「K A R Y Y N」と一致するもの

NAKAMURA Hiroyuki - ele-king

 なんて爽やかな「ピアノ・アルバム」だろう。
 綺麗で、楽しい。伸びやかだけど、整っている。風のように爽やかで、透明なピアノ。「音楽」を全身で追求し、そしてそれを楽しんでいるさまが、音のすみずみから聴こえてくる。

 なんて精密な「ピアノ・アルバム」だろう。
 コード、旋律、演奏、サウンド。そのすべてが計算され、磨き上げられ、傷ひとつない結晶体=サウンドスケープを形成している。映画のように味わい深い音響がここにある。

 NAKAMURA Hiroyuki のソロ・アルバムを聴いて、まずはそんなことを思った。リリースはブルックリンのレーベル〈Youngbloods〉。

 NAKAMURA Hiroyukiは、ピアニスト、電子音楽家、作曲家である。彼はサックス奏者にしてミキシング・エンジニアの宇津木紘一とのエレクトロニカ・ユニット UN.a のメンバーとしてエレクトロニカ・ファンによく知られた存在だ。

 NAKAMURA Hiroyuki のソロ・アルバムを聴き、私は彼は作曲・演奏家としても一流だが、音響作家/サウンド・デザイナーとしても卓抜したセンスと技量を持っていると確信した。とうぜん、音楽も徹底的に分析している。
 だが彼の音楽は実験のためだけにあるわけではない。その音には「音楽へのよろこび」にあふれている。これが重要だ。

 華麗さと緻密さ。喜びと分析。音楽と音響。
 そのふたつが共存することに、まったく矛盾がない作品である。どうしてだろう?と思いつつ、NAKAMURA Hiroyuki のnoteを読んでいると次のようなことが書いてあった。少し長くなるが大切なことなので引用しておきたい。

あなたとの距離。

複雑さを受け入れていく音楽。

 クラシック、ジャズ、エレクトロニカ、音響が一つの物語となった新しいピアノの表現。
 シューマンの「子供の情景」にインスパイアされ制作しました。

電子音は全てピアノの音から制作されています。

 「複雑さを受け入れること」。
 この言葉に本作のすべてがあると思った。音と音の複雑な交錯。その「複雑さ」にこそ、音楽の美しさがある。いや音楽の未来があるとでもいうべきか。われわれの耳は多様な音のうごきを感じることができるのだ。このアルバムは、われわれの耳の可能性を信じている。「あなたとの距離」。

 しかも驚いたことに「電子音」はすべてピアノから作られた音なのだという(!)。これには驚いた。もちろん技術的には可能なことなのだろうが、本作を「ピアノ・アルバム」とするという「意志」に驚いたのだ。
 さらに重要なのは、シューマンの「子供の情景」にインスパイアされているという点である。あのシューマンのロマンティックなピュアで、「子供の心を描いた、大人のための作品」という曲に。まさに本作のようではないか。

 彼はこうも書いている。

本アルバムは、シューマン以外にもフランクオーシャンの[ブロンド]から影響を受けています。 また、アジア人であることを意識し、ノイズと捉えられる音も意図的に取り入れています。

 この作曲者自身の言葉を読むと、このアルバムについて明晰に説明されており、もはや何も書くことがないように思える。ロマンティックなピュアさ(シューマン)。深いアンビエンス(フランク・オーシャン)。そしてアジア的なノイズへの意識/感覚。

 アルバム1曲目 “Distance” は環境音的な音から幕をあける。その後、滴り落ちるようなピアノといくつもの心地よいノイズが折り重なり、踊るように楽しげなピアノ演奏になる。SF的な仮想空間における輪舞曲のようなピアノ曲だ。
 2曲目 “Sing” はジャズとも無調とも印象派的ともとれる静謐な端正なピアノに微かにミニマムなノイズが絡みあう曲だ。3曲目 “Lay” はダイナミックなアルペジオから始まる力強い曲である。
 以降、アルバムは変装と即興と作曲を織り交ぜながら、蒼穹のごとき爽やかな和声と煌めくような旋律と、映画のように味わい深く精密なサウンドスケープを同時に展開する。
 海外のヨハン・ヨハンソンやニルス・フラームのポスト・クラシカル勢とは異なるジャズ風味がミックスされた新しいクラシカル・ミュージックとでもいうべきか。

 アルバム中、もっとも気になった曲は、やや暗い曲調で展開する6曲目 “Tomtom” だ。20世紀後半のクラシック音楽的な無調の響きが、やがてジャズ的な響きに変化し、ドローンやアンビエンスが変化していく。さまざまな音が折り重なるが、静謐なムードは保たれる。
 いうならば静かなエモーショナルとでもいうべきか。いくつもの相反する要素が静かな水面のむこうに渦巻くように展開している曲に思えた。
 どうやら NAKAMURA Hiroyuki が20歳のときに作曲した曲のようである(https://note.com/bbmusic/n/n9404e596804d)。私はカオスの先に、最後の最後に表出するエレガンスなピアノがたまらなく好きだ。

 やがて最終曲にしてアルバム・タイトル曲でもある7曲目 “Look Up At the Stars” へと至る。煌びやかで華やかに始まったこのアルバムは、うす暗い陰影に満ちた音世界(ノイズと音楽の交錯)を抜けて、静謐にして透明な音楽世界へとに行き着くわけだ。
 ノイズですら光景のひとつとして認識するアジア的な感覚と西洋の構築された音楽・和声の交錯のはてに行きつく、静謐な星空のような音世界に。

 この美しい音楽の結晶体を簡単に表現するなら、こうなる。
 
 春風か夏の空のような爽やかな「ピアノ・アルバム」。
 心の奥深く潜っていくような静謐な「ピアノ・アルバム」。
 映画のようなサウンドスケープを展開する緻密な音響の「ピアノ・アルバム」。

 そしてこの相反する三つのエレメントがまったく矛盾することなく交錯する点が重要なのだ。音楽と音響の豊かさの結晶とでもいうべきかもしれない。

 繰り返し聴き込むほどに、発見と味わいが増してくるアルバムだろう。ピアノのクリスタルな音、華麗な演奏と旋律、細やかで静謐なサウンドスケープ。そのどれもが耳に染み込んでくるような美しく、心地よい。
 「新しいモダン・クラシカル・ミュージック」がここにある。ぜひとも多くの人の耳を潤してほしいアルバムだ。

Liturgy - ele-king

 ピンクパンサレスやニア・アーカイヴズがドラムンベースを、オリヴィア・ロドリゴや WILLOW がポップ・パンクを再編集しリヴァイヴァル・ヒットさせたというのは、つまりマチズモの解体や柔軟なサウンド演出には少なからず女性性に立脚した視点が必要だったということだろう。ヒップホップにおいてジャージー・クラブのリズムを導入し、ラップ・ゲームに軽やかさという新たなムードを打ち立て TikTok を賑わせているのは、海外だとアイス・スパイスであり国内だと LANA である。クィアな世界観を持ち込むことで、ラウド・ロックにおいて近いことを成し遂げているのはマネスキンかもしれない。

 では、メタルといういささか異質なジャンルにおいてはどうだろうか。メタルは基本的に重さ/速さ/激しさといったエクストリーム化を志向するため、軽やかさというベクトルを欲していない。けれども、実は一部のジャンル内ジャンルにおいては、極めて早い段階からメタル的価値観に対する解体が試行錯誤されていた事実を忘れてはならない。

 それがまさしく、本稿のテーマとなるブラック・メタルである。サタニックな世界観とともに惨烈なニュースばかりが紹介されがちなこのジャンルだが、実は以前から非常に包括的かつ柔軟な音楽性を持ち合わせていた。90年代にデビューしたメイヘムや Dødheimsgard に始まり、ブラックゲイズの先駆者となった00年代のブルート・アウス・ノートに至るまで、シンセサイザーを中心とした電子音、メタルらしからぬ過度なリヴァーブ、現代音楽やジャズといった異ジャンルの音楽性を貪欲に取り入れ、いわばブラック・メタルという枠組みの内側から練り上げる形で前衛性を獲得していったバンドが多く存在したのである。メタル音楽を表現する際に頻繁に使われる「ソリッドな」「メリハリの効いた」「アグレッション」といった言葉は、つまりメタルが攻撃的かつ切れ味あるサウンドで空間を切り裂き明確な境界を提示するがゆえの表現だが、その境界線をやや曖昧なニュアンスで滲ませてきたのがブラック・メタルではないだろうか。

 もっとも、この音楽が優れた曖昧さを最も効果的に発揮するのは2010年代以降のことである。ブラック・メタルの包括性という側面において決定打となった一手が、2013年リリースのデフヘヴン『Sunbather』であることに異論を唱える者はいまい。彼らはメタル的な輪郭の生成に対し本格的な揺らぎを持ち込んだが、むしろそれはブラックメタルだったからこそ成立したとも言えるだろう。いつの時代においても越境的/抽象的な音を奏でるバンドに対しては批判の声が大きいメタル・シーンだが、このジャンルはある程度そういった議論の余地を用意しながらも自律的で前向きな成長を遂げてきたように思う。だからこそ、近年は、ジェンダー観点でのアイデンティティの揺らぎ~確立をブラック・メタルという様式に投影した作品を作り上げるような動きが一部で見られている。アンビエンスなムードを漂わせながらミニマルな音でアプローチする女性SSWのチェルシー・ウルフ、性的暴行を受けた経験により合意なきセックスへのアンチテーゼを楽曲へ反映し続ける GGGOLDDD、トランス女性としてブラック・メタルの成分を吸収し無秩序なキメラ・サウンドをぶちまけるジ・エフェメロン・ループなど、枚挙に暇がない。そして、その代表的な人物となるのが、リタジーの中心を担うラヴェンナ・ハント・ヘンドリクスである。

 2020年5月にトランス女性であることを公表したラヴェンナは、リタジーを率いながらこれまで5枚のアルバムをリリースしてきた。6作目となる最新作『93696』では、バンドが試してきたあらゆるアプローチ──哲学をもとにした深遠なコンセプト、重層的なトレモロ・ギター、絶え間ないクレッシェンド、トラップのリズム、突如挿入されるグリッチ音、壮大なオーケストレーション、現代音楽を参照したような不協和音──それら全てを融合させることで、集大成的な彩りを見せている。冒頭の “Djennaration” から、ヒップホップを間に挟みつつシンフォニックな攻撃性がシームレスに繋がれるさまに驚くほかない。以前から「ブラック・メタルはロックというフレームとその楽器を使ってクラシックを作るもの」と発言してきたラヴェンナらしく、本作もアルバムはいくつかのまとまり≒楽章に分かれ、楽器のみで世界観を構築していくインスト曲も多く収録されている。執拗な反復とその先にある上昇が解放感を生み出すという点で、そもそものメタル作品としての完成度が高い。リタジーの最高傑作であるのはもちろんのこと、近年のメタル・シーンを見渡しても指折りの出来だろう。

 けれども、『93696』が胸を打つ理由はそれだけにとどまらない。まず、破裂するかのような勢いで叩かれるドラムの音がプリミティヴに響くさま、そのクリアな質感が生々しいフィジカリティを表出させる点。次に、ドラムにとどまらず、バンド・サウンドを形成する鮮やかな音それぞれが緊張感に支えられ均衡している点。ラヴェンナが「バンドの一体感が欲しかったから、今回はよりライヴに近い音で録りたいと思った。もともとこのバンドのバックグラウンドがパンクだったということもあるんだけど、アルバム自体がこうしたライヴ感で作られることが最近非常に少なくなってきているからね」と述べている通り、肉体性を獲得するようなパンクの要素に加え、各楽器の力関係が拮抗しバランスが釣り合い保たれるようなサウンドが鳴っているのだ。その効果は、プロデュースに入ったスティーヴ・アルビニ、ミキシングを担当したセス・マンチェスターの力量によるところが大きいのだろう。

 そして以上のようなアプローチは、ブラック・メタルの様式に対するクリティカルな打ち手にもなり得る。ひとつは、ときに思想を強く投影したコンセプトによって観念的になりがちなこのジャンルに対し、地に足の着いたフィジカリティを与えるという意味で。「独りブラック・メタル」という形容があるように、このジャンルにはたとえバンド編成であったとしても中心人物のワンマン・プロジェクトと化しステートメントのBGMとして楽曲が添えられてしまうような倒錯性がある。本作はその倒錯を振り払い、パンク由来の肉体感を巡らせることに尽力する。さらにもうひとつは、トレモロ・ギターとブラスト・ビートの応酬により極端に偏重しがちなサウンドに対し、「調和」という反‐ブラック・メタルとも言える均衡を作り出しているという意味で。クリアなバンド・サウンドを構成するどの楽器についても均等に音が引き出され緻密なバランスを保つがゆえに、極めて繊細な音の鳴りに浸ることができる。

 リタジーは、リスナーを自己発見と自己実現に向かわせることをステートメントに掲げているからこそ、『93696』はただただ圧倒的な完成度を誇示する「だけ」の作品ではない。本作は、既存のブラック・メタルの方法論を踏襲しながらも、パンク由来の肉体性と繊細な均衡によって反‐ブラック・メタルとしての魅力を奏でるのだ。ジャンルに倣いながらもジャンル内で揺らぎ前衛を編み出していくこと──それは、まさしくリタジーとしての活動を展開していく中でトランス女性であることを公表することになった、ラヴェンナ自身の姿と重なりやしないだろうか。『93696』はラヴェンナのアイデンティティが存分に反映された、メタルというジャンルのジェンダー観を捉え直すには格好の、重要な作品である。

Yo La Tengo - ele-king

 COVID-19というパンデミックがもたらした衝撃は、三波にわたり音楽を襲ったようだ。

 第一波は、フィオナ・アップルの『Fetch the Bolt Cutters』のようなアルバムで、パンデミック以前に作曲・録音されたものだが、閉塞感や孤立というテーマ、また、自宅で制作されたような雰囲気が、ロックダウン中のリスナーの痛ましい人生と、思いもかけぬ類似性を喚起した。

 第二波は、2020年の隔離された不穏な雰囲気の中で録音された作品群のリリース・ラッシュである。ニック・ケイヴとウォーレン・エリスの『Carnage』のように、緊張感ただよう分断の感覚を音楽に反映させたケースもあった。ガイデッド・バイ・ヴォイシズの『Styles We Paid For』では、離れ離れになってしまったロック・ミュージシャンたちが、電子メールで連絡を取り合いながら、デジタルに媒介された現代において失われつつある繋がりについて考察している。また、パンデミックによるパニック状態を麻痺させようと、アンビエントな音の世界に浸ることで、絶叫したくなるような静けさの中に安心感を生み出そうとしたアーティストたちもいた。ヨ・ラ・テンゴが短期間でレコーディングした、即興インストゥルメンタル・アルバム『We Have Amnesia Sometimes』の引き延ばされたようなテクスチャーとドローンは、一見するとこの後者の反応に当てはまるように思われる。

 しかしながら、この作品は、パンデミックが音楽にもたらした第三の波、つまり、リセットと再生という方向性を示しているのかもしれない。そこで登場するのが、このバンドの最新アルバム『This Stupid World』である。

 ヨ・ラ・テンゴについて、「過激な行動」や「激しい変化」という観点から語るのは、誤解を招く印象を与えるかもしれない。このバンドは、1993年の『Painful』で自身のサウンドを確立して以来、30年間にわたってその領域を拡張してきたわけだが、彼らがいままでに作ってきたどんな楽曲を聴いても、すぐに「これはヨ・ラ・テンゴだ」とわかるバンドである。それは、彼らの音楽がすべて同じに聴こえるという意味ではなく、彼らがいま占めている領域が、紛れもなく彼らのものであるように感じられるということだ。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドが、わずか5枚のアルバムで切り開いた道は、いまやヨ・ラ・テンゴが20枚近いアルバムで包括的に探求し、拡張しており、たとえ彼らがその道の先駆者でなかったとしても、ヨ・ラ・テンゴこそがこれらの道を知り尽くした、影響力ある道案内だと言っても過言ではないだろう。

 簡単に言うと、ヨ・ラ・テンゴは自分たちがどのようなバンドであるかを理解しているのだ。彼らが長年にわたって起こしてきた変化というのは、総じて、甘美なものと生々しいものの間の果てしない葛藤に対して、様々な取り組みをしてきたことによる質感の移り変わりであると言える。彼らは、身近にあるツールを使って、角砂糖から血液を抽出するための様々な方法を模索してきたのだ。そして、ここ10年間は『Fade』や『There’s a Riot Going On』のようなアルバムにおいて、その過程のソフトな一面の中に、彼らが抱えている様々な不安を包み込んでいる傾向があった。

『We Have Amnesia Sometimes』は、ある意味、そのような優しい世界への旅路の集大成のように感じられた。だが一方で、この作品は、メンバーだけが練習室にこもり、中央に置かれた1本のマイクに向かって演奏したものが録音されたという、非常に生々しいアルバムでもあった。その撫でるような感触は確かに心地良いものだったが、このアルバムはメロディーを削ぎ落とし、彼らがノイズと戯れ、ポップな曲構造から完全に遊離したもので、ジョン・マッケンタイアがプロデュースを手がけた『Fade』にあった滑らかなストリングスのアレンジメントからは完全にかけ離れていたものだった。それはリセットだったのだ。

 では、『This Stupid World』はどのような作品なのだろうか。バンドは今作のプロダクションにDIY的なアプローチを全面的に取り入れており、7分間のオープニング曲 “Sinatra Drive Breakdown” から、かすれたような、粘り強い前進力がこのアルバムに備わっている。規制が緩和され、パンデミックより先のことが考えられるようになったとき、音楽シーンにいる多くの人が感じたものがあったが、それは、周囲の快適さが、抑圧されていた衝動に取って変わり、その衝動が爆発する出口を求めているという感覚だった。この曲はその感覚を捉えている。新鮮な気持ちで世界へと飛び出し、全てを再開するという感覚。再び人と会い、再び何かをしたいと思い、再び一緒に音を出す。もう2年も無駄にしてしまったのだから、いまこそが、それをやるときなのだ。

 同時に、ヨ・ラ・テンゴが確実にヨ・ラ・テンゴであり続けていることは、決して軽視すべきことではない。A面の最初の数秒から、ヨ・ラ・テンゴであることはすぐに認識でき、彼ら自身もそのことに対して完全な確信を持っている。『This Stupid World』は、彼らの過去30年におけるキャリアのどの時点でリリースされてもおかしくないアルバムであり、誰にとっても驚きではなかっただろう。このアルバムの48分間は、3面のレコード盤という、通常なら忌まわしいフォーマットで構成されているのだが、ヨ・ラ・テンゴらしい遊び心と妙な満足感がある。A面は、ゾクッとするようなディストーションと力強い威嚇が暗闇から唸り声を上げ、2曲目の “Fallout” はバンドがこれまで書いた曲の中で最も快活で生々しいポップ・ソングであり、A面を締めくくる “Tonight’s Episode” は、絶え間なく鳴り続けるフィードバック音の中、シンプルなグルーヴが柔らかに跳ねている。B面では、ジョージア・ハブリーがヴォーカルを取って代わり、“Aselestine” では最も甘美なスポットライトが彼女に当たり、ヨ・ラ・テンゴの抑えの効いたサウンドへの基調が打ち出されていく。そして、最終的には、メロディーと、むさ苦しいノイズ・ロック、テクスチャーのあるドローンといった、彼らのコアとなるスタイルへと回帰する。B面の最後は、永遠にループする仕様(ロックド・グルーブ)になっており、これはちょっとしたイタズラ心か、あるいはアルバム最後の2曲を聴くために、最後のレコードを取り出す時間をリスナーに与えるためのものだろう。

 最後の面では、ヨ・ラ・テンゴのノイズ・ロック的な側面がさらに深く掘り下げられており、何層にも重なったフィードバックとディストーションの中にリスナーを没入させていく。“Fallout” が、はるか彼方の海底からつぶやくように再び現れると、音楽は音程を外すように溶け出し、シンセ・ドローンの疲れながらも希望感ある流れに取って代わり、その雰囲気からデヴィッド・リンチを彷彿とさせるようなドリーム・ポップが浮き彫りになる。この2曲は、このアルバムを見事に締めくくるトラックであり、ここ数年ロウが追求してきた、激しい音の暴力と心が震えるような美しさの衝撃的な共存というものに、ヨ・ラ・テンゴがいままでになく近づいていることを示す2曲ではないだろうか。だが彼らはそれをヨ・ラ・テンゴらしく、最初から最後までやり遂げている。彼らは自分たちが何者であるか知っているが、『This Stupid World』では、その認識がより一層強く感じられるのだ。


by Ian F. Martin

The shock to the system delivered by the COVID-19 pandemic seems to have hit music in three waves.

The first was with albums like Fiona Apple’s “Fetch the Bolt Cutters”, written and recorded before the pandemic but where the theme of being trapped and the secluded, homemade atmosphere evoked unexpected parallels with the bruised lives of locked-in listeners.

The second was the initial rush of releases that were recorded in the atmosphere of isolation and unease of 2020. In some cases, like Nick Cave and Warren Ellis’ “Carnage”, this meant channeling that tense sense of fragmentation into the music. In Guided By Voices’ “Styles We Paid For” it meant dispersed rockers working by email to reflect on the loss of connection in digitally mediated lives. Others sought to anaesthetise the panic, using ambient sonic furniture to craft a sense of security out of the screaming silence. It’s this latter response to the situation that the drawn-out textures and drones of Yo La Tengo’s speedily recorded, improvised instrumental album “We Have Amnesia Sometimes” seemed on the face of it to fall into.

However, it perhaps also points the direction towards a third wave of influence brought to music by the pandemic: one of reset and even rejuvenation. It’s here that the band’s latest album, “This Stupid World” comes in.

Talking about Yo La Tengo in terms of radical moves and sharp shifts often seems like a misleading way to discuss them. This is a band where, at least since the expansion of their sound mapped out in 1993’s “Painful”, you can hear almost anything they’ve done over those thirty years and instantly know it’s them. This is not to say that their music all sounds the same so much as that the territory they occupy now feels so indisputably theirs. Paths blazed by The Velvet Underground over a mere five albums have now been explored and expanded by Yo La Tengo so comprehensively over nearly twenty albums that even if they weren’t the first, they’re these roads’ most immediately recognisable travellers and most influential stewards.

To put it simply, Yo La Tengo know what sort of band they are. The ways they have changed over the years have generally occurred in the shifting textures of their varying approaches to the endless struggle between the sweet and the raw — in finding different ways, with the tools at hand, to get blood from a sugarcube — and over the past decade or so, albums like “Fade" and “There’s a Riot Going On” have tended to wrap up whatever anxieties they have in the softer side of that process.

In some ways, “We Have Amnesia Sometimes” felt like a consummation of that journey into gentle fields. It was also a very raw album, though, recorded by the band alone in their practice room, playing into a single centrally placed microphone. There was certainly something soothing about its caress, but it was an album that stripped away melody and let them play with noise, liberated entirely from pop song structures — as far as the band has ever been from the smooth string arrangements of the John McEntire-produced “Fade”. It was a reset.

So what does that make “This Stupid World”? Well, the band have fully embraced a DIY approach to production, which from seven-minute opener “Sinatra Drive Breakdown” gives the album a scratchy, insistent forward momentum. It captures that feeling many of us in the music scene felt as restrictions relaxed and we start thinking beyond the pandemic, the comfort of the ambient giving way to a repressed urgency seeking an outlet from which to explode. The feeling of lurching out into a world where we are starting again, fresh: meeting people again, wanting to do something again, making a noise together again. We’d wasted two years already and now was a time to just do it.

At the same time, it’s important not to understate the extent to which Yo La Tengo are always definitively Yo La Tengo. From those first few seconds of Side A, the band are immediately recognisable and completely assured in themselves — “This Stupid World” is an album they could have released at any point in the past thirty years and surprised no one. Even in how the album’s 48 minutes are sequenced over the usually cursed format of three sides of vinyl manages to be both playful and strangely satisfying in a distinctly Yo La Tengo way. Side A growls out of the darkness in squalls of thrilling distortion and reassuring menace, second track “Fallout” as fizzy and raw a pop song as the band have ever written, and side closer “Tonight’s Episode” hopping softly around its simple groove beneath a constant hum of feedback. Side B flips the story with Georgia Hubley taking vocals for one of her sweetest spotlight moments in “Aselestine”, setting the tone for a tour through the band’s more sonically restrained side, eventually returning to their core conversation between melody, skronky noise-rock and textured drones. It ends on a lock-groove — perhaps born from a sense of mischief or perhaps to give the listener time to whip out the last disc for the final two songs.

The final side digs even deeper into Yo La Tengo’s noise-rock side, immersing the listener in layers of feedback and distortion, “Fallout” reappearing in a distant, submarine murmur before the music slips out of tune and dissolves, giving way to tired but hopeful washes of synth drone, crafting Lynchian dreampop out of the the ambience. These two tracks make for an intriguing exit to the album, and together form perhaps the closest the band have yet come to the devastating coexistence of harsh sonic violence and heart-stopping beauty explored over the last few years by Low. They way they do it is Yo La Tengo all the way, though: they know who they are, but on “This Stupid World” they’re just more so.

Boris - ele-king

 去る2022年、30周年記念アルバム『Heavy Rocks』をリリースしたBoris。同作を引っ提げたツアーは北米、オーストラリアをめぐり終え、今月末からは欧州ツアーがはじまる(最終日は6月8日、スペインのプリマヴェーラ・サウンド)。それに先がけ、昨年LAおよびサンフランシスコでおこなわれたパフォーマンスの映像が公開されている。チェックしておきましょう。

坂本龍一追悼譜 - ele-king

3日前の便り

 3月25日の夜9時24分、パートナーの方から初めてメールが来た。
 そこには、本人は送れないので「事情ご拝察のほど」とある。
 「ああ、とうとうなのか」
 白紙になった内心の画面にそういう文字列が浮かぶ。

 私は高校時代以来の付き合いだが、彼の他界を事実として知るのはみなと同じ。4月2日のTwitterを見た時である。
 その間の1週間、なにをしていたのだろうか。
 8年ぶりに新しい本を出す。その準備と新宿御苑に放射能汚染土が運び込まれる問題。両方で動きまわる。言葉どおり忙殺される毎日だった。
 一人の友が小舟を漕いで遠い海に去っていく。その背中を岸辺で見送るしかできない。もう声は届かないだろう。遠く夕陽が落ちていく水平線。その橙色のハレーションに吸い込まれる後ろ姿がどんどん小さくなるのである。

 あるときは最後から3番目の作品、映画音楽『レヴェナント:蘇えりし者』。
あらためてその音源を聴いた。
 レオナルド・デカプリオ演じる主人公が熊に体を抉られて森に横たわる場面。瀕死のまま夜の大空を見上げる。ミズーリ川沿いの大森林地帯を覆う濃紺の夜陰。無数の星々がぶちまけられている。息子を連れ去った裏切り者への怒り。さらに先住民から学んだ智慧が、彼を大地から立ち上がらせるのである。その眼が急流を見つめている。そんなシーンを思わずにはいられなかった。

 だが坂本龍一が蘇ることはなかった。
 結局、汚染水拡散反対を語るメッセージの公開も、私の新著『鉛の魂』も病床には間に合わなかったのである。

諫めること

  諌死という古い言葉がある。
 坂本龍一が去ってしばらく、そんな言葉が浮かんでいる。
 彼の優美というべき「諫死」をどう受けとめたらいいのか?
 しきりにそう思う。政治的にというより、『レヴェナント』や『async』、そして『12』の音響は、なにか大きな諌めを聴く者の身体に及ぼすからだ。

 どういうことなのか。
 ピアノが低く響くなか、大きな力に抗いつつ逝った彼の姿に、晩年のフーコーがギリシャから蘇らせた「パレーシア」を思う人もいる。「正しく生きて死を迎えること」。その姿勢を最後まで貫いた。そう言えるかもしれない。
 けれども私は、彼の孤独な打弦に「畏れ」を聴いてしまうのである。最期の3作が連作のように聞こえる。その印象は絶えることなく寄せては引いていく宇宙のさざ波だ。エリック・サティのピアノ譜には簡素な部屋がふさわしい。坂本が遺した水面には長い残照が見えるのである。

 諌死(かんし)ってなんだろう?
 東アジアでいう諫死とは、ふつう君主の過ちを臣下が死をもって諭すことだ。「論語 徴子篇」が出典らしい。主君と家臣がいた時代の話である。
 それをあえて演じた、三島由紀夫による半世紀前の惨死劇を思い浮かべればいいかもしれない。作家は駐屯地のバルコニーから「武士」になろうとしない自衛隊員を叱る。それは生き延びたスメラギを諫める声でもある。ところが下に集まる隊員たちはその説教にいら立つ。カルダンの制服を着た彼は戦地に行かなかったんじゃないの? ということはまあ措こう。

 なんでこんな話を――と思うだろう。
 実際私たちがまだ若い1970年11月25日、ハドソン川に浮かんだアルバート・アイラ―の訃報に心騒めく私と違って、坂本龍一は三島の首を見とどけようと市谷の坂を下るような人だった。同じ高校の3年生と2年生。前年の9月に校長室を占拠してから14か月たつ。
 この日の夜、新宿通りに面したピットイン・ティールームの奥まった席で、彼はすこし興奮していた。アイラ―を悼んで『ニューグラス』を聴きたい後輩に、『天人五衰』は読んだ?なんて呟く先輩なのである。麻薬の売人に殺されたテナーマンに惹かれる私は返答に困る。新宿二丁目青線のガキは四谷の高台で育った小説家にさして興味がなかったからだ。
 17歳同士でそんな会話をしたのは、私にとってつい昨日の出来事である。

時の亡霊

 しかし、半世紀たった坂本龍一の去り方はまた違うと思う。
 遺作『12』は「水になれ」と私には聴こえるのである。
 「海ゆかば」ではない。水平な諌めの譜である。そこには君も臣もいない。夕闇が迫る海と空の境い目あたりに去っていくピアニストの後ろ姿が浮き沈みするのである。
 それは、かつて彼自身が「戦場のメリークリスマス」は「海ゆかば」になってしまった――と密かに語ってくれたからだ。大島渚は先に逝った。それでも公式のステイトメントにこんな言い方は出てこないだろう。

 海ゆかば 水漬(みず)く屍(かばね)/山行かば 草生(む)す屍
 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ/かえり見はせじ

 ――自分の死体が海に浮かび、山野で草が生えたとしても、私は天皇の傍で死のう。自分のことは決して顧みずに。詩は万葉集に採られた大友家持の長歌だ。この歌を5歳のころ聞いた1939年生まれの演出家、鈴木忠志はその思い出を書いている。

 私の戦争の記憶の中では、とび抜けて忘れられない旋律である。戦争が子供心にもたらした、唯一のすばらしい記憶と言っていいかもしれない。むろん当時の私には歌詞の意味はわからなかった。後に理解した時には、茫然たる想いにさせられたことは覚えている。
(SCOT ブログ鈴木忠志「見たり・聴いたり」、2011年6月23日より)

 悠久なる日輪の王。その荘厳に吸い込こまれる透明な死。その酩酊。1963年には11歳だった私の感想もたいして変わりない。なんだかわからないが、とにかく雄々しく潔い。
 それでも戦後生まれの少年。赤塚不二夫「おそ松くん」が載る『少年サンデー』が待ちどおしくてたまらないガキは、同時に『少年マガジン』で始まったちばてつやの連載「紫電改のタカ」にも惹かれる。初戦の勝利を飾ったゼロ戦と壊滅へ向かう戦争末期の紫電改は違うのである。ちばてつやの絵には幼い航空兵たちが南の島で生きようと思い悩む日常がある。大戦艦の艦橋から見る将官の眼ではない。
 前衛ばかりじゃないです、私たちも。坂本龍一と「紫電改のタカ」やうなぎ犬の話もするんだったなと思う。

 つまり「音楽は魔術」。Yellow Magic以前に、こういう違和感は坂本にも鋭く共有されている。だから1983年に自分自身が創った「戦場のメリークリスマス」のメロディーに、中国市場に進出する企業戦士たちの新しい「海ゆかば」が聞こえてしまうのである。大陸の経済が列島のそれを凌駕する25年前だ。
 これは二つの作品の比較楽曲分析ではまるでない。軍神の碑を爆破して始まる東アジア反日武装戦線の闘い。彼女/彼らが検挙されて7年という時代精神が、二つの曲に流れる音脈をつなぎ、かつ聴き分けるのである。
 時代精神のドイツ語原義は「時の亡霊」である。音楽こそ亡霊。20世紀の経験は私たちにさまざまな「亡霊」たちと付き合う術を教えてくれたのである。

水になれ

 私の中にも亡霊が棲んでいる。
 そのゴーストが『12』の楽曲を「水になれ」と聴く。
 「水になれ、Be Water」はブルース・リーの娘シャノンが書いた伝記に由来するという。その起源とされる『老子』の一篇を引こう(保立道久 現代語訳『老子』、ちくま新書』)。

 上善若水:上善(じょうぜん)は水のようなものだ。水の善、水の本性(もちまえ)は万物に利をあたえ、すべてを潤して争わない。水は多くの人の嫌がるところに流れこむ。水は道に近いのである。(原著8章、現代語訳9講)

 「善」と聞けば、誰でも説教臭い声を感じる。そこに異を立てる保立によれば老子の「善」 という考え方は、倫理的な「良い・悪い」と違って本性が自由自在な状態を意味するという。
 言ってみればこれはanarchyなのである。そしてその「善」を主語としてこの一篇を読む。 ベースには『論語』への対置がある。とりわけ孟子が上からの「仁政(おめぐみ)」を強調したのに対して、老子にとって「仁」とは「友の善」のことだと保立はいう。紀元前4世紀の中原で交わされた哲学論争の当否を判断する知識が私にはない。それでも直観する。

 最高のanarchyは水のごとし。仁なる政とは「友のanarchy」である。
 これは驚くほど爽快な理解である。
 ここまでくると、さらにジャンプした我流である。しかし1968年の小川環樹訳で『老子』に接した者には跳躍が必要である。もちろん坂本龍一も読んでいる。そして『12』には全編にわたって「水」が流れているのである。彼とは最期にこういう話がしたかったと切実に思う。
 亡くなって25日たった4月22日の夜、神宮外苑絵画館前に6000人が集まった。彼のポートレートの傍らで樹木伐採に抗して立つ人びとの体内からは水音が聞こえる。木々には天地から水が流れ込み、そして流れ出ていく――と、私の亡霊が呟くのである。

海に立つ牙

 と同時に、『async』になにか「牙」のようなものを聴きとる。
 彼は息をする最後まで「癒し」の感情を拒んだと思う。
 厳かな多重音が連なる。としても複雑な不協和音からさえ旋律は逃れる。三味線を弾く撥(ばち)から和を抜く。水の流れを清めつつ濁らせる。『12』でも、「戦場のメリークリスマス」ならオリエンタルな和合になじんでしまう波間に微かな白波が立つ瞬間がある。さらに2つの作品には、フレデリック・ジェフスキー「不屈の民」の欠片が飛び散っているのである。これは魂を濾過しなければ聞こえてこないだろう。
 「始源のサカモト」が形を変えて帰ってきた。最期の3作はそう聴こえてくるのである。

 1980年代に彼はYMOに加わり、私は山谷に流れる。バブルへ向かう時代を真逆の場所で生きたのである。それから30年近く「異論のある友情」の位置を保ってきた。これはけっこう難しい。彼がローランドのシンセサイザーを駆って世界ツアーした1年後に、寄せ場の闘いに加わった私は地面に転がる友人二人の死体を見ていた。山谷の映画を撮った二人は日の丸を背負う極道に殺されていた。それでも微かな接触はある。
 とはいえお互いに「時の亡霊」の乗りこなし方を覚えたのは、この30年間だったと思う。悪性新生物が私たちをもう一度引き合わせる。近づく死霊の影は、どうしても死にきれない魂を呼び戻すからだ。

 始まりの3作。1976年『ディスアポイントメント・ハテルマ』、1978年『千のナイフ』、1980年『B-2 UNIT』。ここにはよく砥がれた牙がある。そして電子音の歯牙を突き立てるのをためらう一瞬がある。この刹那が別の次元を開く。その技に知的な胆力を感じた。
 例えば「Riot in Lagos」。これは黒人音楽への坂本龍一の若い応えだ。まだ朴訥な機械状ファンク。腐乱したビートをかき集めて動く心臓。その心壁に触れる0.1ミリ手前で電子メスの手を止める。これが牙だ。終わりの3作でも、遠く海の彼方に去る海獣の背にそんな牙が朧げに浮かぶのである。

 ともに新生物を宿して暮らすようになってから、メールでは「龍一氏」と呼びかけるようになっていた。ベタに名を呼びながら敬意を添える。遠近を含む奇妙な言い方だが、今は水平線に向かってこう聞いてみたいのである。
―――龍一氏、奈良の暗殺者をどう思う? 

 ただ一人の標的だけを精密に消した者の「義と技」を、病床にいた彼はどう受け止めたのだろうか。2年前とりあえず新生物をいなした私に「おまえはいいよな」と書き送ってきたことがある。そこまで言う彼の病状は、ついにこの重い問いを許してくれなかった。
 だが、痛みの中で彼はこのことを考えていただろう。
 私の牙がそう言う。
 坂本龍一は私にとって、いつまでもそういう「海の牙」なのである。

Robbie & Mona - ele-king

 ロビー&モナの音楽は夜の匂いがする。日が沈み冷たくなった空気と人が消え音が少なくなった世界の暗がりのその匂い。建物の色も形も闇に覆い隠されて、木々の香りも昼間とはまた違って思えるようなそんな匂いが漂ってくる。

 ブリストルのサイケ・ポップ・バンド、ペット・シマーズのメンバーと元メンバー、ウィリアム・カーキートとエレノア・グレイによるプロジェクト、ロビー&モナ。2019年にはじまったこのプロジェクトのその名前はなんでもエレノア・グレイの飼っていた犬に由来するらしいが、そんな由来のプロジェクトがペット・シマーズと並行しておこなわれているのもなんとも面白い(ペット・シマーズも本当に素晴らしいバンドだ)。
 ふたつのプロジェクトが同時におこなわれているからこそどうしたって比較してその違いを考えてみたくなってしまうけど、カラフルな夢の中をステップを踏みながら滑るようにやってくるペット・シマーズの音楽に対してロビー&モナの音楽はもっと静かで大きな主張をしてこない。ロビー&モナの音楽を聞いて感じるのは上記のような夜の匂いで、かすかに漂う残り香がそこに誰かがいたということを感じさせムードを形作っていく。それがたまらなく魅惑的に響くのだ。

 2021年の1stアルバム『EW』はソーリーのようなラフさと重ねすぎない引き算のセンスをシンセサイザーの上で混ぜ合わせたアルバムで、広がりのない小さな部屋のDIYの感覚がそれゆえに特別な輝きを生み出していたような傑作だったが、この2023年の2ndアルバム『Tusky』はそれよりももっと洗練されていて柔らかな匂いを放っている。上品で滑らかな響き、それは「夜会」とも「舞踏会」とも表現したくなるようなもので、クラシカルな雰囲気の漂う白黒映画をいまの技術と感覚で再現したみたいな架空の映画のサウンドトラックのようにも聞こえてくる。
 ゆったりとしたピアノと電子音が組み合わせるオープニング・トラック “Sensation” はアルバムの世界への導入として完璧に機能していて、違うときを生きるヴァンパイアのようなエレノア・グレイとウィリアム・カーキーの小さなそのささやきが幽玄とその空気の中を漂い現実と隣り合った世界との境界線を曖昧にしていく。サックスが加えられジャズのエッセンスに触れられた “Flâneural” へと続くこの音楽は同じ雰囲気を保ったまま、ゆっくりと新たな軌跡を加えていく。その先にある “Sherry Prada” はジョニー・ジュエルが手がける〈Italians Do It Better〉のバンドたちのようにエレクトロニクスの要素をより強く出した美しく儚い夜の世界を表現したような曲だが、その中であってもエレノア・グレイの甘く漂うヴォーカルが柔らかな印象を連れてくる。

 あるいはエレノア・グレイの声と、生の楽器の音、電子音の組み合わせの妙こそが『Tusky』の最大の魅力なのかもしれない。この2ndアルバムはこれらの要素を組み合わせることによって近未来の古典のような、違う星で作られた昔の物語のような新鮮な感覚を生み出しているのだ。その感覚はアルバム後半で特に顕著になり、ストリングスと聖歌隊の声が歪められ、そしてけたたましい電子音のビートに吸収される “Dolphin” やピアノとエレノア・グレイの美しい歌声に浸り思いを巡らせている内にエレクトロニック・プロダクションに接続されて、気がつけばサウス・ロンドンのヒップホップ・グループ NUKULUK のモニカのラップを噛みしめているという不思議な感覚を何度も味わうことになる “Mildred” に繋がっていく。

 アルバム全体としても曲単位としてもロビー&モナは細かく小さく美しさと奇妙な感覚、そしてジャンルの間を行き来する。それらが単なるパッチワークのように思えないのはきっと同じムードで統一されているからなのだろう。その境目がはっきりとは見えない夜の、美しく不気味な物語。最終曲、“Always Gonna Be A Dead Man” に辿り着く頃には抜け出せなくなるくらいにどっぷりとこの奇妙な雰囲気の音楽に浸かり込んでしまっている。陰鬱だが美しい、ここには極上の夜の香りが漂っているのだ。

VIVA Strange Boutique - ele-king

 世田谷区奥沢の服とレコードといろいろ売っているお店〈VIVA Strange Boutique〉が、Phewとのコラボアイテムの販売を開始した。Tシャツやトレーナー、カーディガン、ジャケット、そしてベレー帽もあります。詳しくはサイトをどうぞ。

 また、4月28日からおよそ1ヶ月間、久保憲司の写真展も開催します。ぜひ、足を運んでみてください。

KENJI KUBO Photo Exhibition "Never Understand" at VIVA Strange Boutique

80年代〜90年代初頭、イギリスの音楽シーン激動の時代に渡英し、鮮やかでパワフルな瞬間を切り取ったロック・フォトグラファー、久保憲司さんの写真展を4/28(金)より、VIVA Strange Boutiqueにて開催します。

Jesus & Marychain、Primal Scream、My Bloody Valentain、Stone Roses、Psychic TV、Terry Hallなど、アーティストのリラックスした空気感が伝わってくる、久保さんならではのショットをはじめ、SuicideやSPK、Jazz Butcherの貴重なライブ写真など、たくさんのアーカイブの中から、ストレンジ・ピープルなVIVAのお客様に楽しんで頂けるものを慎重にセレクトしました。
展示作品は、販売もいたします。すべて1点物となりますので、お早めのご来場をおすすめいたします!

会期:4月28日(金)〜5月20日(土)
営業時間:14〜19時
定休日:月火水

VIVA Strange Boutique
東京都世田谷区奥沢5-1-4
instagram:@vivastrangeboutique
Twitter:@vivastrange

RUBEN MOLINA “CHICANO SOUL” DJ & TALK SESSION IN JAPAN

「若者にとってバリオ・ライフは時にハードなのだ。だからタフでいなければならず、そうした強迫観念から感情的であることは抑えられる。ガールフレンドができたとしても、正直に自分の気持ちを打ち明けることさえも困難にさせてしまう。ラヴ・バラ―ドはそんな彼らの声を代弁してくれるのだ」(『ローライダーマガジン日本版』85号。著者によるルーベン氏へのインタヴュー。2008年)

 独特の「甘さ」をひとつの特徴として捉えられるメキシコ系アメリカ人たちが奏でる「チカーノ・ソウル」。いまやロサンゼルスやサンアントニオのメキシコ系コミュニティを越えて、注目のジャンルとして世界中で熱烈なファンを多く生んでいる。ご存知のようにビッグ・クラウンやダプトーンといったNYのインディペンデント系レーベルがとくに力を入れてロサンゼルスのアーティストたちの作品を次々とリリース。昨今のヴィンテージR&Bサウンドのリヴァイバルの動向にも大きく貢献しているのは間違いないだろう。そんなシーンの立役者である『CHICANO SOUL~RECORDINGS & HISTORY OF AN AMERICAN CULTURE』(邦題『チカーノ・ソウル~アメリカ文化に秘められたもうひとつの音楽史』(サウザンブックス))の著者、ルーベン・モリーナ氏が遂に日本にやってくる。

 出身は、ロサンゼルス・チャイナタウンに近い古いチカーノ・バリオ、フロッグタウン。公民権運動とロー・ライダーの嵐が吹き荒れた70年代に青春時代を送り、ストリート事情に精通する市井の研究家であり、サザン・ソウル・スピナ―ズと名乗るOGらによるDJクルーの一員でもある。今回は大阪と東京の2カ所でDJとトークのイベントを行う。会場ではヴィンテージのチカーノ・ソウルが鳴り響く予定だ。またトークではロー・ライダーやソウル音楽との関係などをフロッグタウンの経験に言及しながら紐解いていくという。そんな貴重な来日イベントを前にルーベン氏のインタヴューを敢行した。(文:宮田信)


 

■書籍『チカーノ・ソウル~アメリカ文化に秘められたもうひとつの音楽史』を執筆しようと思った経緯について教えてください。メキシコ系アメリカ人演奏家による英語の録音についての情報はほぼ皆無でしたので大きな挑戦だったと思いますが。

ルーベン:「アフリカ系アメリカ人の歌手のレコードを集め始めたのは1966年か1967年で、13歳か14歳の頃です。主にラジオで流れていた音楽です。当時ロサンゼルスではラジオで流れるチカーノ・バンドはほとんどなく、ダンス・パーティに行くにはまだ幼くて、結局イーストサイドサウンド(イースト・ロサンゼルスで生まれた若いチカーノによるR&Bやロックの演奏)に辿りついたのは1969年の頃でした。それから30年後、ディマスⅢの“You’ve Succeeded”というレコードを聴いていて思わず惚れ惚れしてしまったのです。作家のクレジットにディマス・ガルサという名前があり、そのレコードがテキサス州サンアントニオのものであることを知り、かの地まで飛んでいって彼を探し出さねばと思ったのです。その途中にジョー・ジャマやロイヤル・ジェスターズ、サンライナーズ・バンドの面々と出会い、「いったい60年代にはどのくらいのチカーノたちがソウル・ミュージックを演奏していたのだろう」と思い巡らしていたのです。しっかりと調べ上げて、本にまとめようと決心したのです。確かにこの本の前にはそうしたものについて書かれたものは僅かでした。しかし、チカーノ・コミュニティは過去を大切にする傾向があり、この本を完成させる為に、多くの録音、写真、インタヴューを集めることできたのです。

■あなたが「チカーノ・ソウル」と呼んだ多くの録音はたしかに黒人音楽から大きく影響を受けたハイブリッドな音楽です。しかし、この本のタイトルである「チカーノ・ソウル」にはダブル・ミーニングを感じさせています。単純に音楽のことだけではなく、メキシコ系アメリカ人による独創的な創造性、社会的意識、また誇りの意味も込められているように思います。

ルーベン:たしかにブラック・ミュージックはアメリカの若者たち、特とくにチカーノ・コミュニティに大きな影響を与えました。最初は若いミュージシャンがレコードで聴いたものを真似してカバーを録音していましたが、熟練してくると、ソウルフルな音楽アレンジで自分たちの曲を作るようになったのです。タイトルに二重の意味を持たせたかったのは、その通りです。そう、チカーノ・アーティストは黒人の音楽をコピーしていましたが、そうした音楽が彼らの魂を掴み、創造力を発揮してひとつのジャンルが生れていったのです。それこそがチカーノのやり方なのです。

■チカーノたちの公民権運動は1970年代中盤まで続きました。あなたが育ったフロッグタウンでのリアクションはどんなものでしたか?チカーノという言葉をどのように当時の若者たちは使い始めたのでしょう?

ルーベン:チカーノという言葉は、ドン・トスティが1948年に録音した “CHICANO BOOGIE”というタイトルの曲があるように、私たちの歴史のなかでは何十年も前から使われています。1960年代の公民権運動の時代に広まり、80年代までに広く使われるようになりました。私の住んでいたバリオでは、私の世代はチカーノとして育ち「イースト・ロサンゼルス・ライオット」として知られる反戦行進に参加した者もいました。メキシコにより深くルーツをもつ人のなかにはよりアメリカ的だと考えこの言葉を好まない人もたくさんいましたが、私たちの多くは自分たちをチカーノだと考えてきたのです。「チカーノ・ソウル」というタイトルに、当時のフラッシュバックを招くかもしれないという不安もありましたが、快く受け入れられ、自分の青春時代やチカーノ・コミュニティの苦悩について考えるきっかけにもなったのです。

■ロー・ライダーであることもラサ(チカーノ)のアイデンティティを表現する政治的なアクションだと思います。あなたはチカーノという意識をどのように培ってきたのですか?

ルーベン:私はアメリカで生まれ、家族も何世代もアメリカに住んでいますが、幼い頃、自分が何者であるかを知ろうとしたとき、「白人の国、アメリカ」が自分は何者なのかと教えてくれました。要するにダークスキンの子供で、メキシコ人で、トラブルで、必要とされていないといった感じ方です。ところがチカニスモは私にプライドを芽生えさせ、本当の自分を教えてくれました。その意味で、私は白人の国、アメリカに感謝しているともいえるでしょう。

■驚いたことに、執筆から出版を全てひとりでこなし、それを自費でなさっています。一番苦労したのはどんなことでしょう?

ルーベン:企画を始めた時点で、自分ひとりの力でやらなければとわかっていました。出版社は、大きな売上をもたらすことができる定評あるライターか大学の先生しか使いたがりません。私は独学で文章の書き方や出版ソフトの使い方を学びました。編集者や印刷業者に支払うお金も自分で用意したのです。営業するのが一番大変でした。しかし、本が売れ始めたら、新しい世代のチカーノの子供たちに誇りを与えていると実感できたのです。彼らは自分たちのコミュニティの過去を見つけ、いまでは彼らのなかからコミュニティの歴史のなかに埋もれてきた他のテーマを記録調査している人も出て来ています。

■いま、新しい世代のチカーノ・ソウルがブームになっています。また多くのコレクターが古いチカーノたちのレコードを探しています。この本がそのきっかけに大きく貢献していると思います。そんなことを予想していましたか?

ルーベン:当初、レコード・コレクターからは「そんな本を出せばレコードの価格が上がる」と怒られました。私もそれについて考えましたが、歴史の方がはるかに重要だと思ったのです。この本がきっかけで、新しい世代のレコード・コレクターも増えました。若いコレクターがチカーノ・グループやメキシコのレコードを探しているのをよく見かけるようになりました。それは私たちの文化や誇りにとって良いことです。そんなことが起こるとは思ってもみませんでしたが。

■この本は大学のチカーノ・スタディーズに大きな衝撃を与えたと思います。どのように受け止められましたか?

ルーベン:大学では誰も研究していないからと油断していた教授たちよりも、学生たちの方が先にこの本を支持してくれました。あれから何年も経ったいま、学生たちのなかには、自分たちで研究し本を書こうとしている人も出て来ています。

■5月のツアーではどんなレコードを用意するつもりですか?最近はチカーノ・ソウルの他にジャマイカのソウル・カバーのレコードも蒐集していらっしゃるようですが。

ルーベン:まだどんなレコードを引っ張り出すかは分からないです。もちろんジャマイカ、ソウル、チカーノは持っていく予定です。

■今回の初来日では何人かの仲間も一緒に来るようですが。彼らについて教えてください。

ルーベン:テキサス州サンアントニオの超有名なレコード・コレクター、ヘクター・ガレーゴスも一緒にDJをやる予定です。また、カリフォルニア州サンノゼ出身のドキュメンタリー監督/プロデューサー、ヘスス・クルスも来ます。ヘススは、サザン・ソウル・スピナーズを題材にしたドキュメンタリーを制作中で、この旅に同行して撮影する予定です。またダイジェスト版をどこよりも早く今回のツアーでお見せ出来たらと思っています。

■最後に日本でチカーノに興味のある人へメッセージをお願いします。

ルーベン:『チカーノ・ソウル』の日本での出版から3年、皆さまにサポートして戴き感謝しています。日本の音楽愛好家がチカーノやその文化から生まれてくる音楽に興味をもってくれなければ、何も起きませんでした。日本へ行くことに少し緊張していますが、同時にとても興奮しています。音楽や本のファンの方々とお会いできることを楽しみにしています。 皆さんもぜひ足を運んで、今回のプロジェクトを応援してください。

☆5月19日(金)大阪・東梅田 do with café

Open:18:30/Talk Start:20:00
予約¥3,900 / 当日¥4,500(+1ドリンク別途)

☆5月21日(日)東京・代官山 晴れたら空に豆まいて
Open:18:00/Talk Start:20:00
予約¥3,900 / 当日¥4,500(+1ドリンク別途)

<ご予約・お問い合わせ>

晴れたら空に豆まいて 03-5456-8880(15-22時)
MUSIC CAMP, Inc. 042-498-7531(月・水・金11-20時)

e-mail: chicanosoul2023@m-camp.net 
※メールでご予約される場合は件名を「チカーノ・ソウル イベント予約」としていただき、
お名前・ご連絡先電話番号・ご希望会場(大阪/東京)をお書き添えください。
オフィシャル・サイト⇒ http://www.m-camp.net/ChicanoSoul2023.html

Ryuichi Sakamoto - ele-king

 およそ6年ぶりのオリジナル・アルバムにして生前最後のアルバムとなった『12』。アナログ盤も発売されているのだが、初回生産限定盤(RZJM-77655~6)はそっこうで完売、一昨日の4月5日に発売となった通常盤(RZJM-77717~8:「自筆スケッチ | 譜面 プリント」は付属せず、またカラーヴァイナルではない黒盤)も品薄となったため、追加プレスが決定した。入荷時期などはまだ明かされていないため、随時公式サイトをチェックしておきたい。『12』の試聴・購入はこちらから。

Fridge - ele-king

 キエラン・ヘブデンがフォー・テットをはじめるまえに組んでいたポスト・ロック・バンド、フリッジの01年作『Happiness』が20周年記念盤となって蘇る。“Cut Up Piano and Xylophone” や “Long Singing” など美しい音世界が魅力のアルバムだ。現在 “Five Four Child Voice” がリード曲として公開、さらに同曲の2007年のライヴ映像も公開されている。発売は5月26日です。

Four TetことKieran Hebden率いるFridgeが2001年にリリースした名作『Happiness』のリリース20周年記念盤が5/26リリース決定。リード・シングルとして「Five Four Child Voice (Remastered)」がリリース、加えて、この曲を演奏した2007年のライヴ・パフォーマンス映像が公開。

Four TetことKieran Hebdenが学友であったAdem Ilhan、Sam Jeffersと共に1996年に結成したFridgeが2001年にリリースした『Happiness』がリリース20周年を記念し、リマスタリングし、ボーナス・トラックを加えた新装パッケージのアニヴァーサリー・エディションが5/26にリリースされることが決定致しました。

リード・シングルとして「Five Four Child Voice (Remastered)」がリリース、加えて、この曲を演奏した2007年のライヴ・パフォーマンス「Live at Bardens Boudoir, London, England (August 9, 2007)」が公開されました。

Fridge “Happiness – Anniversary Edition” 5/26 release

Artist: Fridge
Title: Happiness
Label: PLANCHA / Temporary Residence Ltd.
Format: CD(国内流通仕様盤)
※帯・解説付き
Release Date: 2023.05.26
Price(CD): 2,200 yen + tax

ポストロックとエレクトロニカが交錯し、フォークトロニカへも派生しようとしていたゼロ年代初頭を彩った不朽の名作の20周年記念盤が登場。Four TetことKieran Hebdenが学友であったAdem Ilhan、Sam Jeffersと共に1996年に結成したFridgeが2001年にリリースした『Happiness』がリリース20周年を記念し、リマスタリングし、ボーナス・トラックを加えた新装パッケージのアニヴァーサリー・エディション。ポストロックxエレクトロニカの超絶名曲にしてフォークトロニカの源流になったいう説もある超名曲「Long Singing」収録。

1996年に学友のKieran Hebden、Adem Ilhan、Sam Jeffers によって結成されたFridgeは、初期は驚くほど多作で、最初の4年間で10枚のシングルと4枚のアルバムをリリースした。メジャーレーベルに短期間在籍した後、トリオはこれまでで最も焦点を絞ったアルバム(Eph、1999年)をリリースした後、フリッジは4枚目のアルバム『Happiness』を発表した。

2001年に最初にリリースされた『Happiness』は、広大で田園的な傑作であり、アコースティック・クラッター、エレクトロニックな探求、ヒップホップ・プロダクション・テクニック、実験的なロック・アレンジの革新的なミックスです。Kieranの今をときめくソロ・プロジェクトであるFour Tetとともに、『Happiness』は1990年代の典型的な自己真面目なエレクトロニック、インディ〜アヴァンロックの最も説得力のある要素を引きずり出し、それらを折衷的なフォークやスピリチュアル・ジャズと組み合わせて、新しい世紀へ向けたものへと昇華した。さらに驚くべきことに、彼らはなんの気負いもなく、当時のあらゆるアルバムとは一線を画す完成度の高い作品を完成させたのだ。

当時のムーヴメントであったポストロックとエレクトロニカが交錯していくような極めて完成度の高い作品であるが、何といっても白眉は本編最後を飾る9分にも及ぶ「Long Singing」。エレクトロニックなサウンドとアコースティックな音色がミニマルながらエモーショナルなメロディに乗って重なり合っていきながらピークを迎えた後に徐々に減っていく。その構築美で聴かせるポストロック〜エレクトロニカ史上に輝く珠玉の名曲。また、フォークトロニカの源流のひとつであるとも言われており、20年の時を経ても未だ色あせていない。

『Happiness – Anniversary Edition』は、Fridgeのキャリアを決定づけたこの傑作の20周年記念リイシュー。 Kieran Hebdenがオリジナルのマスター・テープから細心の注意を払って復元、再構築、リマスタリングしたこのアルバムの音質は、かつてないほどオリジナルの録音を尊重しています。

01. Melodica & Trombone
02. Drum Machines & Glockenspiel
03. Cut Up Piano & Xylophone
04. Tone Guitar & Drum Noise
05. Five Four Child Voice
06. Sample & Clicks
07. Drums Bass Sonics & Edits
08. Harmonics
09. Long Singing
10. Five Combs (Bonus Track)

Restored and remastered by founding member of Fridge, Kieran Hebden (aka Four Tet)

"Five Four Child Voice (Remastered)" out now

Bandcamp
YouTube

Fridge – Live at Bardens Boudoir, London, England (August 9, 2007)
YouTube

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727