つくづくノマドな男だ。ウィリアム・バトラー・イェイツの詩に曲をつけた前作『アン・アポイントメント・ウィジ・ミスター・イェイツ(An Appointment With Mr. Yeats)』(2011)を制作するためにアイルランドに2年ほど赴き、そして、そのままアイルランドに落ち着いたのかと思いきや、この新作は一転してアメリカはナッシュヴィルでレコーディング。『フィッシャーマンズ・ブルース(Fisherman's Blues)』(1988年)や『ドリーム・ハーダー(Dream Harder)』(1993年)といった過去の作品を思い出すまでもなく、定期的にアメリカに渡ってきたことが知られているマイク・スコットだが、30年以上のキャリアを重ねてもこの人の辞書には「安定」「定住」という言葉はないようだ。
The Waterboys Modern Blues Puck / ホステス |
昨年のフジ・ロック・フェスティバルでのパフォーマンスも記憶に新しいそんなマイク・スコットによるウォーターボーイズが4年ぶりの新作『モダン・ブルース』を発表した。エルヴィス・プレスリーへのオマージュのようなドゥー・ワップ調の曲や、南部産スワンプ・ロックにアプローチした曲など、あらたな持ち駒を次々と繰り出したようなアメリカ讃歌的アルバムだが、一つの場所にしっかりと腰を落ち着けることなく彷徨いつづけながらこうした作品が作られるのもどうやらすべて彼にとっては本能であり、音楽そのものに導かれてとのことらしい。そんなノマドな作品に再び「ブルーズ」というタイトルを与えてしまうのも本能なのだろうか。
ところで、大衆音楽のルーツをディグしていく姿勢やウィットに富んだリリックなどなどかねてより、マイク・スコットとエルヴィス・コステロにはいくつかの共通点があると思っていたが、今回のアルバムに収録の“ニアレスト・シング・トゥ・ヒップ(Nearest Thing To Hip)”には「Brilliant Mistake」という名前の少女が出てくる。気づいた方もいるかもしれないが、この「Brilliant~」はコステロの『キング・オブ・アメリカ(King Of America)』の1曲めのタイトルと同じ。奇しくもコステロもあのアルバムでアメリカ録音を敢行していたが、英国人(スコットはスコットランド出身だが)にとってアメリカという名の「音楽の宝箱」を開けることは永遠の命題なのかもしれない。
■The Waterboys / ザ・ウォーターボーイズ
1983年結成、英国エジンバラ出身のマイク・スコットを中心としたUKロック・バンド。ケルティック・フォーク、アイルランド伝統音楽、プログレ、カントリー、ゴスペルなどの影響を受けている。バンド名はルー・リードの曲の歌詞から名付けられる。初期はNYパンクの影響を受けたニューウェイヴ・バンドとしてスタートし、U2フォロワー的な扱われ方もされていた。2014年にフジロックで初来日を果たし、2015年1月に約4年ぶりとなるニュー・アルバム『モダン・ブルース』をリリース。同年4月には初の単独来日公演が決定。
僕はいつも自分の音楽が言うとおりに行動しているだけなんだ。
■まず、去年はフジ・ロック・フェスティバルで久々に来日公演を実現させましたが、80年代と変わらぬパッショネイトなライヴが大きな話題となりました。いまなお、音楽に対して情熱を注ぐことができる、そのエネルギーの源はどこにあるのでしょうか。
マイク・スコット:僕はいつも自分の音楽が言うとおりに行動しているだけなんだ。もちろん、僕の人生の中で、妥協するチャンスが与えられたことは幾度かあったよ。同じサウンドを作りつづけるというプレッシャーや、あるいはより成功すると思われるサウンドに変化させるというプレッシャーに屈することもできたんだ。でも僕はそういった誘惑にいつも抵抗してきたし、たとえそれがときには僕を商業的には見込みのない、変な場所へと導いても、ずっと音楽が求めることをやってきた。
それには代償が伴うこともあったよ、非商業的なレコードを作ったりしたことでさ。キャリア上のことを考えれば、もっとメインストリームなものをやるべきときにそうしなかったりもした。でもそれもすべて、音楽が言う通りのことをしてきた結果なのさ。そういう代償は、キャリアの観点から言えば失敗とみなされることもあるけれど、そのお陰で音楽との感覚的なつながりを保ちつづけてこられたんだよ。音楽的なインスピレーションとのズレを感じたり、それを誰かに売り渡したりしたことは一度もないから、音楽との隔たりを感じたこともないんだ。だからいまも音楽が内から流れ出してくるし、曲はひとりでに生まれてくる。いまも音楽を愛しているし、自分が内に持っているインスピレーションを裏切ったことはないといえるよ。そのインスピレーションは新鮮なまま、僕の中に存在しているんだ。
■そうやって音楽を信じていられるのはなぜなのでしょう。
マイク:そういうのはべつに僕だけの特別なものじゃなくて、たとえば僕はニール・ヤングが流行や商業的なものに関わらず、自分の興味を追究しつづけるところをとても尊敬しているし、ケイト・ブッシュもそうだよね。でも同時に、誰とは言いたくないけれど、ミュージシャンの中には妥協をしたように思える人たち、さっき言ったようなインスピレーションとの特別な繋がりを失ってしまったような人たちもいて、彼らがそれを取り戻そうともがくのを見ることもある。その中には実際に取り戻す人たちもいる……僕はディランは一度80年代にそれを失って、88年前後にまた取り戻したと思うよ。彼自身も自伝の中で、彼が自分自身の音楽やインスピレーションとの葛藤を感じて、歌える曲の数も減ってしまったあるとき、バーで歌っている老人を見て、その無名の老人が持っているあるものを自分が失ってしまったことに気づき、それがきっかけになってまた失ったものを取り戻した、っていう話を書いているんだ。僕自身もウォーターボーイズが停止していた頃に、ソロ・アーティストとして東京に滞在していたある日、渋谷の真ん中で立ち止まって、ふとものすごく孤独を感じた瞬間が強烈に頭に焼き付いているんだけど、その話にちょっと似ているね。ウォーターボーイズのみんなをすごく恋しく思って、あれをなぜ失ってしまったのか、取り戻すために自分は何をするべきなのかってことを必死で考えたんだ。90年、『ルーム・トゥ・ルーム(Room to Roam)』を作ったあとにスティーヴ・ウィッカムがバンドを去って、アルバムで演奏したミュージシャンのうち3人だけでツアーをしなきゃならなくなったんだけど、あれは本当に辛かったよ。アルバムへの評価もさんざんなもので、ひどいレヴューももらった。なんとか続けていくために、心の中で唱えつづけていたのは「ここからはもう良い方向に向かうだけだ」ってことさ。そのときがどん底だったから、あとは楽になるだけだと思ったし、幸いその通りになったよ。
ウォーターボーイズのみんなをすごく恋しく思って、あれをなぜ失ってしまったのか、取り戻すために自分は何をするべきなのかってことを必死で考えたんだ。
■そういう意味でも、過去に活動停止時期があったとはいえ、ウォーターボーイズというバンドはあなたにとってやはりなくてはならない「武器」であり「ホームグラウンド」なのだな、ということがよくわかります。あなたがウォーターボーイズを背負っている意味、意義はどこにあると考えていますか?
マイク:僕は90年代にソロ・アーティストとして2枚アルバムを出したけど、ウォーターボーイズという「上着」なしでやるのはすごく変な感じがした。自分より大きな何かがあるっていう感覚が恋しくて、「マイク・スコット」だけなのはどうも気に入らなかった。「ウォーターボーイズ」の名前でやるときは、僕単体のときよりもミステリアスさや、存在感が増すんだ。それにバンドのメンバーそれぞれちがった立場を持っているっていうのも大事だよ。97年、日本に行ったときもソロ・ツアーの途中だったけど、そのツアーでもバンドはいたんだ、ただし僕のソロのバンド「マイク・スコット・バンド」としてね。なんだかすごく変な感覚で、どうにもしっくりこなかった。不完全な感じがしたんだ。そしてその次にツアーをしたときはまたウォーターボーイズとして演奏することができたけど、それははるかによかったし、まるで世界が正しい軸に戻ったようだったよ。
■さて、新作についてなのですが、前作『アン・アポイントメント・ウィズ・ミスター・イェイツ(An Appointment With Mr. Yeats)』はウィリアム・バトラー・イェイツの詩に音をつけるというコンセプトで制作されたアルバムでしたが、今回は一転してナッシュヴィル録音です。過去にもアメリカ録音を敢行したことのあるあなたが、いまなぜナッシュヴィルに赴こうとしたのですか?
マイク:イェイツはアイルランドの詩人。それで実際前回のアルバムでは、僕自身ダブリンにまた引っ越したんだ。彼の街にいたかったからさ。アイルランドの文化をただ中で感じたかった。アルバムを作るまでの2年間そこに住んで、そもそもあれはアルバムになる前、「アン・アポイントメント・ウィズ・ミスター・イェイツ(An Appointment With Mr. Yeats)』ってタイトルのライヴ・コンサートとして生まれたものだったんだけど、そのショウをイェイツ自身が創立したアイルランドの国立劇場であるアビー・シアターで上演する、という流れがあったんだ。僕にとって、このショウをイェイツ自身の作った劇場でやるっていうのはとても重要なことだった。そしてダブリンでの2年間、僕はイェイツはもちろん、その時代の詩人や作家を読みふけって、昔のケルトの世界に浸りきったんだ。そしてアルバムを作ってツアーが終わった頃には、僕はすっかり「イェイツ疲れ」していた。すっかり自分の生活そのものをその世界の中で送っていたから、そこから出てきたときには何かまったくちがうものが必要だったんだよ。幸い僕はここ10年くらいアメリカのソウル・ミュージックをよく聴いていて、自分でもそういうサウンドやファンキーさのあるレコードが作りたかった。それがナッシュヴィルでレコーディングしようと思った理由のひとつさ。
前作を作ってツアーが終わった頃には、僕はすっかり「イェイツ疲れ」していた。すっかり自分の生活そのものをその世界の中で送っていたから、そこから出てきたときには何かまったくちがうものが必要だったんだよ。
それ以外にも、ナッシュヴィルにはたくさんの良くて安いスタジオがあるし、エンジニアの質も高いっていう理由もあった。ヨーロッパではスタジオの数がすごく減っていて、値段も高いうえに、腕の良いエンジニアの数も減ってしまった。ところがアメリカではまだレコーディング・スタジオの産業が健在で、とくにナッシュヴィルにはいまも40や50ものトップレベルのスタジオがある。それも広いレコーディング・ルームや、いいエンジニアがたくさんいるようなスタジオがいくつもあるんだ。そして2013年に、とても幸運なことにキーボード・プレイヤーのブラザー・ポールことポール・ブラウンに出会った。彼はメンフィス出身で、バンドに参加するとすぐに素晴らしいソウル・ミュージックの世界を持ち込んでくれたよ。彼の存在もナッシュヴィルでのレコーディングを決めた理由の1つだね。
■“アイ・キャン・シー・エルヴィス(I Can See Elvis)”の歌詞を見ていると、そんなアメリカのさまざまな音楽財産への憧憬を感じることができます。曲調もドゥー・ワップを取り入れた、あなたにとってはとても珍しいタイプの曲になっています。この曲はナッシュヴィルで録音することを想定して作ったのですか? それとも、こうした視点の曲は一つのテーマとしてつねに描いていたことなのでしょうか?
マイク:一種の音楽的なジョークとして、ああいうエルヴィスの初期のレコードのサウンドを使ってみたかったんだ。ちょっとした茶目っ気みたいなものさ。曲自体は2012年か2013年に書いたよ、どっちか思い出せないけれど。アルバムの曲全部がナッシュヴィルに行く前に書いたものだよ。アメリカでのレコーディングはこれが初めてじゃなくて、86年には『フィッシャーマンズ・ブルース(Fisherman's Blues)』でも少しやっているし、92年には『ドリーム・ハーダー(Dream Harder)』ってアルバムをニューヨークのスタジオでニューヨークのミュージシャンたちと作っている。でもあれは僕にとっては成功したアルバムとは言えないんだ。セールスはまあまあだったけど、芸術的にはいまいちで、思うようなサウンドが出なかったし感覚もしっくり来なかった。だからあのアルバムにはずっとどこかがっかりした気持ちがあったんだよ。アメリカのミュージシャンは素晴らしくて、彼らの演奏にはセクシーさや、粋さがあるけど、それをあのアルバムでは捉えきれなかったのが何より残念だった。
今回はそれをちゃんとやりたかった。今回の結果には満足しているよ。大きな要因の1つになったのは、今回のベーシストであるデイヴィッド・フッドと仕事ができたことだね。彼はアラバマ州にある、アメリカのロックやソウルの歴史上でも有名な音楽の街であるマッスルショールズの出身で、そこではボブ・ディランやローリング・ストーンズ、アレサ・フランクリンにジェームス・ブラウン、ザ・ステープル・シンガーズといった大物がレコーディングしたスタジオがある。そしてデイヴィッドはそれらのアルバムのいくつもで演奏しているんだ。ジェームス・ブラウンやザ・ステイプル・シンガーズと共演したことがある、クラシックなソウル・サウンドのベースをマスターしているんだよ。だから彼はこのアルバムにとても重要な影響を与えているね。
僕は一匹狼だから、他のソングライターといっしょに同じ部屋で座って、「これどう思う?」とか言いながら曲を書くタイプじゃないんだ。
■“ザ・ガール・フー・スレプト・フォー・スコットランド(The Girl Who Slept For Scotland)”も、70年代の米南部を思わせるスワンピーなロックになっていますし、遠くからスコットランドを思う少女の目線で書かれています。あれはどのようなイメージで書かれた曲なのでしょうか?
マイク:あの曲の意味は、たとえばいつも喋ってばかりいるイギリス人の友だちがいたとすると、「He could talk for England at the Olympics(彼はお喋りでオリンピックのイギリス代表になれるよ)」って言うことができるけど、それと同じで「スコットランド代表になれるほどよく眠る女の子」ってことだよ。これは僕の昔のガールフレンドについての実話で、彼女はすごく深く眠るから朝に起こすのが大変なんだ。だからよく、睡眠コンテストがあったら彼女はスコットランド代表として優勝できるねって冗談を言っていた。それがタイトルの由来さ。
■“ニアレスト・シング・トゥ・ヒップ(Nearest Thing To Hip)”の歌詞には「Brilliant Mistake」という名の少女が出てきますね。この名前と同じタイトルの曲がエルヴィス・コステロの86年のアルバム『キング・オブ・アメリカ』に収録されています。あの作品も、英国人の彼がアメリカに趣き、T・ボーン・バーネットとともにアメリカへの思いを形にした作品でした。何かシンクロするものを感じたのですが、あの作品をどの程度視野に入れていましたか?
マイク:そうだ、そうだね、あのアルバムに出てくる名前なのか! いまやっと思い出したよ、きっと潜在意識の中でその名前を覚えていたんだけど、そのときはどこで聞いたのかわからなかったんだよ。あれは「Brilliant Mistake」っていう名前のカフェで、女の子はそのカフェの中にいるんだ。たしかにそう言われてみればあのアルバムに出てくる名前だし、コステロもまさにあのアルバムでアメリカに行ってアメリカのミュージシャンとやっていたから、共通点は多いね。そのときは意識していなかったけど、きっと無意識でどこか頭の隅にあったんだと思うな。
■あの作品においてコステロが現地ミュージシャンと組んで録音したように、あなたも今作でナッシュヴィル拠点のミュージシャンを迎えてレコーディングをしていますしね。
マイク:そうだね。今回のミュージシャンたちのうち2人はすでに共演したことがあったんだ、キーボードのポールとリード・ギターのジェイは2013年前後にウォーターボーイズのライヴで何度もいっしょに演奏したことがあった。ふたりともナッシュヴィルに住んでいて、今回もいっしょにやることになった。それとデイヴィッドは僕らのマネージャーからの推薦で知り合ったんだ。その他のミュージシャンたちについては、ナッシュヴィルではたくさんのいいミュージシャンがいるから、たとえばある日バック・コーラスが必要になったとすると、誰々と誰々と誰々がいるよって言われて、その1時間後にはそのひとりがもうスタジオで歌っている、なんてことが普通なんだ。そしてナッシュヴィルのミュージシャンの水準はすごく高いから、そうやってやってくる人たち誰もがとてもいいミュージシャンなんだよ。
たとえばある日バック・コーラスが必要になったとすると、誰々と誰々と誰々がいるよって言われて、その1時間後にはそのひとりがもうスタジオで歌っている、なんてことが普通なんだ。
そんな感じで、ドリー・パートンのバッキングもしていたヴィッキーは今回のアルバムの2曲のためにスタジオに来てバック・コーラスを歌ってくれたし、トランペット奏者のスティーヴやナッシュヴィルでも指折りのドラマーのグレッグも参加してくれた。僕らはいったんアルバム全部のレコーディングをしたんだけど、その後で2曲ほどやり直したくなったんだ。でもそのときにはバンドのドラマーであるラルフはロンドンに帰ってしまっていて、そっちで仕事があったからナッシュヴィルに戻ってくることはできなかった。それでグレッグに来てもらって2曲やってもらったんだけど、素晴らしいドラマーだよ。
■ジェームス・マードック、フレディ・スティーヴンスンといったシンガー・ソングライターたちの参加も興味深いですが、彼らとの交流はいつ頃からはじまり、今回の作品への参加に対し、あなた自身はどういう部分を彼らに求めましたか?
マイク:彼らは僕の友人で、ふたりともニューヨークに住んでいる英国人のソングライターなんだけど、僕もニューヨークに小さな部屋を借りていてよくそこに滞在するから、ニューヨークには友人が多いんだ。ニューヨークにいるときはダブリンにいるときより外に出たりして社交的な生活を送っているしね。ジェームスとフレディは中でも僕の親友で、ふたりとも素晴らしいソロ・アーティストでもある。僕はときどき自分のソングライティングに飽きることがあって、何かちがうものが聴きたくなるんだ。それでメールで今回の歌詞のうち3つをジェームスに送って、1つをフレディに送ってみた。すると彼らはその歌詞にメロディを書いて、MP3をメールで送り返してくれた。それを僕が聴いて、変えたい部分を変えてまた送り返して、そういうやりとりを続けて曲を完成させたんだよ。とてもいいやり方だったね。僕は一匹狼だから、他のソングライターといっしょに同じ部屋で座って、「これどう思う?」とか言いながら曲を書くタイプじゃないんだ。自分ひとりで自分のペースで仕事をしたいのさ。だから、メールでやりとりをするのは、他の人と共同作業をしながらも、同時に自分ひとりで仕事ができてよかった。
彼らに求めていたのはとにかく音楽性さ。たとえば“ニアレスト・シング・トゥ・ヒップ”の歌詞ができたときは、言葉だけで音楽がついていなかった。それかもしかしたら、音はついていたけどあまりよくなかったのかもしれないな、どっちだったか思い出せないけど。それでジェームスにその歌詞を送ったら、彼が送り返してきたのはほとんどアルバムに入った曲そのままのものだった。唯一、僕がやったのは、ブリッジの部分くらいさ。他の部分はほぼすべてジェームスが書いたメロディで、彼の作ったものを聴いたときとてもうれしかったよ。
僕はケルアックの他の本はあまり好きじゃなくて、『路上』が彼の本の中で断然いちばんだと思うよ。他のは、僕には未完成品のように思えるんだ。
■“ロング・ストレンジ・ゴールデン・ロード(Long Strange Golden Road)”は10分を超える圧巻の作品で、歌詞もケルアックさながらのロード・ムーヴィ風リリックになっていますね。この曲には実際にケルアックの『路上』の朗読部分がサンプリングされてますが、あなたにとってケルアック、および『路上』はどういう存在ですか?
マイク:『路上』を初めて読んだとき僕は20歳で、すごく大きく深い影響を受けたんだ。あの本は旅についてだけじゃなく、友情や世界の見方についての話でもある。僕はケルアックの他の本はあまり好きじゃなくて、『路上』が彼の本の中で断然いちばんだと思うよ。他のは、僕には未完成品のように思えるんだ。
■あなた自身、デビュー以来、スコットランド人というアイデンティティの上に立ちながらも、ノマドのごとく精神的にさまざまなエリアをさまよってきました。『路上』から学んだ人生の哲学、ミュージシャンとしてのインスピレーションがあなたをどう動かしてきたと言えますか?
マイク:僕がいつも住む場所を移動しつづけているのはあの本のせいではないけれど、まだ子どもの頃に両親が何度も引っ越しをしていたから、3年や4年ごとに生活ががらりと変わることに慣れたんだろうね。いつもちがう街やちがう景色の中にいて、そこからインスピレーションを受けていた。80年代にアイルランドに移り住んだのはとても大きなインスピレーションになったし、その後90年代にはニューヨークに引っ越して……と、ずっと移動しつづけているんだ。そういう動きつづける生活はこれからもずっと人生の一部でありつづけると思うけど、最近はダブリンでずいぶん落ち着いてきてもいるよ。
■同じこの曲には、もう一つ、日本の近藤トモヒロによるピアノ演奏も使用されていて、そうした起用からもまた地域を超えてノマドのごとくワンダリングしつづけるあなた自身の思想が感じられます。あなたの“フィシャーマンズ・ブルース”をカヴァーしたこともある近藤の演奏、作品のどういうところに惹かれているのでしょうか。
マイク:彼の音楽にあるメロディックなセンスに、僕と共鳴するものがあるんだ。彼の作る音楽はかなりちがっていて、送ってくれたアルバムもとても熱量の高いロックンロールだけど、もう1つのアルバムはもっとメロウで、どの作品にも通じるメロディ感覚があるんだよ。それが僕に訴えかけるものがあるのさ。きっと影響を受けたものも共通しているんだと思うね、彼も昔のボブ・ディランが好きみたいだし。
■こうした性格の作品に対し、『モダン・ブルース(Modern Blues)』とタイトルを与えたのはどういう理由からでしょうか? かつての『フィッシャーマンズ・ブルース』と呼応したようなタイトルなのも印象的ですが、実際にはそこは意識していたところでしょうか?
マイク:『フィッシャーマンズ・ブルース』は、アメリカでのレコーディングも少ししていたし、アメリカ人のプロデューサーといっしょにやったから、そういう共通点もあるし、ライヴ録音でのアルバムっていう点でも共通しているけど、実際の制作としてはかなり異なったものだったよ。『フィッシャーマンズ・ブルース』がスタジオでほぼ即興で作られたのに対して、今回は事前にすべての曲を書いて、リハーサルしてからレコーディングに臨んだから、もっと緻密なものになっている。アルバムのタイトルは“Rosalind (You Married The Wrong Girl)」を聴いていたときに思いついたんだけど、べつにこれが字義どおりのブルース・レコードだってわけじゃないし、音楽的にもそれほどブルースじゃない。ブルースっていうのはなにも音楽性だけを指すものじゃなくて、歌詞の書き方や歌詞の中の「ロマンス」のことでもあると思うんだ。今回の歌詞にはそういうロマンスの要素がいくつも入っているよ。それにアルバムのジャケット写真とタイトルのミスマッチ感も気に入ったんだ、タイトルを決める前にジャケットを決めていたからね。