「K A R Y Y N」と一致するもの

 おかげさまで大好評の『バンドやめようぜ!』。そのリリース・パーティが決定しました。2月5日下北沢THREE、入場料は無料! 
 なので、ぜひ、ぜひ、イアン・マーティン推薦のインディ・バンドの演奏とDJをお楽しみください!
 

■Call And Response Indie Disco presents:
『バンドやめようぜ!』リリース・パーティ

PLACE: 下北沢THREE
DATE: 2/5(月)
TIME: 19:30 open/start
CHARGE: FREE
LIVE:
・The Fadeaways
・(m)otocompo
・JEBIOTTO
DJs:
・Fumie (Bang The Noise)
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行松陽介 - ele-king

新年DJチャート

Moritz von Oswald & Ordo Sakhna - ele-king

 「テクノ/ミュージック」はどこに向かうのか。これまでの世界を規定していた西欧中心主義の枠組みが壊れ、固有の領域における自律性が保てなくなり、末期資本主義の限界(現在の世界はもはや単に金融至上主義である。また加速度的なグローバル資本主義が一種のファンタジーのように希求されるようになったことも資本主義の終焉を意味しているといえよう)が明確になり、「欧米中心の世界地図」というファンタジーが成立しなくなった以上、「テクノ」という音楽ジャンルもまた不可避的に変容を迫られている。
 だが、むろん、この問いは「テクノ」が誕生(だが、それはいつのことか? そもそも「テクノ」は誕生などせず、ただミュータントのように派生・増殖したものではないか? という当然の疑問はあるだろう)して以降、常に発せられ続けてきたものでもある。そもそも「テクノ」は非中心的/週辺的な音楽ではなかったか。

 ドイツのモーリッツ・フォン・オズワルドはその問いに対して、サウンドの領域を拡大してみせることで新しいフォームを生み出してきたアーティストである。あのベーシック・チャンネルやリズム&サウンドは、ミニマル・テクノとダブ・サウンドを融合させ、ミニマルであることとサウンドの「深み」を相反することなく同居させ、「テクノ」における新しい快楽と刺激を生み出した。それがミニマル・ダブという潮流を生み出したことは言うまでもない。彼は機能性のもたらす快楽を拡張してみせたのだ。
 近年も、カール・グレイクと行ったクラシック音楽(カラヤン指揮のベルリン・フィルによるラベル「ボレロ」「スペイン狂詩曲」、ムソルグスキー「展覧会の絵」)のリコンストラクション『リコンポーズド』(2008)や、〈ECM〉からのリリースでも知られるジャズ・トランペッターのニルス・ペッター・モルヴェルとのコラボレーション・アルバム『1/1』(2013)、デトロイト・テクノのオリジネーターのひとりホアン・アトキンスとのコラボレーション・アルバム『ボーダーランド』(2013)、『トランスポート』(2016)、さらにはモーリッツ・フォン・オズワルド・トリオにおけるトニー・アレンとの共演など、常に「テクノ」の領域を刷新するような活動を行ってきた。そんなモーリッツ・フォン・オズワルドの最新の活動成果が、中央アジアにあるキルギス共和国の音楽集団オルド・サフナ(ORDO SAKHNA)とのコラボレーションである。オルド・サフナのライヴ演奏はこちら。

 この『Moritz Von Oswald & Ordo Sakhna』のリリース元は〈オネスト・ジョンズ〉で、フィジカルは10インチ盤の2枚組仕様となっている。収録曲はアカペラ、マウスハープ、キルギスの伝統的な楽器によるオルド・サフナの演奏/曲のベルリンでのスタジオ録音、キルギスの首都ビシュケクでのライヴ音源、そしてモーリッツ・フォン・オズワルドによるダブ・ミックスが収録されており、まるで「新しい音楽地図」を描き出すように、ヨーロッパ/中央アジアの音楽を交錯させていく。じっさいキルギス共和国は、中国、ロシア、そしてイスラムのあいだに位置する中央アジアの多民族国家である。本作では、そんな複雑な文脈を持った国家の伝統的な音楽とミニマル・ダブという、まったく異なる音楽性の差異を尊重しつつ、音楽と音楽、響きと響きが溶け合う瞬間があるのだ。
 アルバムとしてみればコンピレーションと共作の中間にあるようにも思えるし、今後、さらに本格的な共作へと行き着く可能性も感じるが、しかしこれは「テクノ」を進化/深化させるための貴重な仕事であることに違いはない。そのうえ安易なオリエンタリズムにも軽率なクロスオーヴァーにも陥っていないのだ。世界が断絶しつつある今、モーリッツ・フォン・オズワルドは世界のさまざまな音楽と協働を行おうとしているかのようである。

 オルド・サフナによる演奏の曲もどれも素晴らしい(特にC2のアカペラ“Talasym”と、C3の歌唱とギターによる“Kolkhoz Kechteri”は心の奥底の泉に落ちるような演奏である)が、C4 “Bishkek, May 2016”以降、D1 “Draught”、D2 “Draught Dub”で展開されるモーリッツ的なミニマル・ダブとオルド・サフナの音楽とが見事に交錯するトラックも貴重な試みであろう。
 なかでも音楽の境界線の融解という意味で、B面すべて(つまりアルバムの中心に位置する場所にある)を占める長尺トラック“Facets”も忘れがたい出来栄えである。15分におよぶこのトラックにおいては、ビートもダブもノイズもドローンもオルド・サフナによる音楽もそのすべてが溶け合っている。ここまでエクスペリメンタル/ノイズなモーリッツのトラックも珍しい。そして、その響きのむこうにうっすらと聴こえるオルド・サフナによるキルギス共和国の伝統音楽……。ダブ、ノイズ、そして伝統的な民族音楽が融解する音響空間には、本作の「理想」と「思想」が見事に体現されているように思えてならないのだ。

嘘八百 - ele-king

 邦画をバカにしていた頃、とくにエンターテインメントだと、観終わってから「ハリウッド・リメイクあり」か「なし」を判定して遊ぶということをやっていた。「日本人にしかわからないからいい」という場合もあるのでややこしいけれど、まあ、たいていは面白くて外国の人にも通じる普遍性があれば「あり」というような判断だった。その習慣にならっていえば『嘘八百』は「リメイクあり」。ハリウッドというよりイタリアかフランスには楽しんでくれる人がいそうだなと。最近のフランス映画でいえばクザビエ・ボーヴォワ監督『チャップリンからの贈りもの』ともよく似ていて「駆け引き」で見せるところも通じている。『チャップリンからの~』はチャップリンの遺体が墓から盗まれ、遺族に身代金が要求されたという史実を元にしたコメディ。企画を持ちかけられたチャップリンの遺族は思い出したくもない過去をほじくり返され、最後は……ノリノリで出演までしているという制作話がまたよかった。これにストーリーもテーマも被るものがあり、「チャップリン」の位置にくるのは『嘘八百』では「千利休」ということになる。『百円の恋』の監督と脚本家が再タッグを組んだということだけで興味を持った僕は何も知らずに見始めたので、まさかコメディで、しかも「利休の茶碗」をめぐるスウィンドル・ムーヴィーだとは思ってもみなかった。外国の人に伝わらないとしたら、この「利休の茶碗」というモチーフになるのでしょうか(「風流」というのはクール・ジャパンなんだろうかどうだろうか?)。

 骨董品を扱う小池則夫(中井貴一)が娘を連れて民家を訪ねてまわり、蔵などから掘り出し物を探すところから話は始まる。企画の発端は堺市に焦点を当てることだったそうで、最初から堺市の町並みを強調していたのかもしれないけれど、僕は行ったことがないので、映像にそのような醍醐味があるのかないのかもわからなかった。貧富の差に関わらず全編を通して堺市の町並みには閉塞感だけが感じられた(道を歩いていても誰かに会う気がしないという)。小池が最初に尋ねた家には野田佐輔がいて、気安く蔵の中を見せてくれる(野田役を演じる佐々木蔵之介はちなみに『夫婦フーフー日記』で「”I’M FISH”」のTシャツを2回も着ていた人気の京男)。そして、骨董品屋に売りつけられたという茶碗を見せられた小池はそれは偽物ですねといって安く買い取り、その茶碗を売った骨董品屋に詐欺の証拠品として突きつけてみるも店主には軽くいなされてしまう。あぶく銭をせしめられず腐っている小池に今度は野田の方から電話が入り、小池はある書状を手掛かりに「利休の形見」を発見する。しかし、案の定(以下、ネタばれ)それは偽物で、しかも野田はその家の住人でもなければ蔵の持ち主でもないことが判明。野田の足取りを追って小池が発見したのは居酒屋を拠点とする贋作グループの存在であった(そのひとりとして『0.5ミリ』でも抜群の演技を見せた坂田利夫が登場~)。

『ウルフ・オブ・ストリート』はディカプリオ演じるジョーダン・ベルフォートとジョナ・ヒル演じるダニー・アゾフが投資会社を始めるところから話は滑りだす。同じくジョナ・ヒルとマイルズ・テラーが手を組んだ『ウォー・ドッグス』もふたりが兵器の輸入会社を興すところから話は大きくなっていく。統計を取ったわけではないけれど、邦画には『トラック野郎』や『まほろ駅前多田便利軒』のように似た者同士がタッグを組むということはあっても、ひとりが独特な才能を持ち、もうひとりがマネージメント能力でこれと結びつくという関係が軸になる作品がすぐには頭に浮かんでこない。ひとりで孤独な戦いに挑むか3人以上の集団で何かを成し遂げるという話はいくらでもあるのに、そもそも「ふたり」という単位が少ないというか、映画的な主人公はひとりであっても、その動きが「ふたり」を起点としているという発想になかなか出会うことがない。『昭和残俠伝』はパートタイム的だし、『下妻物語』も戦う場所は別々。うまく言えないけれど、師弟コンビのように上下のある関係ではなく、ある種の才能とそれを管理する才能があくまでも対等に位置しながら世界に対していくという設定が不勉強のゆえかどうしても思いつかない。強いて言えば夫婦で結婚詐欺を繰り返す『夢売るふたり』がそうかなと。『嘘八百』も詐欺を仕掛けるのはグループといえばグループなんだけれど、集団性がそのダイナミズムを生み出したり、大きな波が個人を飲み込んでいくようなものにはなっていかない。「小池と野田が手を組んでから」はあくまでも個人と個人が力を引き出し合っていく。

 日本の雇用は流動性が低いとされる。非正規雇用の増大には流動性を高めるという目的もあったと記憶しているけれど、それは小池と野田が手を組むように、ケース・バイ・ケースで個人と個人が能力を引き出しあう機会を増やし、特定の関係や組み合わせを固定しない社会を生み出したかったということではなかったかと記憶している。しかし、実際に非正規雇用が増えると、そのマイナス面ばかりが目立ったということは、非正規は労働の組み合わせを変える要因ではなく、タテ社会そのものはまったく変更が加えられていないので、単にその下部組織にしかならなかったという結論が出ているのではないかと。日本の労働はやはり家父長制的で、部下の能力を正確に評価するよりも忠実な奴隷と化した者に権力を譲渡するというパターンが大半なのだろう。こうした組織のあり方に馴染めなかった人たちが結果的に非正規として締め出されただけだとすると、個人の能力が生かされる場面などはこれからもとうてい望めないだろうし、日本企業が活性化せず、異次元緩和で延命しているだけという現状はやはり危機感を抱かざるを得ない(いまから思えば日テレもよく『ハケンの品格』などというドラマをつくっていたなーというか)。『嘘八百』で組む「ふたり」がすでに中年だというのはとても象徴的で、従来の組織で生かされなかった「ふたり」の才能が出会い、詐欺とはいえ経済を動かすということは、まるでかつて非正規が夢見せられた働き方を異次元で成立させているかのようなファンタジーにも見えてくる。「非正規よりも正社員に」という流れの中にこの作品を置いてみると、なんというか、これが最後の「抵抗」にさえ思えてくる。

 また、小池と野田が能力を発揮する場面が上等な部類に入るものだとしても、やはり詐欺行為にカウントされるということはある種の示唆に富んでいる。就職氷河期と呼ばれ、いわゆる正規職につけなかった世代の始まりと共に増大したのがオレオレ詐欺で、そもそもそれは政策の失敗から導かれた犯罪ではなかったかと思ったりもするからである。相関関係を証明した人はいないかもしれないけれど、正規雇用の門が閉ざされればそのようなスピン・オフが起きることは経済の専門家さんたちに予想されてもよかったのではないかと。
『嘘八百』にはまた、並行してラヴ・ストーリーも描かれている。その収め方というか、メイン・ストーリーとの絡め方も意表をついていて楽しかった。惜しむらくは「嘘八百」の「八百」は江戸八百八町に由来しているので、堺市なりのタイトルをひねり出して欲しかったということくらい。

Mining - ele-king

 ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹という強力かつ斬新な組み合わせによるライヴ・プロジェクト、「Mining」の続編が東京・山梨でも開催される。ジムはギターにシンセサイザー、石橋英子はフルートとエレクトロニクス、日高理樹はギター。ライヴは3部に別れており、1部は日高理樹ソロ、2部はジム・オルークと石橋英子によるライヴ、そして3部では3人による即興演奏が予定されている。君も目撃者になれ!

2月5日 (月)
@東京 渋谷7th FLOOR

OPEN:19:00
START:20:00
料金:前売¥4.000 / 当日¥4.500 (+1drink order)
出演:ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹
チケット取り扱い:e+ / 渋谷7th FLOOR店頭 (03-3462-4466)
メール予約:info@stereo-records.com
チケット発売:1月5日 11:00~ (7thFLOOR店頭 16:00~)

2月7日 (水)
@山梨 桜座
OPEN:18:30
START:19:30
料金:前売¥4.000 / 当日¥4.500 (+1drink order)
出演:ジム・オルーク × 石橋英子 × 日高理樹
チケット取り扱い:桜座店頭 (055-233-2031)
メール予約:info@stereo-records.com
:kofu@sakuraza.jp
チケット発売:1月5日 11:00~



●ジム・オルーク
1969年シカゴ生まれ。Derek Baileyの音楽と出会い、13才のジム少年はロンドンにBaileyを訪ねる。ギターの即興演奏に開眼し実験的要素の強い作品を発表、John Faheyの作品をプロデュースする一方でGastr Del SolやLoose Furなど地元シカゴのバンドやプロジェクトに参加。一方で、小杉武久と共に Merce Cunningham舞踏団の音楽を担当、Tony Conrad、Arnold Dreyblatt、Christian Wolffなどの作曲家との仕事で現代音楽とポストロックの橋渡しをする。1998年超現代的アメリカーナの系譜から『Bad Timing』、1999年、フォークやミニマル音楽などをミックスしたソロ・アルバム『Eureka』を発表、大きく注目される。1999年から2005年にかけてSonicYouthのメンバー、音楽監督として活動し、広範な支持を得る。2004年には、Wilcoの『A Ghost Is Born』のプロデューサーとしてグラミー賞を受賞、現代アメリカ音楽シーンを代表するクリエーターとして高く評価され、ヨーロッパでも数々のアーティストをプロデュースする。また、日本文化への造詣が深く、近年は東京に活動拠点を置く。日本でのプロデュース・ワークとしては、くるり、カヒミ・カリィ、石橋英子など多数。坂田明、大友良英、山本精一、ボアダムスなどとの共同作業や、武満徹作品『コロナ東京リアリゼーション』(2006)など現代音楽に至る多彩な作品をリリースしている。映像作家とのコラボレーションも多くWerner Herzog、Olivier Assayas、青山真治、若松考二などの監督作品のサウンドトラックを担当。


●石橋英子
茂原市出身の音楽家。いくつかのバンドで活動後、映画音楽の制作をきっかけとして数年前よりソロとしての作品を作り始める。その後、6枚のソロアルバムをリリース。各アルバムが音楽雑誌の年間ベストに選ばれるなど高い評価を受ける。ピアノをメインとしながらドラム、フルート、ヴィブラフォン等も演奏するマルチ・プレイヤー。シンガー・ソングライターであり、セッション・プレイヤー、プロデューサーと、石橋英子の肩書きでジャンルやフィールドを越え、漂いながら活動中。最近では七尾旅人、前野健太、星野源、OGRE YOU ASSHOLEなどの作品やライブに参加。映画音楽も手掛けている。またソロライブと共に、バンド「石橋英子withもう死んだ人たち(ジム・オルーク、須藤俊明、山本達久、波多野敦子)」としても活発にライブを行う。4thアルバム「imitation of life」、そして2014年リリースの最新作「car and freezer」は米・名門インディレーベル「Drag City」から全世界発売。ら2016年春にMerzbowとのDUO作品を電子音楽レーベルEditions Megoからリリースした。

石橋英子HP
https://www.eikoishibashi.net/


●日高理樹 / Riki Eric Hidaka
91年生まれ。ギター奏者。
日高理樹 / Riki Eric Hidaka HP
https://rikihidaka.tumblr.com/


TOTAL INFO

STEREO RECORDS
https://label.stereo-records.com/

Chris Carter - ele-king

 時代の流れとはあるもので、昨年末のTG再発の盛り上がりも、しかるべきタイミングのリリースだったからだと思う。TG再発は今年も続くが(なにせ彼らの最高傑作『D.o.A.』も人気盤の『Heathen Earth』もまだリイシューされていない)、その前にクリス・カーターのソロ・アルバムのリリースの情報が入ってきた。3月30日に発売される、『ケミストリー・レッスンズ Vol.1』と題されたその17年ぶりのソロ作は、ノイズ/インダストリアルの祖とされることから逃れるように、彼が時折見せていたポップな側面も見えつつ、しかしそのいっぽうで彼一流の不快な音響もある。作品では60年代の電子音楽も参照され、ピーター・”スリージー“・クリストファーソンと一緒に作ったという人工音声も使われている。なにはともあれ、このアルバムは期待しても良いだろう。65歳になったクリス・カーターの新たな挑戦である。


クリス・カーター(Chris Carter)
ケミストリー・レッスンズ Vol.1 (Chemistry Lessons Volume One)
3月30日 (金) 発売予定

『オール・アイズ・オン・ミー』 - ele-king

 僕が1年間に観る映画のうち試写会で観る本数は一割ないぐらい。サム・ライミ『死霊のはらわた』を観たのが最初で(ちなみにその時はひとりで観た)、緊張とまでは言えない独特の堅い雰囲気がだんだんと好きになり、映画館や家で映画を観ている時より集中力は高くなっている気がする。何年か前に映画の試写もネットで予約するという方式が広まるかに見えた。しかし、このやり方はすでに廃止。ネット予約はすっぽかされる率が高かったのだろう。そのため、それ以前から続けられているやり方にいまは戻っている。先着順である。僕はどうしても観たい作品の時には30分前に行って、それでも『IT(イット)』などはギリギリでセーフだった。2パックの伝記映画も絶対に競争率が高いと思い、僕はやはり30分前に試写室に辿り着いた。ところが僕を含めて5人ぐらいしか待っている人はいない。えー、そんなに注目されていないのかと僕は驚いた。が、そうではなかった。試写が始まる直前に普段は試写室で見かけないB・ボーイの格好をした人たちが次から次へと試写室になだれ込んで来たのである。試写が始まってから入って来た人もいた(普通、それはない)。それだけではない。上映している最中にポツポツとトイレに立つ人がいるのである。試写に行ったことがある人には考えられない光景だと思うけれど、ファッションも含め、試写室というよりもそこはまるでクラブであった。こんなことは初めてで、さすが2パックと思うしかなかった。

 回想シーンに続いて滑り出しはブラック・パンサーの裁判が終わった場面から。押し寄せるマスコミに「弁護士をつけずに勝った」とアフェニ・シャクール(ダナイ・グリラ)は誇り高く言い放つ。彼女のお腹には胎児の2パックがすでに宿されている。ニューヨークからボルティモアに移って青年時代の2パック(ディミートリアス・シップ・ジュニア)がシェイクスピア劇の稽古をしているシーンやデートでの会話など感受性が育まれていく過程が手短に描かれる。そして経済的な理由でカリフォルニアに移動し、ワークショップの先生からショック・Gに会うことを勧められ、すぐにもディジタル・アンダーグラウンドに加入。いきなり全国ツアーを経験し、『ジュース』で映画デビューと、着実にキャリアが築かれていく一方、あれだけ毅然としていた母親は麻薬中毒になっている(ここから「ディア・ママ」に行ったと思うとなかなかに感慨深かった)。プロデューサーのL・T・ハットンは実際に2パックが残した言葉をデータベース化し、台本はそこから起こしていったそうで、取捨選択は働いているんだろうけれど、文学肌でギャングスタ、女好きでフェミニストといった2パックの多面性はもれなく網羅されている(あるいは、僕がすでにそういう目でしか2パックを見られなくなっているというバイアスをかけて見ているだけかもしれない)。逆にいうと2パックがどうしてあれだけ広く受け入れられたのかということは自明としている作品で、どの要素を前景化させるかによって、2パックのどこが世界と強く結びついたのかを解き明かそうとする意欲には欠けていたともいえる。レコード会社とのやりとりでネガティヴな作品を外そうとする経営陣に対し、そこを伝えなくてどうすると反論するあたりは(史実としてその要素があるのなら)反復強化する価値はあったと思ったり。

 最初の山場はデス・ロウとの契約シーン。ドクター・ドレの業界における現在の位置を確認しているようだった映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』では最悪の存在として描かれていたシュグ・ナイトも、ここでは多面的な人物として登場してくる。ヒドい面は想像通りかそれ以上だったとして、僕が意外だったのは『オール・アイズ・オン・ミー』という(映画のタイトルにもなっている)アルバム・タイトルを決める際、2パックが「みんなに監視されているようだ」と呻いた言葉を受けて「それだ!」と言って、タイトルを決めたのがシュグ・ナイトだったこと。クリエイティヴには参加しているというイメージすらなかったので、このシーンを観て少し人物像に揺らぎが起きた。日本でもミュージシャンとトラブルになる事務所やレコード会社のスタッフは多く、ミュージシャンの言い分しか世間には流通しないことが常だけれど、単に金の亡者としか思えない人がめったやたらといるわけではなく、スポットが当たらないのはもったいないと思うマネージャーや経営者はごまんといる。デス・ロウというレーベルはやはりラップに一時代を築いたわけだし、シュグ・ナイトにまったく存在価値がなかったわけではなく、本人は『ストレイト・アウタ・コンプトン』の撮影を邪魔しようとして殺人罪で逮捕されてしまったこともあり、彼の元で育った面もあるL・T・ハットンが2パックに寄せてシュグ・ナイトのこともそれなりに描きたかったのではないかということが、いくつかのシーンからは伝わってくる。だいたい、シュグ・ナイトを演じるドミニク・サンタナが妙に愛嬌を感じさせる役者で、それだけでも意図があるとしか思えない。考えすぎだろうか。ちなみに2パックが「みんなに監視されている」と感じていた理由はもう少し説明があってもよかった。

 東西抗争が重視されているとはいえない描き方もこの映画の特徴だろう(ビギーが撃ち殺されるシーンもない)。一昨年、DJプレミアにインタビューした際も、そんなものはなかった、マスコミが作ったものだと、東西抗争という考え方から彼は離れたがっているように見えたし、考えてみればあんなことがあったことをいつまでも誇りのように思っている業界などあるはずもない。それはこの作品も同じ考えなのか、そのことと呼応するように2パックを撃ったのではないかと思えてくる人物を何人か登場させ、銃撃が行われた瞬間、あいつだったんじゃないか、それともあいつかと、頭が勝手に犯人探しを始めてしまう。フィクションならば、その答えも明かされるんだろうけれど、エンド・クレジットにはいまだに犯人はわからないという文字が並び、わかっているのに意外とこの瞬間は切なかった。ギャングスタ・ラップの象徴的存在としてマスコミから集中砲火を浴びた経過も一通り描かれていたので、彼が撃たれた時にはそれみたことかという報道だったんだろうか、それとも、多くがそうした反応だったとしても、現在までにそのニュアンスは変わったんだろうかと、そういったことが一気に押し寄せてきた瞬間でもあった。2パックが25歳で没したことはクインシー・ジョーンズが悲劇として様々な言葉を残しているものの、娘のキダーダ・ジョーンズ(アニー・イロンゼ)が初めて父親に交際を許されたのが2パックだったということも僕はこの映画で初めて知った。ちなみに彼の名前であるインカ帝国最後の皇帝トゥパク・アマルも26歳でスペイン軍によって殺されている。

 共産主義者でマキャヴェリにかぶれ、シャイで喧嘩っ早く、優しくて自己顕示欲が強いなど、若き2パックが矛盾の塊であることに不思議はないものの、生きていれば人権派として伸びたんじゃないかという余韻が残った映画ではあった。この日の試写会がいつもと同じだったのは、映画が終わっても誰も何も喋らず、無言で帰っていったところだろうか。皆さん、静かな気持ちになっちゃったんでしょうか。

*ヒップホップについて一通りの知識がないと、この映画は難解かも。2パックについてものすごく詳しいという人が観る場合はわからないけれど、僕みたいに中途半端に知ってるぐらいが一番楽しめるのではないかと。


(予告映像)

Equiknoxx - ele-king

 電子機材で制作されたデジタル・ダンスホールは、ジャマイカ音楽における分水嶺であり、ルーツ&カルチャーにとって困惑の源でもあった。その起点となった80年代半ばの“スレン・テン”と呼ばれるリディムには、〈ON-Uサウンド〉が継承したような、マッシヴ・アタックが流用したような、1970年代に磨かれたダビーなベースラインはない。
 しかしながらそれは、ルーツ&カルチャーでは聞かれなかった、耳障りが良いとは言えない言葉をも表に出した。音楽スタイルの更新とともに、たとえばガントークなる芸風も生れたのだが、まあ、ジャマイカのダンスホールとUSギャングスタ・ラップとの関係性については他に譲ろう。ここで重要なことは、ゲットー・リアリズムに深く起因するダンス・ミュージック──シカゴのハウスやジュークもそうだが、激烈な快楽主義と、ときにはいつ死んでもかまわないというニヒリズムさえ感じるダンス・ミュージックは、サウンド面で言えば、革命的なスタイルだったりする、ということである。
 ジュークがそうであるように、デジタル・ビートはひとつのコーラジュ・アートでもある。ブレイクビーツも、最初はNYのアフリカ系/ラテン系が経済的制約のなかで創出したコラージュだ。欧米化された社会に生きる自分たちが、「アフリカ(という自分たちの居場所)」をでっち上げる/創造する、いわばディアスポリックなパワー。それは、カルチュアラルな土着性をいかにミックスするのかということであり、「お高くとまった文化へのカウンター」となりえる。OPNがAFXになれない大きな要因もここにある。シカゴのゲットー・ハウスを一生懸命にプレイしたリチャード・D・ジェイムスの感性を、むしろ理論的に乗り越えようとしているのは、2017年にジェイリンの『ブラック・オリガミ』を出したマイケル・パラディナスだ。

 2017年にリリースされたベルリンのマーク・エルネストゥスによるイキノックスのリミックス12"も、街一番のレゲエ蒐集家として知られるこのベルリナーが自分のレーベルを通じて紹介してきたのはルーツ&カルチャーのジャマイカだったことを思えば、興味深い1枚だった。もっとも、ダンスホールとルーツという二分法もいまでは古くさく思えるほどレゲエは前進しているという事実は、鈴木孝弥氏の訳で出たばかりの『レゲエ・アンバサダーズ』(DU BOOKS)に詳しいので、早くぜんぶ読まなければと思っているのだが、それとは別のところで起きていること、言葉ではなくサウンドのメッセージ、音によってキングストンの外に開かれていくこと、つまりアンダーグラウンド大衆音楽で起きていること──イキノックスがデムダイク・ステアのレーベルからアルバムをリリースし、レイムがスティーリー&クリーヴィーあたりの曲をミックスしたカセットテープを作り、そしてまた2017年の暮れにもイキノックスがデムダイク・ステアのレーベルから2枚目となるアルバムを出すことは、あまりにも面白い展開なのだ。

 ギャビン・ブレアとヨルダン・チャンを中心としたキングストンのプロデューサー・チーム“イキノックス”は、複雑にプログラミングされたそのリディム、鳥の鳴き声、そしてユニークな音響効果によって、こともあろうかイングランドのゴシック/インダストリアル系実験派たちとコネクトした(深読みすれば、この現象自体がプロテストである)。本作『コロン・マン』は、前作『バード・サウンド・シャワー』による欧州での大絶賛を得てからのアルバム──。
 そして欧州経験の成果は、ダブステップ以降の寒々しい荒野にもリンクする1曲目の“Kareece Put Some Thread In A Zip Lock”からはっきりと聴ける。ベースラインはない。美しいストリングスや瞑想的な音響、あるいは動物の声(?)を支えるジューク&ダンスホールを調合/調整したビート、野性と知性を感じる彼らのビートは、この1年でかなり洗練されている……わけだが、20世紀の初頭にパナマ運河を掘るために駆り出された9万人のジャマイカ人労働者をアルバム・タイトルにしているくらいだから、最先端のこのリディムがジャマイカの歴史とリンクしていることを強く意識して制作したのだろう。
 『コロン・マン』は、ステロタイプ化されたゲットー・ミュージックではない。しかしイキノックスは、ジャマイカが大きな影響力を持つ音楽の実験場であることをよく心得ている。リリースは1か月ほど前だったが、ぼくが2017年12月に最後に買ったアナログ盤はこれだった。ストリーミングでも聴けるんだけど、とくにこういう音楽は“盤”で聴きたいよね。じゃ、2017年のエンディングはアルバムのなかでとりわけオプティミスティックな“Waterfalls In Ocho Rios”で。

interview with Marina Kodama - ele-king

「音は電気なんだよ」と言われたのがものすごく衝撃で、セミの鳴き声もじつは電気なんだよって教えてもらったんですね。


児玉真吏奈 - つめたい煙
Pヴァイン

ElectronicaSSWPop

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 スモーキーというわけではない。でも、どこかから煙の漂ってくる気配がある。その不思議な感覚はおそらく、彼女のブリージィな歌声に起因しているのだろう。児玉真吏奈による初の全国流通盤『つめたい煙』は、そのタイトルに示されているように、えもいわれぬもくもく感を携えている。けれど、同じくタイトルに示されているような「冷たい」印象は与えない。“Dark Element”などはその曲名とは裏腹に、むしろ温かみを感じさせる。とはいえぬくぬく・ぽかぽかしているわけでもないのがこのアルバムのおもしろいところで、キュートかつストレンジなIDMポップが鳴らされたかと思えば、シンプルなピアノの弾き語りが挿入されたり、アンビエント調のトラックが浮遊感を紡ぎ出したりと、なんともつかみどころがない。まるでゆらゆらと辺りを漂い、やがては空へと消えていくはかない煙のようだ。児玉真吏奈は煙なのだろうか?
 難波ベアーズを中心にライヴ活動をおこない、あふりらんぽなど関西アンダーグラウンド・シーンとの接点を保つ彼女だが、本人的にはそれは「覗いている」感覚なのだという。その帰属意識の薄さや居場所のなさはこのアルバムにも強く表れ出ている。児玉真吏奈は「外」にいるのだ。だからこそ、“飲み物”や“oyasuminasai”のような繊細なリリックを紡ぎ出すことができるのだろうし、またそれが同じような感情を抱いたことのあるリスナーにそっと寄り沿う力を持つこともできるのだろう。
 このように不思議な魅力を放つアルバムを作り上げた児玉真吏奈だけれど、はたして彼女の真意はどこにあるのか? それを確かめに行ったインタヴュワーはやはり煙に巻かれてしまったのだろうか? その顛末を以下よりお楽しみください。


私、「真吏奈」って名前なんですけど、Fのコードってファの音から始まるから、私に「F」を足したら煙だ! と思って(笑)。

幼少期からピアノを弾いていたとお聞きしたのですが、それが音楽をやるようになった原点ですか?

児玉真吏奈(以下、児玉):家にアップライト・ピアノがあって、たしか5歳くらいの頃にピアノを習い始めました。でも習い始めたらすぐに先生が旅に出ちゃって(笑)。おもしろい方だったんですけどね。だからちょっとだけ習って、あとは自分で模索する日々が始まりました。

5歳にして独学なんですね(笑)。

児玉:はははは。そのとき自分でやっていろいろ発見して、ということがいまに繋がっているのかもしれないですね。

ピアノということはクラシック?

児玉:そうですね、クラシックの教材を弾いていました。でも(レッスンの教室が)おもしろい環境で、(教材以外にも)「悲しい音を出してみて」って言われれたりして弾いていましたね。それが日常だったので、小さい頃からアウトプットすることは多かったです。

いわゆるポピュラー・ミュージックに触れるようになったきっかけはなんだったのでしょう?

児玉:昔から家でラジオがかかっていたので、Jポップはよく聴いていました。小学生の頃はまだジャンルのことはよくわかっていなかったんですが、民族音楽とかもいろいろと聴いていましたね。私が小学生の頃に流行っていたのはUAさんやEvery Little Thingさん、あとは椎名林檎さんとかで、よく『Mステ(ミュージックステーション)』に出ていたので録画して観たりしていました。

そういうJポップと同時に民族的なものも聴いていたの? 誰かからの影響?

児玉:ラジオを聴いているとそういう特集があったりしたんですよね。知り合いにもそういう音楽が好きな人がいて、それで聴いていました。

その頃にはもう自分でも作り始めていたんですか?

児玉:そうですね。これはライヴでもよく話すんですけど、5歳くらいの頃に初めて歌を作ったんです。人生で初めて作った曲は、飼っているワンちゃんの歌。ワンちゃんって「散歩」ってワードを言うと昂奮するじゃないですか。その昂奮がすごくかわいくて愛おしくて、もっと昂奮させたいと思ったんですね。なら「散歩」というワードをたくさん使った歌を作ればすごく昂奮させられるんじゃないかと思って(笑)。それで散歩へ行く前に歌うために作ったのが“散歩のテーマ”という曲で、それが初めての作曲ですね。(相手が)犬だから反応もすごくピュアで、それがすごく嬉しかったのは覚えています。

電子楽器に触れるようになったのはいつ頃からなのでしょう?

児玉:たぶん親が好きだったからだと思うんですが、幼い頃にキング・クリムゾンを聴いたりしていて、そういう電子楽器とかを触ったりはしていました。でも、いまのようにシンセサイザーを使うようになったのはじつはけっこう最近で、20代に入ってからなんです。それまではずっとアップライト・ピアノで弾き語りをしていたんですが、もっと違う部屋があるような気がしていて。そうして方向性を模索していたときにモジュラー・シンセを演奏する方に出会って、そこで初めてアンビエント・ミュージックを知ったんです。その方に「音は電気なんだよ」と言われたのがものすごく衝撃で、セミの鳴き声もじつは電気なんだよって教えてもらったんですね。

セミの声が電気?

児玉:セミが「ミーン、ミーン、ミーン」と言っているのを木の下で聴いたら電気だってことがよくわかるよって言われて、実際に聴きに行ったんですけど、たしかに電気のノイズ音というか、たとえばテレビが点いていると(音量がミュート状態でも)すぐにわかるりますよね。

別の部屋にいてもわかったりしますよね。あれ不思議ですよね。

児玉:(セミには)それを力強くしたような感じがあったんですよね。それでその頃にシンセサイザーのお店も紹介してもらって、そこで(楽器を)触らせてもらえたんです。そのときに、いまも持っているコルグのクロノスというシンセサイザーを見つけて、すごく高いんですけど、「これがあったら児玉さんの言っていることがいろいろできるよ」と言われて。知り合いがそのシンセサイザーを使わせてくれたりして、そういう出会いが大きかったですね。

ピアノの弾き語りから電子楽器へ移行するときに、違和感などはありましたか?

児玉:ピアノをやっているときもよく(ピアノの)蓋を空けてなかを覗いたりしていて、いわゆる「ピアノを弾く」というよりは「打楽器や弦楽器をやる」ような感覚で、(ピアノのなかの)弦を弾いて音を出したりしていたんですね。そういうふうに(ふつうの)使い方をしていなかったから自然に(シンセに)行けたのかもしれないです。

アルバムの1曲め“Fio2:60%”の終盤に顕著なのですが、子音を打楽器や効果音のように使っていますよね。

児玉:あれは、スタジオに入ったときに、ミュージシャンのあいだで回っているルーパーをいただいたんですよ(笑)。それを使いたくて、何回か即興テイクを録ったんです。遊んでいる感じですね。だから(意識的に)素材として使おうとして使ったという感じではないですね。あとで聴いてから使おうと思いました。

児玉さんのヴォーカルは、おそらくよく「ウィスパー系」と言われるかと思うんですが――

児玉:言われます(笑)。

ご自身ではどう思われますか?

児玉:空気が多いんだろうなとは自分でも思うんですけど……でもどちらかというと「ウィスパー」って透き通った綺麗なイメージがあって、私はウィスパーのなかでも透き通っているというよりかは曇っているような気がしています。「燻製の声だね」と言われたことがあるんですが、それがいちばんしっくりきたんですよね。けっこうしゃがれたりもするので、それはたしかにそうだと思いました。

児玉さんにとってヴォーカルは特別なものですか? それとも、ほかにもいろいろある楽器のなかのひとつですか?

児玉:すごく特別です。めちゃくちゃ特別ですね。自分といちばん近い気がします。自分の声なんですけど(笑)。(ほかの音の要素が)それぞれバンド・メンバーだとしたら、(ヴォーカルは自分に)いちばん近い存在な気がします。いろんな声が出たりするのもおもしろい。たとえば裏声で歌うと、同じ人でも違う声になったりするのがすごくおもしろいと思いますね。

「私すごく病んでます」って言えるのはすごく幸せなことなんだと思います。

3曲めの“Dark Element”は展開がおもしろいです。これはあらかじめこのようにしようと考えていたんですか?

児玉:ライヴをやるときって、自分のなかであらかじめ決めておく部分と決めない部分があるんですが、それと同じように、(“Dark Element”の)始めの歌がある部分ではちゃんと(展開を)作っているんですけど、(展開が)自由になる部分も残しているんです。あれも大阪のスタジオで一発録りしたものですね。

このタイトルは、児玉さん自身のダークな側面ということでしょうか?

児玉:はははは。シンセサイザーのセットにいろんな名前がついているんですが、そのセットの名前が「Dark Element」なんですよ。それで調べてみたら「ダークな側面」という意味だったのでピーンと来て、これにしようと思いました。

その次の“私にFを足してみて”というのも不思議なタイトルです。森博嗣の小説を思い浮かべたんですが、それとは関係ありますか?

児玉:それって『すべてがFになる』ですか? 最近よく聞かれるんですよ(笑)。その小説は知らなかったので、逆に気になっているんですけど、それじゃないんですよ。

これは連想しちゃいますよ(笑)。では「F」ってなんなんでしょう?

児玉:ちょうど1年くらい前に、初めて高知にライヴで行ったときにできた曲なんですけど、その高知で過ごした時間がすごかったんですよ。旅をしないとわからない空気というか、靄のような霧のようなものがかかっている神秘的な場所があったんです。そのときは自分で車を運転して行ったんですけど、徳島から高知に近づくにつれてどんどん煙とか霧とか自然が溢れていって、着いてから見た景色も「回想シーン」みたいにちょっとぼんやりしているというか。そのイメージがあったので、大阪に帰ってきてすぐに曲が書けたんです。でもタイトルだけ決まらなくて、どうしようかなと思っていて。そのときたまたま長野県で大麻で捕まった人たちのニュースを見て……私、「真吏奈」って名前なんですけど、Fのコードってファの音から始まるから、私に「F」を足したら煙だ! と思って(笑)。とくに深い意味はないです(笑)。これに気づいてくれたら嬉しいなと思って。

なるほど(笑)! 「マリナ」に「ファ」を入れてみる、ってことですね(笑)。でもドラッグ・ソングというわけではないですよね(笑)。

今村(A&R):そこは誤解されないよう(笑)。

この曲に出てくる「夜をひっぱり貼り合わせる」というフレーズがすごく耳に残ったんですが、詞を書くうえで影響を受けているものはあるのでしょうか?

児玉:詞はじつはいちばん苦手なんですよ。昔から絵本とか写真集とか絵画集とかはすごく好きだったんですけど、文字にはあまり触れてこなかったんですよね。だからこそそういう歌詞になっているのかもしれないです。自分の持っているもので料理しないといけないってなったときに、代わりのもので間に合わせるというか(笑)。たとえばごはんを作るときの、「これを作りたいけど材料がないから、代わりにあれを使う」みたいな感じで、自分の持っている少ない言葉を当てはめていったら、本来の意味じゃない意味になったりすることがあって。でも影響を受けているものとなると……高校生のとき、古典はおもしろいと思いました。和歌とかって、文字の数は少ないのにすごく意味が込められていますよね。あれには衝撃を受けました。想像を膨らませるのが好きで、百人一首はよく読んでいましたね。それはもしかしたら(影響が)あるかもしれない。あと、こういうミュージシャンのインタヴューも好きで、よく読みます。だから文字を読むこと自体は嫌いではないと思うんですよね。これからもっといろいろ読んでいきたいです。これまでは言葉のないものにばかり触れてきたので。

言葉が苦手なのに、自分で歌詞を書くことを選択したのは少し不思議な気がします。

児玉:そうですね。いまもなんですけど、ふだんから(相手に何かを)伝えるときにすごく苦労しますね。こういう(取材の場で)意思を伝えるのも。幼いときの「悲しい気持ちを音にして」というふうに、音で感情を出すほうが自然ですね。言葉でとなるとすごく難しい。

その幼い頃の「悲しい気持ち」って、どのようなものだったのでしょう?

児玉:幼稚園生の頃は暗黒期でしたね(笑)。みんな遊具とかで楽しそうに遊んでいるのに、私はあんまり幼稚園が好きじゃなかったのか、毎日が憂鬱でした。幼稚園から帰ってきて、ふうって一息ついてピアノを弾くという日々でしたね。

それは小学生のときも?

児玉:好きな女の子とか友だちもいたんですけど、漠然としたダーク・エレメントはありましたね(笑)。でも人間関係はごくふつうの、幸せな感じでした。ただ好奇心がすごく大きくて。習い事とかもたくさんしていて、昔からいろんな世界を見ていたんですよね。通っていた小学校だけじゃなくて、水泳(教室)でほかの学校の友だちができたり、地域の鼓笛隊に参加したり、「外の世界」みたいなものの感覚は昔からありましたね。

5曲め“飲み物”や6曲め“oyasuminasai”で表現されている「自分の気持ちに蓋をする」ような感覚は、そういう経験から来ているんでしょうか?

児玉:そうですね。それはもしかしたらあるかもしれないです。

このリリックは、学校や会社で仮面を被って過ごしている人たちが共感できるような表現だと思いました。これは、他人のそういう状況を描いたというよりは、ご自身の感覚なのでしょうか?

児玉:自分で自分のことをさらけ出せるのはすごく幸せなことだと思うんです。私はたぶん昔からいろいろと感じるタイプだったと思うんですけど、身近にもそういういろんな人がいますよね。友だちが悩んでいることとか、自分の家族の複雑なこととか。でもそれは、自分自身のことじゃないから言えないというか。でもいろいろ感じることはあって。自分から生まれる煙じゃないけど(笑)、自分の出来事だったらさらけ出せますが、他の人の出来事だったら言えないというか。私は家庭環境もとくにめちゃくちゃな感じではなくて、すごく幸せな家庭だったんですが、じつはおじいちゃんが結婚を3回していているんです。1人めとはふつうに結婚して離婚したんですね。2人めが私の本当のおばあちゃんなんですけど、30代のときに亡くなっちゃって。それで3人めの新しいおばあちゃんが来る、という感じだったんです。でもぜんぜん深刻な感じではありませんでした。その3人めの、いまいるおばあちゃんも大阪のファンキーな感じのおばあちゃんで。でもそのおばあちゃんのお兄さんはちょっといろいろあって、自殺しているんですね。家族内ではそういうことがあって、家族のなかでいろいろあると一緒に暮らせない時期もでてきたりして。そういうところで生まれるさびしさみたいなものが、おじいちゃんとおばあちゃんの家で生活するときにもちょっとあって、でも「楽しいよ」ってふつうに過ごしてきたんです。そういうふうにいろんな感情を持ったまま生活しないといけないというのは昔から思っていました。だから逆に、「私すごく病んでます」って言えるのはすごく幸せなことなんだと思います。

アルバムの前半はビートがあったりエレクトロニカっぽかったりしますが、後半はアンビエントっぽかったり弾き語りが目立ったりします。この構成には何かストーリーがあるのでしょうか?

児玉:(アルバムの)テーマが「夜明け」だったので、大きな流れとしては(ストーリーが)ありますね。

少しずつ夜が明けていく感じですか?

児玉:そうですね。“oyasuminasai”が夜の寝る時間なんですけど、そこでいつも終われないので、その先の夜明けで終わるという感じですね。夜明けのちょっとグレイがかった空の感じですね。

昼よりも夜のほうが好き?

児玉:夜のほうが元気になりますね。最近になってやっと昼も元気になりました(笑)。

ヴァンパイアみたいですね(笑)。

児玉:でも早朝はすごく好きです。夜がちょっと残った朝は好きですね。

これからどんどん明るくなってしまう悲しさというか。

児玉:その感じはすごくあります。

今回はほぼすべての曲に歌が入っていますが、前作の『27』のようなアンビエント的な方向性ももっと聴いてみたいと思いました。たとえば声と具体音でドローンをやる、みたいなことに関心はありますか?

児玉:やっぱり歌がすごく大事で、歌いたいという気持ちが大きいんですよね。あの『27』も、「歌わずにどれだけ歌えるか」ということをやってみたかったんです。だからアンビエントをやろうという人たちからするとちょっと違うのかもしれない。でもああいうのはまたやりたいと思いますね。

詞を入れずに声を音として使ってみたいと思うことはあります?

児玉:じつは、いつも歌の原型がそれなんですよ。まだ言葉になっていない言葉で歌っているので。曲の生まれたてのかたちはいつもそうですね。

その最初の段階と、最終的に詞がついた段階でイメージが変わった曲ってありますか?

児玉:日本語ってけっこうはっきりしちゃうというか、意味を限定しちゃう感じがあると思うんですね。たとえば「海」と言うとみんなの頭のなかにはあの「海」が広がっちゃうんだろうけど、英語とかだったらほかにも何通りも捉え方があったり。そういう意味では、(イメージが変わった曲は)ぜんぶかもしれない(笑)。“けだるい朝”もフレンチ・ポップなイメージで作っていたんですけど、日本語を付けるといわゆる歌モノって感じになったんですよね。“私にFを足してみて”もけっこう変わりましたね。適当に歌っているときは本当に洋楽みたいな感じだったんですが、日本の歌モノって感じになりました。

ちなみにフィオナ・アップルって聴いたことありますか?

児玉:めちゃくちゃ好きです。

そうだったんですね! 音楽的には違うんですけど、児玉さんの曲を聴いていたら思い浮かべてしまって。

児玉:嬉しいです。すごく好きですね。フィオナ・アップルとかフアナ・モリーナとか、国の違う女性にすごく刺戟は受けていますね。

ギリギリの人っていっぱいいると思うんですよ。だから、刺戟物になるというか、私が煙になってみなさんを燻製できたらいいなと思いますね(笑)。

帯に七尾旅人さんがコメントを寄せていますが、彼とはどういう経緯で出会ったのでしょうか?

児玉:旅人さんのライヴの感想を書いたことがきっかけで、SoundCloudに上げていた“けだるい朝”を旅人さんが聴いてくださったみたいで、SNSに「チラッと聴いたけどすごくいいね」というようなことを書いてくださったんです。そのときはびっくりしてやりとりもさらっと終わっちゃったんですが、そのあと大阪で旅人さんのライヴを観に行ったときに、たまたまゾウのネックレスをつけていたら、旅人さんとすれ違ったとき、「そのネックレスすごくいいね」って話しかけてくださったんです。

そこだけ聞くとナンパみたいですね(笑)。

児玉:ぜんぜん違うんですよ(笑)! 私も「ライヴ素敵でした」みたいなことを話しかけたと思います(笑)。でも気が動転しちゃったのか、そのときは「“けだるい朝”を歌っているの、私です」って言えなかったんですよね。でも歌で知り合っているから、また歌で知り合えたらいいなと思ったんです。とくに向こうに連絡したりしなくても自然なかたちでまた会える気がして。そしたら2年後くらいに旅人さんからメッセージが来たんですね。旅人さんもその歌(“けだるい朝”)がずっと頭に残っていたらしく、でも誰が歌っていたのか忘れちゃっていたそうなんです。その時点ではもう私のことも(SNSで)フォローしてくださっていたんですが、旅人さんのなかで私が誰なのか判明したらしく、「改めて聴くといい歌だね」と言っていただいて。そのときに「ライヴをやっているの?」と聞かれて、その頃は音楽は作っているけどライヴ活動はほぼしていない時期だったんです。それで「また(ライヴが)できるといいね」と言ってくださって、そのあとにワンマンに呼んでいただいたのが「初めまして」でしたね。グッケンハイム(旧グッケンハイム邸)のワンマン・ライヴで初めてちゃんと挨拶させていただきました。
 ちなみにそのときはいまみたいに音楽をやっている友だちがいなかったので、母にドラムを叩いてもらいました(笑)。

お母上はドラマーだったんですか?

児玉:高校生の頃にドラムが好きでちょっと叩いていたそうなんですが、それ以来30年ぶりくらいに叩いてもらって(笑)。母がドラムをやっていたことは知らなかったんですけど、たまたま頼んだら「じつは好きなのよ」って(笑)。私が頼んだことでまたドラム熱に火が点いちゃって(笑)。それでいまは菅沼孝三さんに習ってますね。七尾さんとはそういうお話もしました。

七尾さんの作品では何がいちばん好きですか?

児玉:初期の『雨に撃たえば...!disc2』も好きですし、『リトルメロディ』もすごく好きですね。ぜんぜん違うんですけど、それがまた素敵だなと思います。

七尾さんは政治的・社会的な発言もされていますが、そういったことにも関心はあるのでしょうか?

児玉:ありますね。音楽でテロしたいなって思ってます(笑)。それもゆくゆく旅人さんにお話しできたらいいなと思っているんですけど。

「音楽でテロ」というのは?

児玉:危機感のスイッチがある人もいれば、ない人もいて。そのスイッチを押したい気持ちはあります。いろいろ戦争のことなどを調べたりしたんですが、私はやり出すとのめり込んでしまうので、やばいところまで見ちゃったりしちゃうんですね。でも逆に見ないとだめだと思って。トラウマにもなったんですけど、悲惨な写真とかも目を逸らさずに見ちゃうタイプで。いま何が起こっているのか考えたいという気持ちはありますね。だから、スイッチが動いていない人たち(のスイッチ)を押したい気はします(笑)。ライヴで「考えてよ!」って直接的に言うことはないんですが、「ちょっと押しにいきたいな」という気持ちはあります。

あふりらんぽのPIKAさんも帯にコメントを寄せていますよね。彼女とはどういう繋がりなのですか?

児玉:1年くらい前に和歌山で、遠藤ミチロウさんと、アナログエイジカルテットという地元のバンドと、PIKAさんと私が一緒に出演するイベントがあって、そのときにお会いしました。やっぱり歌がすごく素敵で、歌の話をしたのを覚えています。私の曲にゾウとラクダの歌があるんですけど(“Dark Element”)、PIKAさんの曲にクジラとライオンの歌があるんですよ。“くじらとライオン”というタイトルが聞こえなくて、知らずに「あの歌すごくいいですね」と言ったら、PIKAさんもそれ(“Dark Element”)に引っかかってくれていて(笑)。そんな話をしました。すごくパワーのある方で、惹きつけられましたね。そのあとPIKAさん主催のイベントにも呼んでもらったり、一緒にスタジオに入ったりもしました。

関西のアンダーグラウンド・シーンに属しているという感覚はあるのでしょうか?

児玉:じつはあんまりないんですよね。覗いている感覚というか。ベアーズとか京都とか、それぞれの界隈にファミリーがあって、私もベアーズには出ているんですけど、浮いているというか、あんまり馴染めていなくて(笑)。ベアーズでやったら「ベアーズっぽくないね」って言われるし、京都でやると「ベアーズに出ている子だよね」って言われたり。でもそこに蓋はしないで、扉を開けたいという気持ちはありますね。

今回の新作は初の全国流通盤とのことで、おもにどういった人たちに聴いてもらいたいですか?

児玉:さっき話したように複雑な感情を持ったまま、生活しないといけない方たちや、これまでは音楽が好きでライヴ会場に足繁く通ってくださるような方たちが聴いてくださっていたんですけど、今回はふだんぜんぜん音楽を聴かないような友だちの子が買ってくれたりして。ギリギリの人っていっぱいいると思うんですよ。だから、刺戟物になるというか、私が煙になってみなさんを燻製できたらいいなと思いますね(笑)。

坂本龍一 - ele-king

 「音楽」の持っている微細な響きを、繊細で細やかな手つきで抽出し、その音のコアを「継承」するように「リミックス/リモデル」すること。そこには21世紀の新しい音楽フォームの息吹が、たしかに蠢いている……。

 坂本龍一の最新アルバム『async』を、世界の最先端音楽家/アーティストたちがリミックスしたアルバム『ASYNC - REMODELS』を聴いて、そんなことを思った。今、リミックスという音楽の概念は、原曲という「モノ」をマテリアルな素材として、各アーティストたちが自在にカタチを変えていく「リモデル」という方法論になったのではないか、と。マテリアルから新たなマテリアルの生成。
 かつての20世紀的リミックスは、オリジナルを引用・盗用・改変することにより、オリジナルがコピーに対して優位にあるという「神話」を解体しようとした。20世紀に支配的だったオリジナルを優位とする思想への闘争である。過激な引用によってオリジナルを解体すること。オリジナルとコピーの差異を無化すること。
 しかし、この『ASYNC - REMODELS』のような21世紀型のマテリアル・リミックスは、オリジナルとコピーの闘争関係以降の世界にある音だ。そこではオリジナルである『async』のトラックはマテリアルとなり、それぞれのリミキサーに継承される。聴き込んでいけば分かるが、音の微かな蠢き、大胆に加工した響き、新たな文脈に埋め込まれたそれぞれ響きの中に「坂本龍一」の音は、確かに継承されているのだ。20世紀型のリミックスを解体・盗用/脱構築とするなら、『ASYNC - REMODELS』の21世紀型リミックスは、継承による再生成/再構築型といえる。だからこそ「リミックス」ではなく、「リモデル」なのだろう。破壊ではなく継承。
 そんな「リモデル」的なリミックスが可能になったのは、コンピューターのハードディスク内による編集・加工を前提とする音楽だから、ともいえる。その意味で00年代以降の電子音響やエレクトロニカは、そもそもリミックス的手法で構成・作曲・生成されていた音楽だったのだろう。
 その意味では、オリジナルである『async』もまたオリジナルが存在しない最初のリミックスとはいえる。では何に対してのリミックスなのか? それは坂本龍一のピアノや響きをコアにしつつ、環境音、ノイズ、声、ハリー・ベルトイアの音響彫刻、笙の音、リズム、空気、無音まで、いわば「世界の音」からの継承/リミックスだ。

 この『ASYNC - REMODELS』において、そんな坂本龍一の音を継承し、「リモデル」するアーティストは、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、エレクトリック・ユース、アルヴァ・ノト、アルカ、モーション・グラフィックス、フェネス、ヨハン・ヨハンソン、イヴ・テューマー、サヴァイヴ、 コーネリアス、アンディ・ストット、空間現代(日本盤ボーナス・トラック)の12人。まさに現代最先端のアーティストばかりで、さすが最新の音楽モードを熟知している坂本龍一ならではのキュレーションと驚愕してしまう。
 グリッチ~ヴェイパーウェイヴ以降の現代電子音楽の最新モードとして君臨するワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、ビョークのプロデュースでも知られ、その生々しい肉体の変貌を電子音楽に転換するアルカ、〈モダン・ラヴ〉からのリリースによって2010年代のインダスリアル・テクノを代表するアンディ・ストットなどの現代のスター的電子音楽家はもちろんのこと、電子音響世界のアルヴァ・ノト、フェネス、コーネリアスなど、坂本と親交の深いアーティストたちも参加している。そのうえポスト・クラシカルの領域で知名度を上げ、近年は映画音楽の世界でも高い評価を得たヨハン・ヨハンソン、テキサスのエクスペリメンタル・シンセ・ユニットのサヴァイヴ、2016年に〈ドミノ〉からエクスペリメンタル・シンセ・サウンドのソロ・アルバムをリリースし、コ・ラの傑作『ノー・ノー』の共同プロデュースでも知られるモーション・グラフィックス、〈パン〉からアルバムをリリースし〈ワープ〉への移籍も決定したソウルとアンビエントを融合するイヴ・テューマーなど、コアな電子音楽リスナーならば絶賛するに違いないアーティストたちが参加しているのだ。

 個人的には、21世紀的「音の継承としてのリミックス/リモデル」の最良のモデルとして、 静謐にして清潔な音響空間を構築したアルヴァ・ノトによる“disintegration”のリモデルをベスト・トラックに挙げたい。流石、長年にわたって競作を行ってきた盟友の仕事である。
 さらには原曲を完全に自分の曲へとリ・コンポジションしつつも「坂本龍一」の芯を見事に継承したアルカによる“async”のリモデル(南米の涙のように悲しい電子音楽だ)や、アンディ・ストットによる“Life, Life”のリモデル(近作の発展形ともいえるラグジュアリー/インダストリアルなトラック)も濃厚な仕上がりである。また、サヴァイヴによる“fullmoon”のリモデルも原曲の「声」を効果的に導入しつつ、その声音の肌理を自身のシンセ・サウンドの中に溶け込ませる素晴らしい出来栄えであった。
 もちろん、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーによる“andata”のリモデルもOPNによるアフター・ヴェイパー/ポスト・インターネット空間における電子的宗教音楽といった趣で、一音たりとも聴き逃せない見事な仕上がり。映画音楽の仕事の成果もフィードバックされているように思える。また、“andata”をYMOテイストにリアレンジした(ドラムのフィルも高橋幸宏を意識しているように聴こえる)、エレクトリック・ユースによるトラックも、エクスペリメンタルのみに寄り過ぎないバランス感覚を感じた。同時に初期イエロー・マジック・オーケストラにおける坂本龍一の役割も見えてはこないだろうか。“andata”のメロディをドラムとベースを基調にしたシンセ・サウンドに編曲すると、まさに1979年までのイエロー・マジック・オーケストラの曲の雰囲気になるのだから。YMOに対する批評的なトラックにも思えた。
 コーネリアスの“ZURE”のリモデルの絶妙さも聴き逃せない。“ZURE”の印象的なシンセのコードをリフレインしつつ、コーネリアスのサウンドが、その音のなかに、まさに「ずれる」ように融解しているのだ(小山田圭吾の息の音の生々しさ!)。同じく“ZURE”をリモデルしたイヴ・テューマーのトラックも、夢の回廊/記憶の層の中にズリ落ちていくような感覚と夢から覚めるような強烈なリズムの打撃/衝撃が同時生成するようなサウンドで、彼の才能の底知れなさが理解できる。空間現代の“ZURE”のリモデルは、空間現代がズレの中で分解されていくような静かな過激さに満ちていた。
 さらにはヨハン・ヨハンソンがリモデルした映画音楽的な“solari”の崇高さ。まるでふたりの音楽家によるタルコフスキーへのオマージュのようである。そしてフェネスのリモデルによって、壮大な「音の海」となった“solari”のロマンティックな響き。まるで『惑星ソラリス』の海が、電子の粒子に溶け合ったような感覚を覚え、恍惚となってしまった。

 耳の感覚を拓くように、『ASYNC - REMODELS』の全12トラックを聴き込んでいくと、リミックスという音楽フォームが「複製技術時代の芸術」から「生成/継承時代の芸術」へと進化/深化を遂げつつあると実感できる。ここで行われていることは、20世紀的リミックスによる「解体」ではない。音の「継承」から生まれる「音楽の再生成」なのだ。「音の継承」。そこにこそ、2018年以降の最新音楽の予兆があるとはいえないか。

デンシノオト

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 エレクトロニック・ミュージックはいま飽和状態を迎えている。00年代末から10年代初めにかけて登場してきた種々の手法やスタイルが臨界点に達し、次の一手をどう打つべきか、多くのアーティストがそれぞれのやり方で模索を続けている。今年出たアルカのアルバムはまさにそのようなエレクトロニック・ミュージックの「限界」をなんとか更新しようと努める、ぎりぎりの試みだったと言えるだろう。

 そのアルカの新作とほぼ同じタイミングでリリースされた坂本龍一8年ぶりのソロ作『async』は、ここ10数年のアルヴァ・ノトやテイラー・デュプリーらとの共同作業の経緯を踏まえた、実験的かつ静謐なノイズ~アンビエント・アルバムだった。2017年は海の向こうで盛んに80年代日本のアンビエントが再評価されたけれど、『async』もある意味ではその波に乗る作品だったと言うことができる。だからこそ『FACT』が年間ベストの1位に『async』を選出したことが象徴的な出来事たりえたわけだが、しかし『async』が鳴らすあまりにも繊細な音の数々は、そのようなジャポネズリや回顧的な動きに対してささやかな異議を唱えているようにも聴こえる。そんな『async』が孕む小さなズレ、すなわち「非同期」的な部分をこそ拡張したのが、この『ASYNC - REMODELS』なのではないか。

 去る9月、坂本はロンドンのラジオNTSで放送をおこなっているが、そこで彼はデムダイク・ステアの“Animal Style”とアンディ・ストットの“Tell Me Anything”をかけている。前者は昨年末に発表されたデムダイクの最新作『Wonderland』に収録されていたトラックで、後者はストットがいまよりもストレートにダブ・テクノをやっていた頃の音源だ。さらに坂本は、J-WAVEでアクトレスの『AZD』から“There's An Angel In The Shower”を取り上げてもおり、それらの選曲からは、坂本が現在のエレクトロニック・ミュージックに大きな関心を寄せていることがうかがえる(デムダイク、ストット、アクトレスの3者は「インダストリアル」というタームで繋ぎ合わせることもできる)。もちろん、25年前の『HI-TECH / NO CRIME』や11年前の『Bricolages』が証言しているように、これまでも坂本は同時代のエレクトロニック・ミュージックに関心を向けてきた。しかし今回の『ASYNC - REMODELS』はどうも、それらかつてのリミックス盤とは異なる類のアクチュアリティを具えているように思われてならない。けだし、坂本が時代に敏感である以上に、いま、時代の方が坂本に敏感になっているのではないか。

 この『ASYNC - REMODELS』では、どのプロデューサーも原曲の繊細なサウンドと真摯に向き合いながら、いかにそこに自らのオリジナリティを落とし込むかという格闘を繰り広げている。坂本がラジオで取り上げたアンディ・ストットや、ここ1年その存在感を増しているモーション・グラフィックスにヨハン・ヨハンソン、あるいはお馴染みのアルヴァ・ノトやフェネスなど、いずれも坂本の音源と対峙することで自らの次なる可能性を引き出そうとしているかのような興味深いリミックスを聴かせている。坂本の原曲に独特のR&Bタッチのアンビエントを重ね合わせたイヴ・テューマーも刺戟的だが、突出しているのはやはりOPNとアルカだろう。

 オリジナル盤『async』の冒頭を飾る“andata”は、坂本らしい旋律がピアノからオルガンへと引き継がれる構成をとっていたが、その展開を尊重しつつ音色を『Rifts』の頃のそれへと巧みに変換してみせるOPNは、まさに00年代末~10年代初めの音楽が生み落とした成果を総括しようとしているかのようだし、新作でその表現の様式を大きく変えたアルカは、原曲“async”におけるピッツィカートの乱舞を排除、代わりに自身の日本語のヴォーカルを加えることで現在の彼の官能性をさらけ出し、ほとんどオリジナルと呼ぶべき大胆なリミックスをおこなっている。

 坂本が『async』でいまのトレンドに寄り添いながらも微かなズレを響かせていたように、本作における各々のアーティストたちもまた違和を発生させることをためらわない。すなわち、飽和状態を迎えたエレクトロニック・ミュージックの精鋭たちがいま、坂本にこそ突破口を見出そうとしている。『async』が世界に対する坂本からの応答だとしたら、『ASYNC - REMODELS』は坂本に対する世界からの応答である。これは、かつて「世界的な成功を収めた」とされるYMOにはついぞ為し遂げることのできなかった転換だ。そういう意味で坂本龍一は、いまこそ黄金期を迎えているといっても過言ではない。このように『ASYNC - REMODELS』は、坂本の音楽的な成熟をあぶり出すと同時に、エレクトロニック・ミュージックの次なる展望を垣間見させてくれる、優れたアンソロジーにもなっているのである。
 飽和したのならもう、あとはあふれ出すだけだ。

小林拓音

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