があんまり変わらないような気がするんですよね。それは自分が雑誌をずっとやってきたからかもしれませんが、そういう歴史や時間の幅を表現するにはある程度の分量を書かないとダメだろうと思った。そこには当然、余白とか余剰とか、語られていないことがあるわけですよ。そういう幅のなかで前衛音楽という言葉を使っているのであれば、記号の伝わり方がまた変わってくるとも思う。ディスクガイドではないわけで、パラパラと眺めてわかるものではない。著者が「これが前衛だ」というものをどう捉えているのかというのは読まないとわからない。読むとそこには「そうじゃないもの」が行間に入っていることもわかる。そうすれば記号化を緩めることもできるんじゃないか。前衛音楽の外側から滲んでくるものがあったら、少し広がるんじゃないか。それは単なる好き嫌いじゃないですよね。レヴィ=ストロースの『神話論理』っていう全四巻の本があるんですが、その第一巻の『生のものと火を通したもの』の序章では音楽について書いているんですよ。そこでレヴィ=ストロースは音楽を生理に根差しているっていうふうに書く。生理的体験、要するに好き嫌いだと。でも私はそうなのかなって疑問に思うところもあった。だって嫌いなものを好きになることってあるじゃないですか。そういうふうに考えたら、音楽の聴き方って生理的体験だけではない、ということがわかったのが20世紀だなとも思った。前提にあるものや後に続くものを含めて聴き比べてみたら何か発見もあるだろうし、前衛音楽に対するバイアスも緩むにちがいない。そもそも私、『前衛音楽入門』でとりあげた音楽はどれもキャッチーだと思ってるんだけどね(笑)。

それは好き嫌いとは別に、前衛音楽を聴くことの楽しさがあるということでしょうか?

松村:そうです。でも聴くことの楽しさだけじゃなくて、考えることの楽しさもある。そして考えることの楽しさは聴くことの楽しさを損なわないとも私は思うんですよ。聴くことの楽しさと考えて発見することの楽しさって、ちょっとズレがあるじゃないですか。なぜこれがおもしろいんだろう、気に留まるのだろう、っていうことにたいする気づきって、ちょっと遅れてやってくるわけじゃない。それがやっぱりこういう音楽を聴くときのいちばんおもしろいところだと思うんですよね。テキストを読んで作曲家の意図や作品の構造を知ったときの、目から鱗が落ちる感じっていうかね。聴いただけじゃわからなかったとしても、ライナーノーツとかを読んで、意図や構造を知ってからあらためて反復したときに出会う聴くことの楽しさは絶対あると思う。そう考えると前衛音楽は録音物に親和的な音楽だったともいえる。反復聴取に耐え得るから。聴いて、よくわからなくて、それでも聴いて、やっぱりわからなくて、読んで、なんとなく納得して、発見するっていうのかな。そういう意味ではまさしく20世紀的な芸術のあり方ですよね。それってすごくお得じゃないですか(笑)。

他方で音楽の前衛を原理的に推し進めるならば、ゆくゆくは音楽という概念も崩壊させていくことにもなるように思います。しかし『前衛音楽入門』ではあくまでも音楽が取り扱われていますよね。そこには音楽とあえて言い得るものは何かという問題があると思うんですが、松村さんとしてはどのように考えていますか。

松村:また答えにくい質問を(笑)。前衛音楽も当初は音楽そのものの制度や構造を含めて問うていた。「音楽は果たして音楽なのか」という考えがはっきりと出てくるのはケージ以降ですよね。とりわけケージの主著『サイレンス』が邦訳された90年代になると、ケージ礼賛みたいな雰囲気が蔓延していた。けれどもケージに対する批判も一方からはあるわけですよ。ルイジ・ノーノのように「そこまでいったら音楽じゃないんじゃない?」みたいにいうひとたちも一方にはいた。即興音楽でもそうじゃない。楽器に触れるか触れないかが即興だ、みたいなことにまでいくと、果たしてそれでいいのかっていう考え方が出てくる。そのようなせめぎ合いの歴史はどこまでいっても調停することはないんじゃないかな。ケージに対してノーノが否を突きつけて、ブーレーズも最終的には強烈な批判を加えていったように。それら両陣営がせめぎ合っている状態。私自身は態度としてはどちらに肩入れしたいわけでもないし、実験的なものよりも前衛的なものがよいとはいわないし、その逆もまたしかりですよ。その蠕動する部分に音楽の原理があるのだと思う。その状態はとどまらないだろうし、固定されて不動だと思っていた歴史にその解を求めようとしたって、どこからどのようにふりかえるかによって、答えはちがってくる。それらをもとに、聴いたこともない新しい前衛音楽が現れてくるかもしれない。テクノロジーや人間観みたいなものとも、それは関係してくるかもしれない。その意味で、音楽は終わったわけではないし、終わるわけがないのであって、『前衛音楽入門』に登場する20世紀の音楽家たちの問題提起は21世紀にも届いてきますよ、きっと。

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