「K A R Y Y N」と一致するもの

4月のジャズ - ele-king

 先日、サックス/フルート奏者のチップ・ウィッカムのインタヴューをおこなったが、そこでも話題に上ったのがハープ奏者のアマンダ・ウィッティングだ。チップ・ウィッカムのアルバム『Blue To Red』(2020年)、『Cloud 10』(2022年)に参加しているが、彼と出会ったのはマシュー・ハルソール率いるゴンドワナ・オーケストラのツアーで、そこから親交がはじまっている。マシュー・ハルソールゴンドワナ・オーケストラの作品においてはハープがとても重要な位置づけにあり、必ずと言っていいほどハープ奏者がフィーチャーされてきた。ハープはだいたい女性奏者が演奏することが多く、ゴンドワナ・オーケストラにおいてもこれまでレイチェッル・グラッドウィン、マディ・ロバーツ、アリス・ロバーツが務めてきており、現在それを担うのがアマンダ・ウィッティングである。ほかにもミスター・スクラフジャザノヴァグレッグ・フォート、ヒーリオセントリックス、レベッカ・ヴァスマン、DJヨーダなどと共演してきた彼女は、自主製作で3枚ほどのアルバムをリリースした後、2020年に〈ジャズマン〉から『Little Sunflower』を発表。フレディ・ハバードの名曲をカヴァーしたこのアルバムにおいて一躍注目のハープ奏者となる。そうしてマシュー・ハルソールやチップ・ウィッカムなどとも交流を深め、『After Dark』(2021年)、『Lost In Abstraction』(2022年)にはチップも参加している。


Amanda Whiting
The Liminality Of Her

First Word

 最初はクラシック・ハープを学び、その後ジャズの演奏をはじめるようになったアマンダ・ウィッティングだが、チップ・ウィッカムのインタヴューでは彼女について、1960~1970年代に活躍したジャズ・ハープ奏者の草分けのひとりであるドロシー・アシュビーに近いタイプの演奏家で、メロディアスでソウルフルな演奏が特徴にあると言っていた。そうしたところもあってか、ジャズにおいてもクラブ・ジャズ寄りのアーティストや、エレクトロニックなクラブ系アーティストにも起用されるのだろう。2023年には〈ファースト・ワード〉に移籍して、ヒップホップ/ソウル系のプロデューサー・チームであるダークハウス・ファミリーの片割れであるドン・レイジャーとの共演作『Beyond The Midnight Sun』をリリースしている。ジャズだけでなく幅広いタイプの音楽にアマンダのハープは見事にフィットすることを示したアルバムだった。

 そして、それから1年ぶりの新作『The Liminality Of Her』がリリースとなった。編成はハープ、ベース、ドラムス、パーカッションで、今回もゲストでチップ・ウィッカムのほか、女流DJ/シンガー/プロデューサーのピーチが参加する。そのピーチをフィーチャーした “Intertwined” と “Rite Of Passage” は美しいメロディーと繊細なムードに包まれ、モーダル・ジャズとソウル・ミュージックが結びついた最高の作品と言える。“Liminal” はアフロ・キューバンとジャズ・ファンクが融合したようなリズムで、ドロシー・アシュビーの〈カデット〉時代の名作『Afro-Harping』(1968年)、『Dorothy’s Harp』(1969年)、『The Rubáiyát Of Dorothy Ashby』(1970年)を彷彿とさせる。“Nomad” のハープはまるで琴のような音色で、「遊牧民」というタイトルどおりのエキゾティックなムードを演出する。もっともダンス・ジャズ的な作品は “No Turning Back” で、アフロ・キューバン調の転がるパーカッションに乗った軽快な演奏を披露する。クラブ・ミュージック系アーティストからも彼女が支持される理由がわかる演奏だ。


Shabaka
Perceive Its Beauty, Acknowledge Its Grace

Impulse! / ユニバーサル

 シャバカ・ハッチングスは2022年にシャバカ名義でのソロ・アルバム『Afrikan Culture』をリリースしていて、今回リリースした『Perceive Its Beauty, Acknowledge Its Grace』はその第2弾となるもの。『Afrikan Culture』はごく僅かのゲスト・ミュージシャンの手は借りるものの、基本的にはシャバカひとりの演奏のみで完結していた。従って非常にシンプルな楽器編成で、サウンドも原初的なものとなる。ほかのプロジェクトではサックスを演奏することが多いシャバカだが、このプロジェクトではフルート、クラリネット、尺八などで、それ以外にヴォイスも交えている。シャバカはいろいろなプロジェクトをおこなうなかでも、どこかに自身のルーツであるアフリカの音楽を感じさせる作品づくりをおこなってきたが、このソロ・プロジェクトはもっともアフリカ色が色濃く表れたもので、それも現代的なジャズへと行きつく遥か以前の民謡というか、原型的な音をそのまま抽出したようなものだった。

 『Perceive Its Beauty, Acknowledge Its Grace』は参加ミュージシャンが増え、カルロス・ニーニョブランディ・ヤンガー、ミゲル・アットウッド・ファーガソン、エスペランザ・スポールディング、ジェイソン・モランらアメリカのミュージシャンも加わっている。また、フローティング・ポインツアンドレ・3000などクラブ・ミュージックの分野のひとたちから、アンビエント/ニュー・ミュージック界の巨匠であるララージ、エスカ、モーゼス・サムニーリアン・ラ・ハヴァスなどシンガー・ソングライター、ソウル・ウィリアムス、エルシッドなど詩人やラッパーと幅広い人脈が集まる。こうしたアルバムはともすると散漫な印象になってしまう危険性があるが、『Afrikan Culture』にあったような原初的な音楽性は損なわれていない。そして、基本的に音数や楽器はミニマルな構成となっていて、“End Of Innocence” や “As The Planets And The Stars Collapse” など静穏とした世界を展開する。ゲスト・ミュージシャンは多いが、個人個人の色は極力出さないようにしていて、あくまでシャバカの絵のなかの背景の一部となっているようだ。ハンドクラップのようなリズムの “Body To Inhabit” はエレクトロニクスを交えた作品ではあるものの、極めてプリミティヴな音像を持つもので、かつて1980年代にジョン・ハッセルブライアン・イーノとやっていたアフリカ音楽とアンビエントの融合を思わせる。


Glass Beams
Mahal

Ninja Tune

グラス・ビームスはオーストラリアのメルボルン出身のギター、ベース、ドラムスのトリオで、覆面をしてパフォーマンスをするというミステリアスさが話題を集める。東洋音楽と西洋音楽を融合したエキゾティスズム溢れる音楽性を持つが、リーダーのラジャン・シルヴァの父親がインド出身で、幼少期からラヴィ・シャンカール、アナンダ・シャンカール、R.D.バーマン、カルヤンジ・アナンジなどのインドの音楽に親しんできたという背景がある。インドや中近東、東南アジア、北アフリカなどの音楽と、ジャズ・ファンクやサイケ・ロックなどが結びついたのがグラス・ビームスなのである。クルアンビンあたりと共通するところもあるが、より民族音楽の色合いが強いバンドと言えるだろう。

 2021年にオーストラリアで「Mirage」というEPをリリースした後、2024年に〈ニンジャ・チューン〉と契約してミニ・アルバムの『Mahal』をリリースした。“Mahal” はインドや中東で宮殿を指す言葉で、その言葉どおりエキゾティックな旋律を持つジャズ・ファンクとなっている。基本的にはスリーピース・バンドであるが、“Orb” では尺八やフルートのような音色だったり、おそらくシンセで作ったミステリアスなSEを交えてサイケな空間を作り出している。“Black Sand” におけるギターもシタールを模したような音色で耳に新鮮だ。


Kenny Garrett & Svoy
Who Killed AI?

Mack Avenue

 デューク・エリントン、アート・ブレイキー、マイルス・デイヴィスらジャズ界の巨星たちと共演してきて、一方でクリス・デイヴジャマイア・ウィリアムス、シェドリック・ミッチェルら現代ジャズの精鋭たちを自身のバンドから輩出してきたサックス奏者のケニー・ギャレット。自身のリーダー・アルバムでは『Trilogy』(1995年)や『Pursuance: The Music Of John Coltrane』(1996年)のようなモードを追求した作品から、ファンクやソウル色の強い『Happy People』(2002年)、中国やアジアをモチーフとした壮大な『Beyond The Wall』(2006年)など多くの傑作を残している。ソロ・アーティストとして頭角を現したのは1990年代半ば頃からで、それ以降は現代で強い影響力を持つサックス奏者のひとりであり続けている。ロバート・グラスパーも修業時代に彼と共演し、いろいろ影響を受けたと述べていたことがある。

 近年は『Sounds From The Ancestors』(2021年)などアフリカ回帰色の強い作品を発表していて、そんなケニー・ギャレットの最新作はスヴォイことミハイル・タラソフとの共演作。ロシア出身のスヴォイはアメリカのバークリー音楽院に留学し、ジャズ・ピアノを学ぶと同時にエレクトロニック・ミュージックも手掛けるようになった。これまでに『Automatons』(2009年)のようなダンス~エレクトロニカ的なアルバムをリリースする一方、ミシェル・ンデゲオチェロ、レニー・ホワイトなどジャズ・ミュージシャンとも度々共演している。ケニー・ギャレットのアルバムにも『Seeds From The Underground』(2012年)、『Pushing The World Away』(2013年)でそれぞれヴォーカル、ストリングス・アレンジを担当し、今回はアルバム丸ごとでコラボレーションを行っている。ケニー・ギャレットもかつてQ・ティップの『Kamaal The Abstract』(2001年録音)に参加するなど、ヒップホップやクラブ・ミュージック系アーティストとの共演に対して寛容なスタンスを持つ人で、スヴォイとの共演についてもチャレンジングな気持ちで臨んでいる。『Who Killed AI?』というタイトルが示すように、AI時代の現代を表現したもので、スヴォイの作るエレクトロニックなトラックをバックにケニーのサックスが即興演奏を繰り広げる。マイルス・デイヴィスがAIを通じてコーチェラで演奏したらという “Miles Running Down AI” や、ケニーのソプラノ・サックスがスヴォイのシンセを通じてエレキ・ギターのような音色へ変調する “Divergence Tu-dah” など、これまでのキャリアからまた大きく飛躍する斬新なアイデアに満ちた作品集となった。

Lloyd McNeill & Marshall Hawkins - ele-king

interview with Shabaka - ele-king

 シャバカ・ハッチングスに以前インタヴューをしたのは、ザ・コメット・イズ・カミングで来日した2019年のことだった。他のメンバーに比べて発言は控えめだったが、観客と共に演奏に伴うエネルギーや生命力を育んできたということを語っていたのが、特に印象に残っている。実際、そのライヴも、並行して取り組んでいたサンズ・オブ・ケメットシャバカ・アンド・ジ・アンセスターズの活動も、外に向かうパワフルでポジティヴなエネルギーに満ちたものだった。現行のUKジャズ・シーンを語るときに、その牽引者として真っ先に名前を挙げられる存在だった彼が、シャバカ名義でリリースしたソロEP「Afrikan Culture」は、しかし、そのイメージを覆すものだった。
 テナー・サックスの代わりに「心理的な楽器」だという尺八やフルートが演奏され、エネルギッシュな演奏の対極にある、メディテーショナルで内省的なサウンドが展開された。シャバカの音楽をこれまで聴いてきたリスナーの多くが期待したサウンドではなかっただろう。その才能を称えてきた、特にジャズのメディアやジャーナリストからの反応も一部を除いては鈍かった。だが、「Afrikan Culture」は決して一過性の特殊な作品ではなく、新たな活動のプロローグであると捉えた人も少なくはなかった。このときに、すでに幾度か一緒に録音をおこなっていたカルロス・ニーニョから伝え聞いた話からも、シャバカの本気度は伺い知れたのだ。
 「Afrikan Culture」のリリース後、これまでのバンド活動をすべて休止し、尺八の演奏に集中的に取り組み、そして、ファースト・ソロ・アルバムの『Perceive its Beauty, Acknowledge its Grace』が完成した。慣れ親しみ、当たり前だと思ってきた前提を離れて、自分の身体感覚とパーソナルな関係性から取り組んできたことの結果として、このアルバムがあることは、インタヴューから伝わるはずだ。その音楽はインサイドにあるのか、アウトサイドにあるのか、ジャズではよくそういう分け方をする。インタヴューで言及されているアンソニー・ブラクストンの音楽は、いまもアウトサイドだろう。シャバカの音楽は? このインタヴューから感じたのは、新たな楽器にひとりで向き合って習得したことをジャズのコンテクストに還元しようとしている音楽が『Perceive its Beauty, Acknowledge its Grace』には収められているということだ。

自己発見、とまでは行かないけど、勇気を持って「これからは、これまでは表に出してこなかった、自分のなかのこういう音楽性を強調したい」と言えるようになったということさ。

(質問者は)カルロス・ニーニョの音源をリリースするなど個人的に繋がりがあって、彼からあなたと録音をした話を大分前に聞かされました。まだ、あなたがサックスを吹いて、バンドでアグレッシヴにライヴをしていた頃です。カルロスと繋がったのは最初、不思議に思いましたが、その後のあなたの活動を見て、とても合点がいきました。あなたが現在のような音楽性に変わるきっかけ、理由は何だったのか、まずはそのことから伺わせてください。

S:僕にしてみれば、自然な成り行きだったんだ。バンドを結成するというのは、共通の語彙を持つレパートリーを作ることだ。成功すれば、それを世界中に届け、広め、みんなは楽しんでくれて、何をそのバンドから期待できるかを知る。でもそうだとしても、僕個人が他にもやりたいと思っていることがないわけじゃないし、他に面白そうだなと僕が感じる音楽の作り方はあるのかもしれない。アーティストであるということは、自分が面白いと思うことを探し続けることであり、どこまで自分を押し進められるかということだ。アンソニー・ブラクストンが語る “感情のランドスケープ” に関する引用を読んだことがある。観客に対して発信する感情のアウトプットの裾野を広げる能力、ということだ。僕の場合はサックスを通じてエモーションを発信してきた。だが、それがすべてだということじゃない。そのとき、その観客に対して発せられ、その時期のアーティストとしての僕の本質を具現化するのが、たまたまサックスだったというだけ。そして僕がどう感じるか、何を発しなければならないと感じるかは日毎に変わる。つまり自己発見、とまでは行かないけど、勇気を持って「これからは、これまでは表に出してこなかった、自分のなかのこういう音楽性を強調したい」と言えるようになったということさ。

自己発見と言われましたが、サックスから、フルートや尺八に演奏楽器を変えたことで、どんなことを発見したと思いますか?

S:たくさんあるけど、一番はサックスを吹くのにどれほど身体に大きな緊張をかけていたかという発見だ。だから尺八を学ぶことで、僕のサックスのテクニックは向上した。そのことを、サックス奏者に会うと僕はいつも言うんだ。尺八を吹きはじめると、先生についていなかったとしても、多くのことを学ぶ。じつに難しい楽器で、いろいろな問題にぶち当たる。でもその問題がサックスを演奏するための基本的テクニックを理解し、演奏をさらに上達させるのに役立つことになる。なかでも緊張することなく、力と勢いを生み出すにはどうすればいいかが、いちばん難しい問題だった。攻撃的な緊張感をかけることなく、大きなエネルギーを得るにはどうすればいいか? 何度かレッスンを受けたことがある気功に似てるんじゃないか、というのが僕なりの答えだった。ゆっくりとした動きの流れのなかで、いかに違うソースからエネルギーを生み、送り出すか。力ではなく、エネルギーの流れ。いかにエネルギーを前に動かすかということだ。さらにテクニカルな話もできるけど、きっと聞いても面白くないと思うのでここでやめておくよ(笑)。

アンドレ3000もインディアン・フルートを演奏して、『Perceive its Beauty, Acknowledge its Grace』にも参加していますね。フルートを選んだことも含めて、彼の転向をあなたはどう思われましたか?

S:最初、SNSでフルートを吹きながら歩き回ってる動画を見たときは、面白いなと思った。で、カルロス・ニーニョに声をかけられて彼のレコーディングに参加したときに、長い時間を一緒に過ごし、話もした。そのとき、本人からこれからはフルートを主な楽器、もしくは “声” として、音楽作りをしていくんだという話は聞いていたんだ。

実際に彼に参加してもらってのレコーディングはどんな感じでした?

S:すごく良かったよ。すごくいいヴァイブが流れていた。僕も彼も、とにかくフルートでジャム演奏するのが好き、という似たところが根底にあると感じたよ。先生につかずに楽器を学ぶと経験することのひとつさ。独学だと当然、楽器とすごく長い時間を過ごすことになる。4時間くらい楽器を手に持っているだろ。するとゆっくりと、楽器が、自分が何をしなきゃならないかを教えてくれるようになる。自分自身をチェックし、呼吸をチェックし、一貫したメロディを作り、どんなヴァリエーションが作れるかを試し……というように。僕も彼も楽器へのアプローチの仕方という意味では、とても似た考え方に基づいているんだと思った。一緒にスタジオに入り、ただ演奏したんだ。メロディを吹き、ジャムし、一緒にリズミックなアイディアを作っていった。とても良かったよ。

コメット・イズ・カミングやサンズ・オブ・ケメットのときの僕は、エネルギーが僕に要求するもの、一定のエネルギーや音量、特定のプレイを示唆するヴァイブレーションに囚われがちだった。でもいまはもっと静かで控えめで、それでいてたくさんのエネルギーが生み出される、より集中したプレイができる。

『Afrikan Culture』リリース時のTidalのインタヴューで、「いつになったらテクニックの蓄積を止めて、音楽を作るという本質的な考え方に向き合いはじめるのか」という発言をしていたのがとても印象に残っています。これは、テクニックというものに対して、必要だが、それに囚われるべきではないという意味合いでしょうか? 

S:この考え方に対してはいろんな意見を聞いたよ。ただ僕個人の練習のしかた、というか、僕の気質のせいもあるんだろうけど、僕はテクニックを超えるには、基本のテクニックが必要だと考える派だ。それをコントロールする必要があるんだ。ここで言うテクニックとは、身体の全パーツの全ての動きをコントロールすることと、自分の心がイメージしていることがつながるということだ。心のなかで想像することと身体ができることを結びつける能力、それが僕の考えるテクニックだ。毎日スケールを演奏すれば、長音(long note)を出せるようになるだろう。小さな動きに気持ちをフォーカスできるようになるからだ。それってとても重要なんだ。つまり “こうしたい” と頭で考えたアイディアと、それを実行することの間に遮るものが何もないということだからさ。それに対して、テクニック面で何か問題があっても、その問題を認識できず、解決できなかったら、“こうしたい” と望むことと達成できることの間に隔たりが生じる。でもその産物として、何か面白いことが生まれるケースもある。だから必ずしも、テクニカルな能力がないからといって、音楽的に、もしくはクリエイティヴに、オルタナティヴな、隠れたものの裏にある道を見つけられないわけじゃない。ただ僕個人としては、自分のコントロール内でそういったオルタナティヴな道を見つけたいと思っている。テクニックの面で、自分が “こうなる” と想像するものに遅れをとると、それがフラストレーションになってしまうんだ、僕は。

そもそも、ジャズを演奏することは、肉体的に負荷のかかることなのでしょうか?

S:ああ、そうなんじゃないかな。そもそも即興的で創造的な音楽という意味でも、ジャズの定義は難しいものだ。クリエイティヴに想像的に、それまで一度も聴いたことがないような、もしくは自分でも演奏したことがないような、想像から生まれた音楽を演奏するために自分自身を掘り下げなければならないのだから、当然肉体的にきついこともある。だって自分の想像力が求めるのが、そういう音楽だったらそうするしかないじゃないか。誰か他のコンポーザーが書いた曲を演奏するんだったら、はじめる前にどれだけ肉体的にきついかを正確に数値化し、心の準備をすることができるがね。たとえば、ステージで演奏中、エネルギーとヴァイブが溢れ、そういう状況が生まれ、想像力のなかでものすごくぶっ飛んだ何かが聴こえたとする。もしかするとそれはその一晩のスピリット、インスピレーションから生まれた何かなのかもしれない。あるフレーズが頭に浮かぶんだが、それは楽器のいちばん下からいちばん上まで一気に飛び越えるようなフレーズで、君はそれを演奏することの大変さに気づくと同時に、どうしてもこれをやらなきゃと思うわけさ。それって肉体的にはかなり負荷がかかる。あえてやらなくてもいいことかもしれない。でも、深いクリエイションに関わることというのは、そういうものだ。なので、この手の音楽(ジャズ)に自分がオープンでいるには、フィジカルとテクニック、そして創造的な能力に対して敏感でいなきゃならないのさ。

フルートや尺八を演奏することによって、ジャズを演奏することの意味合いはあなたの中で変化しましたか? 

S:ああ、大きく変わったよ。僕と “尺八との人生” には段階があるんだけど、いまはあと少しで、伝統的な学びをスタートできるところまで達している。レパートリーを学びはじめられるところまで来てるんじゃないかなと。これまで僕が専念してきたのは、身体と楽器の関わり合いということだ。楽器にどう息を吹き込むか、どう演奏するかに気持ちを集中させてきた。そういった精神的な学びの過程でも、物事は作り出される。さっきも話したアンドレとの関係……楽器を持ってスタジオに入り、ふたりで何時間も長音を吹き、どこに連れて行かれるのかを知ろうとする。するとそこで何かが開くんだ。創造性の火花が散って、世界が広がる。これまで僕がジャズを練習し、演奏するときというのは、それ以前に出会ったフレーズや語彙を “どれだけ思い出せるか” にかかっていた。ところがいまやっているように、尺八のような新しい楽器を練習し、概念化するためのアプローチを探求することは、新たな可能性を開くことになり、ジャズのような馴染みのあるコンテクストに立ち戻ると、可能性という意味でアイディアが活性化される。例を挙げるなら、以前よりもずっと長音を吹くようになったよ。長音を吹くということは、それだけ集中しなければならない。昨日もレコーディング・セッションだったんだけど、強さのなかでも以前よりも冷静でいられ、自分のミスをもコントロールできたんだ。たとえばコメット・イズ・カミングやサンズ・オブ・ケメットのときの僕は、エネルギーが僕に要求するもの、一定のエネルギーや音量、特定のプレイを示唆するヴァイブレーションに囚われがちだった。でもいまはもっと静かで控えめで、それでいてたくさんのエネルギーが生み出される、より集中したプレイができる。ジャズの状況のなかに自分をおいても、高い集中力を保てるようになった。まるで激しさの波が何度押し寄せようとも深くに錨が下ろされていて、僕はそこを軸に進みたい方向が決められる気がするんだ。

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僕にとってのレコーディング・セッションは最初の爆破による爆発のようなもの。そのあとのプロダクション過程で、岩のなかにあるものや美しさを削り取っていくんだ。

『Perceive its Beauty, Acknowledge its Grace』を制作するにあたって、当初思い描いていたヴィジョンがあれば教えてください。

S:ヴィジョンは何もなかったよ。今回に限らず、僕は最終形はこういうものにしたい、というヴィジョンを持たずにレコーディングをはじめ、その時々に起きることにオープンに対応し、次は何しようかと考える。決定を下すプロセスはあくまでもオープンであるべきだし、ヴィジョンは探究の過程で生まれてくるものさ。ひとつの決定が、もしくはターニング・ポイントが次の何かにつながるわけで、そうやっているうちに、そのプロジェクトの方向性や雰囲気が見えてくる。それこそがバンド・リーダーの役割なんじゃないかと思うよ。バンド・リーダーは音楽が向かうべき本来の方向を見極め、その方向に物事が流れるように仕向け、これから取り掛かる音楽について全員がどう考えているかを確認する。流れを円滑にし、強化する。

楽曲はどの程度予め準備されていたのでしょうか?

S:答えるのが難しい質問だな。というのも、メロディは何ヶ月も前から、あくまでも自分のためにたくさん書いていた。どのフルートでどうメロディを演奏しようかと理解したかったからだ。僕自身の音楽的な気質を理解したい。僕はメロディの何が本当は好きなんだろう? と。だからたくさんのメロディをノートに書きとめた。セッションではノートを開いてそのメロディを自分でも、ミュージシャンたちにも使おうと思ってたんだ。でもセッションに必要なのは、雰囲気とプレイへのアプローチなのだと思い直した。そこで雰囲気はどうしたいか、長い話し合いをし、どんなプレイや即興演奏を求めているかという点については意見を言った。セッションでは、長い演奏を続けた。本当に長かった。40分くらいノンストップでプレイし、そのなかであらかじめ僕が考えていたメロディが出てくることもあった。そしてセッションが終わった後で、その部分を取り出した。ヴァン・ゲルダー・スタジオでのレコーディングの後、フルートのためだけのセッションを数日設け、パートを書き直したり、さらにミュージシャンを呼んで演奏してもらい、全体的なアレンジと作曲をおこなったんだ。そんなわけで、最初から情報があったのではなく、あったのは方向性と雰囲気だけ。そこから情報を掘り出すという大変な作業がはじまったんだ。鉱山でダイヤを採掘するのを例に挙げると、まずは採石場を爆破し、大量のダイヤを含んだ岩石を手に入れる。そのなかにはダイヤや貴重な物質が含まれているけど、爆破の直後だから荒い状態なんだ。僕にとってのレコーディング・セッションは最初の爆破による爆発のようなもの。そのあとのプロダクション過程で、岩のなかにあるものや美しさを削り取っていくんだ。何時間も何度も聴き直し、すでに録音したなかの何をどう加えようか、と考える。それはまた別のプロセスなのさ。

ヴァン・ゲルダー・スタジオの名が挙がりましたが、どんなサウンドや雰囲気を求めて、そこを選択したのでしょう?

S:インティメートでエネルギーやヴァイブ感に溢れた雰囲気ということを考えたとき、ジャズにとって最も有名なスタジオのひとつだからね。コルトレーンはじめ、僕のたくさんのヒーローたちにとっていいスタジオだったんなら、僕にとってもいいに違いない。何がすごいのか自分で確かめてみたい、僕が大好きな多くの音楽のサウンドと雰囲気を生み出したスタジオを経験したい、と思ったんだ。実際にスタジオに入り、その素晴らしさがわかった。いままで僕が訪れたなかで最高のスタジオだったよ。周りがそう言ってるからではなく、本当に素晴らしい音響環境なんだ。特にフルートを扱う際には、音がその空間にどうフィットするかというのが重要だ。自然環境であるか、共鳴室かにかかわらず。まさに音響的に優れたサウンドになるべく、ゼロから設計されたスタジオ。ルディ・ヴァン・ゲルダーのこだわりがそこかしこにあった。音が反響する表面が何もなく、すべて木製。全てが曲線で、尖った角がない。そして屋根の高い建物。実際にプレイする側の視点に立った設計さ。僕が全力で演奏にエネルギーを注ぎ込んだら、スタジオがその音を受け取ってくれる気がした。まるでコンサートホールみたいに、僕が出した音が反響することも抑えられることもなく、スタジオにそのまま映し出される。もし静かで繊細な演奏がしたいと思えば、音は広がり、残響を残すことも可能だった。つまりとてもダイナミックな対比を可能にする余白のあるスタジオなんだ。さらに今回は雰囲気が大切だったので、ダイナミック・バランスを敏感に感じ取れるよう、セパレーションもヘッドホンも使わずにレコーディングした。そうすることで全員が “聴く” ことを余儀なくされる。レコーディング・セッションでは自分の周りの動きを調整する能力があれば、その瞬間に自分のやっていることを無視することができる。
 2年前の僕のフルートのテクニックはいまとは違っていた。2年間の練習を経て、腕を上げることができた。スタジオでの僕は、周りの人間に比べれば自分をうまく投影することができなかった。だって他のみんなは自分の楽器に慣れ親しんでいた人たちだ。そこで全員に、楽器のテクニックという意味だけでなく音楽的にも、僕のレベルに寄ってほしいと思ったんだ。とても面白い点なんだよ、これって。もし自分にとって望ましいテクニックがないとき、どうやって意味あるものをクリエイティヴに作り出す解決策を見つけるか。その答えが、全員で深く、インティメートに聴くことだと思えた。それを可能にするには、まるでリハーサルでジャム演奏をしているような空気のなかでやること。実際、そんな最初のリハーサルで最高の音楽は作られることもある。マイクをセットアップする前、コートを脱ぐ前。誰かがピアノで弾いたリフに、楽器を大慌てで手にして一緒に弾いたときに生まれるマジック。マイクのセッティングが終わり、バランスもレベルも決まったときにはマジックは少し失われる。次に、クラブやフェスティヴァルでマイク、もしくはレコーディング卓というテクノロジーに向かって演奏し、そのテクノロジーが今度はモニターというテクノロジーで自分の出した音を返してくる。その段階では自分が作っているものとは全く違うものになってるんだ。でもそれはそれでいいんだよ。ギグをやる、レコーディングをすることは、そういった様々なテクノロジーのつながりの瞬間を理解し、その領域のなかでどう演奏するかを理解することなのさ。でも今回のレコーディングでは、僕自身と音楽とミュージシャンの間の根本的なつながりを、より感じるものにしたかった。フルートを吹く僕とミュージシャンたちとの間のつながりを、テクノロジーが断絶するのはイヤだったんだ。

カルロス・ニーニョは、即興演奏と作曲されたものの演奏の区別をわざと曖昧にするようなアプローチで、ずっと自身の作品を作ってきました。録音に大胆な編集も加えてきました。あなたは即興や作曲に対して、いまどんな考えを持ち、どんなアプローチをしていますか?

S:コメット・イズ・カミングのアルバムを考えてみてくれ。どれも全て、基本は即興演奏だ。スタジオに入り、僕らは即興で4日間くらい演奏した。そのあとは、今回の新作の過程と似ているのだけど、即興的に作曲された瞬間を探し出し、そこから楽曲を作り出す。それはたとえば、不要なものを取り除く作業だったり、様々なシンセサイザーのメロディやドラム・パートを加えたり。でもサックスだけは加えたことはなくて、すでに演奏したのが全てだった。少なくともコメット・イズ・カミングではね。この例を挙げたのは、即興演奏というのが、ときに作曲のアンチテーゼのように見なされることが多いからだ。でも作曲というのは、そこに与えられたアイディアを意識し、それらのアイディアが一貫した音楽システムや表現を作り上げる方法に対して、意図的であるプロセスでしかない。そしてこのアプローチは、希望すれば即興演奏にも取り入れることができる。自分はその場で即興的に作曲しているのだという意識を持って即興演奏をすれば、その作曲は一貫性や、入り組んだニュアンスを持つものになるだろし、繊細でディテールのあるものになる。でももし、自分の知らないことを探しているのだという考えのもとに即興演奏するなら、有機的に形が見つかり、一貫性は二の次になる。どちらが良くて、どちらが悪いという話ではない。ただ即興に対するアプローチの差、というだけさ。僕の場合、スタジオでは大概、即興演奏。でも曲を書くときは作曲的であることを意識する。それは曲が書けた後で、別レベルの作曲がおこなわれることをわかっているから。さっきも言ったように、即興演奏のなかから特定の瞬間を取り出して、レンガのように組み立てて、他の作曲を作り出す。すべてはアプローチの仕方ってことだと思う。コンポーザーによっては書き留めてある複数のアイディアをもとに即興演奏する人もいる。そのアイディアをどこから得るのかといえば、頭に浮かんだインスピレーションだろう。一方で、システムの枠内で曲を書くコンポーザーは、ピアノの前に座って曲を書くかもしれない。その場合はシステミックなハーモニーの置き方をし、そこから音楽の素材を得るのかもしれない。でも僕が知る、そしてリスペクトするコンポーザーの多くは、インスピレーションで曲を書くタイプだ。楽器の前に座り、インスピレーションを音楽情報にかえ、ピアノで演奏し、紙の上に書き出す。作曲の次なる段階は、思いついた音楽的素材を整頓してアレンジすること。多くの場合、僕がやってるのもそういうことだ。当初の曲を書いたときの要素を、スタジオでテープが回っている間、他のミュージシャンたちと形にする。それが終わったら作曲/プロダクションへと移るのさ。

僕にとっていちばん重要なのは、音楽がスタートからフィニッシュまで、どういう弧を描いて流れていくかだ。そこからどんな感情の旅路をたどるのか。

このアルバムはリスニングのさらなる可能性を提示した作品だと感じましたが、音楽にせよ、自然音や環境音にせよ、音を聴くということに関して、あなたのなかで以前と変化したことはありますか?

S:ああ。弧(arc)に注意を払うようになったことかな。それはこのアルバムでとても重要だったことであり、理解するのにいちばん時間がかかった部分だ。音楽自体、その構造を考えると複雑なものなわけだけど、僕にとっていちばん重要なのは、音楽がスタートからフィニッシュまで、どういう弧を描いて流れていくかだ。そこからどんな感情の旅路をたどるのか。1曲の終わりが次の曲のはじまりに流れていく様子とか、そこからどういう感情を僕が感じるか……そんなふうにしてアルバムを聴きはじめたんだ。違った曲の寄せ集めではなく、1曲がたどる旅が、次の曲のはじまりへどう呼応するか。アルバムはトータルで完全な作品になるということ。旅路、という言い方がいちばん正しいね。ひとつの作品としてのアルバム。いわゆるジャズと呼ばれる音楽では、1曲のなかでひとりのソロ奏者が他の奏者とインタラクトし、すごい旅をすることはある。もしくは1曲に4人のソロ奏者がいて、それぞれのソロの即興が次をどう導くかが、旅の重要な点だったりする。1曲における旅路のことばかりで、アルバムとしての旅路は無視されるか、あまり多く語られない。今回のアルバムにトラディショナルなジャズというコンテクストでの即興があまりないのは、ソロの瞬間の旅路ではなく、1曲から1曲への旅路が重要な要素だったからだ。

今回、多彩なゲストが参加していますが、どういった基準で選んだのですか?

S:答えはじつにシンプルで、全員がここ数年間のツアーの間に僕が会ったことがあり、話したことがある人たちだ。連絡を取り続け、何か一緒にやりたいねと話をしていた。なので、僕から連絡をして参加してくれないかとお願いした。全員、これまでになんらかの関係があった人たちだよ。一緒にやったらどうなるだろうか? と。そして嬉しいことに全員が “イエス” と言ってくれた。多くの場合、直感だよ。最初のレコーディングの後で加えたゲストは、音楽を聴き返し、すでにできたものをより強調する上で、誰が適任だろう? と考えて決めた。最初の(ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオでの)レコーディング・セッションでのミュージシャンは、ここ数年に連絡を取り合ってたなかで僕が一緒に何かを作りたいと感じた、お気に入りのミュージシャンたちだ。スタジオに入ったとき、特にこうしようという決まった考えがあったわけではなく、どう演奏したいか、どう相互にプレイし合いたいか、ということだけだったので、やっていて楽だった。結果にがっかりさせられることは何ひとつなかったよ。最終的な目的地は誰にもわかってなかったわけだから、何をやってもそれで正しかったんだ。

今作は〈Impulse!〉からリリースされます。〈Impulse!〉というレーベルと、そこからリリースされた作品について、あなたはどのような印象を持ってきましたか? 

S:独創性に富んだレーベルだという印象だな。そしてアーティストのコミュニティを抱えていたレーベル。〈Impulse!〉と聞くと、特定のサウンドと音楽へのアプローチと時代を思い浮かべる。その時代は一定期間に止まることなく、その後も現代に合うように形を変えて続いた。最初はまずどうしたってコルトレーン、ファラオ・サンダースアリス・コルトレーンといった時代を思い浮かべるが、興味深いことにそこで終わることなく、その後も素晴らしいアルバムを作り続けた。たとえばガト・バルビエリ……そして70年代、80年代と続いていった。そんなクリエイティヴ・ミュージックのレガシーの一部になれることをとても嬉しく思うよ。

特に影響を受けた作品があれば教えてください。

S:チャーリー・ヘイデンの『Liberation Music Orchestra』にはとても影響を受けたよ。あれはアルバム全体を通して、素晴らしい作曲的フォームと弧を持つアルバムのいい例だよ。当然ながら(コルトレーンの)『A Love Supreme』も。クリシェだと言われるかもしれないが、クリシェにはそれだけの理由があるのさ。音楽史のなかでも、本当に素晴らしいアルバムだと思う。あまりにたくさんありすぎて、何枚か挙げると他のアルバムが嫉妬するんじゃないかと思うんだけど。オリヴァー・ネルソンの『Truth』(『The Blues And The Abstract Truth』)もじつに独創性に富んだアルバムだ。チャールズ・ミンガスのアルバムもあるね。

最後に今後のライヴの予定はありますか?

S:ああ、いまもライヴ・ツアー中だよ。何本かギグをやった。5月にはヨーロッパ・ツアーをおこなう。今回のアルバムはバンドでのアルバムじゃないので、決まったミュージシャンがいつもいるわけではないんだ。いまの僕は必ずしも決まったミュージシャンを必要としていない。もちろんアルバムからの皆が知っている曲をライヴでもやりたいんだが、固定のグループでそれをやるのではなく、クリエイティヴな表現としておこないたい。とはいえ、ヨーロッパ・ツアーではハープ2台、シンセサイザー、ピアノ、そして僕がフルートというグループが決まっている。一方でアメリカでやってきたのは、ベース2本、エレクトロニクス、ドラム、ハープというラインナップ。今度やるNYではハープ、エレクトロニクス、フルート、ドラムになるし、他の都市ではトランペット(アンブローズ・アキンムシーレ)、フルート、ドラムになる……というように変動的なんだ。ハープをフィーチャーするものが中心だが、ハープなしということもある。基本的には、アルバムにもたらされたのと同じ雰囲気を一緒に探ってくれるミュージシャンということだよ。


interview with Larry Heard - ele-king

 1980年代なかばの、黎明期のシカゴ・ハウスにおいて、ラリー・ハードはディスコの変異体であるこの音楽を地球外の幻想的な境地へと導いた。その当時、ラリー・レヴァンの〈パラダイス・ガラージ〉やデイヴィッド・マンキューソの〈ザ・ロフト〉でもプレイされた“Mystery of Love”というその曲は、いま聴いてもなお、ミステリアスな妖しさをまったく失っていない。時代を超越した曲のひとつだ。遅めのピッチと不安定なシンセサイザー音のなか、ブライアン・イーノにいわく「官能的で流動的なブラック・ミュージック」の本質を内包し、ジョン・サヴェージにいわく「ジョー・ミークが60年代初頭に目指した不気味なサウンド」にも近接している。リヴァーブのかかったロバート・オウェンス(のちのFingers Inc. のメンバー)の声は奇妙でありセクシャルで、ドラムマシン、意表を突いたクラップの残響にピアノ、すべてが異次元で乱舞し、こだましている。これほどハウス・ミュージックが持っている音楽的な可能性が凝縮されたトラックは、当時はほかになかった(まあ、アシッド・ハウスのことはひとまず置いておこう)。同じことが“Can You Feel It”にも言える。キング牧師の演説ともミックスされることになる、ディープ・ハウスを定義したあの曲のアンビエントなフィーリングとミニマリズム、そしてモノ悲しいメロディがデトロイト・テクノ(とくにデリック・メイとカール・クレイグ)に与えた影響はあまりにも大きい。
 ハードは、それから40年近くの時間を経て、15枚のソロ・アルバムと50枚以上のシングル盤を出している。アンビエント、ダウンテンポなジャズ、R&B、アシッド・ハウスからテクノ……。高校時代はジャズ・フュージョンのバンドのドラマーとして奇数拍子を叩くのが好きだったハードは、卒業後、市の社会保障局での夜間勤務をはじめたため、当時街を席巻したハウス・ミュージックをクラブではなくラジオで知った。彼は最初、ドラムマシンを買い、しばらくしてからローランドのJupiter 6を買った。そしてカセットレコーダーで録音したのが、“Mystery of Love”(そして “Washing Machine” )だった。1985年、自身のレーベル〈Alleviated Records〉を設立し、ハードはその曲の12インチ・シングルを自分で売った。
 クラブ・ミュージックの歴史では、素人が偶発的に作ったモノが大受けし、ものすごい影響力を持ってしまうことがある。ラリー・ハードにそれはない。すべての曲は彼が意図をもって創造したものだった。『Another Side』(1988)と『Ammnesia』(1989)という決定的なアルバムのあと、メジャーからの2枚のアルバム『Introduction』(1992)と『Back To Love』(1994)ではR&Bからニュー・ジャック・スウィングまで披露したハードだが、彼はメジャーで稼ぐことよりも自分の音楽道を優先することにした。ゆえにハードは、数年のあいだは、仕事をしながら音楽制作をするというライフスタイルを選んでいる。彼にとって重要なのは、その音楽が自分にとって純粋であるということなのだ。それはいまでも一貫している(1994年から2005年にかけて、ハードは自身の名義で9枚のアルバムを出しているが、それはメジャーに「Mr.Fingers」という名義を買われてしまったからだった)。
 だが、2018年、20年ぶりにミスター・フィンガーズ名義のアルバム『Cerebral Hemispheres』を〈Alleviated Records〉からリリースし、昨年と一昨年には『Around the Sun』を連続でリリースして、世界のいろんなところにいる彼のファンを喜ばせた。ここにきて精力的な展開を見せているハウス・ミュージックから登場した眩い巨星の、以下、来日直前インタヴュー。どうぞ。

シカゴはときどき恋しくなります。 何年も住んでいたから、シカゴの人びとや物事、そして全体的な雰囲気が恋しい。 しかし、私は別のところへと進化してきた。

まだメンフィスに住んでいますか?

LH:はい、いまもメンフィスに住んでいます。引っ越しというのは、住む場所を変えるという大きな仕事だ。だから、いつも遊び半分でやっているわけじゃない。だから、メンフィスに定住して楽しんでいます。

シカゴが恋しいですか?

LH:そうですね、シカゴはときどき恋しくなります。 何年も住んでいたから、シカゴの人びとや物事、そして全体的な雰囲気が恋しい。 しかし、私は別のところへと進化してきた。そのほうが自分にとって平和だし、自分の考えを聞いたり、自分のアートに集中するために必要な静けさが得られるんです。

2022年〜2023年、2年連続で『Around the Sun』をリリースしました。この2作には、ハウス、ソウル、ジャズ、フュージョンなど多彩な音楽性があり、あなたの集大成的な作品のように感じました。

LH:ああ、これらのレコーディングはすべてロックダウン中に完成しました。そしてそれはいつも......作品の集大成なのかどうかわからないけど......以前は別々に使っていたプロジェクト名が、いまはひとつの場所に集まったような感じなんです。
 そう、だから、そういうことなんです。 ジャズもあれば、クラシックもあるし、トライバルな要素もある。いろんなところに行ける。 音楽は冒険です。

家ではどんな音楽を聴いていますか?

LH:なにか特定の音楽というよりは、ほとんどすべてのスタイルの音楽を聴いています。自分のリスニングを自分で記録はしてないので、それが何かは……、そんなことを考えること自体が私には不自然なんです。私は本当に、いま自分が楽しんでいることを楽しんでいるだけです。その瞬間にいるのであって、そのことを記録したりはしていません。でも、じつはメンフィスでラジオ番組をやっているんです。誰でもそれを知ることができるように、あらゆる種類の音楽をブラウズしています。WYXR.org、 そこに私の番組がアーカイヴされています。ここにはプレゼンターという仕事をしているときの私の仕事があります。自分のためだけでなく、つねに人びとのために音楽をかけています。

あなたは、ここ数年は、聴力器官の関係でDJとしての活動はあまりしていないのでしょうか?

LH:ツアーはいくつかやりました。 2017年からロックダウンがはじまるまでのあいだは、ライヴ・ツアーをしました。自分の聴覚は、いまでも守る必要があるんですけど。できるだけ気をつけようと思っています。

日本のツアーに関してコメントをいただけますか?

LH:日本に戻れてうれしいです。そして、私が来ることを喜んでくれていることもうれしく思います。

誰かに何かを感じろと言うつもりはありません。「それ」とは、人それぞれです。 何を感じるかを人に指図するのは、ある意味支配的です。

「Can you feel it?」は、ハウス・ミュージックの本質を言い表しているような言葉ですよね。今回の日本ツアーを通じて、もちろん音楽を楽しんでもらうことが前提ですが、リスナーに何を感じてもらいたいと思いますか?

LH:誰かに何かを感じろと言うつもりはありません。「それ」とは、人それぞれです。 何を感じるかを人に指図するのは、ある意味支配的です。 そう、ひとびとには自由が必要です。参加することで、その人が個人として何を感じるかを感じることができます。すべての人が同じ人間ではありません。だからひとりひとりが違う何かを感じることになります。私はつねに最高の音楽をプレイしようと心がけています。 可能な限り最高のものをです。 そして、オーディエンスが何に反応するかに注意を払います。そして、必要に応じて調整します。

あなたは数年前に、ようやく自分の曲の権利をTRAXから得ることができましたが、あなた自身の過去の作品のアーカイヴ作業は進んでいるのでしょうか?  コンピレーションを出す予定はありますか?

LH:ええ、そうです。 何百曲も何千曲も作ってきましたが、私の音楽カタログの大部分は〈TRAX〉とは関係ありません。3、4曲はあるかもしれません。とんでもないことになっていましたが……。とにかく、過去の曲を使っていろいろなことができるようになるにつれて、私は、自分の作品のカタログの大きな部分に焦点を当てなければならないでしょう。ただ、いまはまだその予定はありません。

あなたのシカゴ時代、80年代に作った作品で、いまでもとくに思い入れがあるのはどの作品でしょうか?

LH:“Mystery of Love”は初期の曲だけど、いまも特別な曲です。あの曲にはロバート(オウェンス)も参加しています。いま、私たちは一緒に交流し、創造しはじめています。だから特別なんです。 この曲のヴォーカル・パートは私にとっては画期的な出来事でした。なんとかうまくいったし、素晴らしいことでした。ただ、どの曲にも特別な思い入れがあります。プレハブのサンプルをただ寄せ集めたようなものではありません。長い年月と進化を経ていま振り返れば、前時代的な方法で作られたものです。それでも私から生まれたものであって、私の小さな小さな手で演奏されたものなんです。

“Mystery of Love”がカニエ・ウェストにサンプリングされたことで、あなたのリスナーは増えたと思いますか?

LH:そうは思いません。 ビッグネームが来て、突然自分の大ファンになったからといって、感動することはないでしょう。 名前が重要ではありません。その名前と一緒に去っていくことが問題です。誰かの宣伝に頼りたいとは思いません。 トレンドや誰かの影響などではなく、私が出会いたいのは、自分の音楽に真摯に向き合ってくれる人たちです。

シカゴの若い世代が生んだ、フットワークのような音楽は聴かれますか?

LH:フットワークが何なのか正確には知らないのです。だから、それについて何か言うには、実際に見たり聞いたりする必要があります。それに、ジャンル用語というものは、世代から世代へと移り変わるものです。私は引退した人間ではないし、音楽を聴く以外は何もせずに座っているわけでもありません。 音楽以外のことをする生活もあります。家事や育児も自分でしています。だから、あらゆるスタイルやムーヴメントを研究する時間がないのです。

私はそして、その状況に美を吹き込み、穏やかさのなかにセラピー効果のある音楽を吹き込もうとしています。 躁鬱で怖くて抑圧的とか、そういうものではありません。つねに問題があるからこそ、私は安らぎを注入しています。世界は完璧ではないし、これからも完璧にはならないでしょう。

あなたが若かった80年代、90年代のアメリカに比べて、現代のアメリカ社会は良くなっていると思いますか?

LH:政治的な質問ですね。 私はミュージシャンです。ミュージシャンとして、いま起こっていることにポジティヴな何かを吹き込もうとしています。私がいる場所、他のみんながいる場所のために。みんなここにいるんです。だから、何が良いのか、何が悪いのか、すべてを議論しています。悪いと思うのなら、良くするために何かしているのでしょうか?  悪くするようなことをしているのでしょうか? ポジティヴなことをしているのなら、それ自体が良くしようとしていることになります。アメリカが良くなろうが悪くなろうが、私にはどうすることもできません。 私はひとりの人間に過ぎない。ここには何億人もの人びとがいます。他の人たちが何をしようと、私にはどうすることもできない。私がコントロールできるのは、私がすることだけです。私はそして、その状況に美を吹き込み、穏やかさのなかにセラピー効果のある音楽を吹き込もうとしています。 躁鬱で怖くて抑圧的とか、そういうものではありません。つねに問題があるからこそ、私は安らぎを注入しています。世界は完璧ではないし、これからも完璧にはならないでしょう。しかし、音楽や芸術のような、ちょっとした楽しみや癒しみたいなものがあるんです。。

いま、あなたが音楽を制作するうえでのインスピレーションはどこから来るのでしょうか?

LH:哲学的な質問のひとつですね。 実際に音楽家になっている人たちが、インスピレーションがどこから来るのかを考えているのか、あるいは、別のシナリオとして、インスピレーションを受けるたびに、横道にそれてドキュメントを書き始めるということもないでしょう。音楽をやりながら自分の伝記作家にもなるという、これらふたつのことは同時にできません。私は、作曲、クラフト、エンジニアリング、そして最近必要とされている他のすべてのことに100パーセント集中したいと思っています。新しい音楽テクノロジーやその他もろもろに。 そんなことをしていると、 宇宙のなかで物思いにふける時間もないのです。私はスタジオにいなければならないんです。

最後に、日本のファンにメッセージをください。

LH:愛しています。 私のことを気にかけてくれてありがとう。 また日本に来て音楽を分かち合えることを楽しみにしています。そして、特別な経験をしましょう。まだ経験したことがない、その経験が何であるかは言えない経験を。いいものになると期待しています。

【Larry Heard aka Mr.Fingers Japan Tour 2024】

4.26(Fri) 名古屋 @Club Mago
music by
Larry Heard aka Mr.Fingers
ayapam D.J. (WIDE LOOP)
Longnan (NOODLE)
2nd room DJ:
xxKOOGxx (Raw Styelz, VINYL)
HIROMI. T PLAYS IT COOL.
food: ボヘミ庵
Open 22:00
Advance 3,000yen(https://club-mago.zaiko.io/item/363289
Door 4,000yen
Info: Club Mago http://club-mago.co.jp
名古屋市中区新栄2-1-9 雲竜フレックスビル西館B2F TEL 052-243-1818

4.27(Sat) 東京 @VENT
=ROOM1=
Larry Heard aka Mr.Fingers
CYK
=ROOM2=
SHOTAROMAEDA
SATOSHI MATSUI
Pixie
Hikaru Abe

Open 23:00
DOOR: 5,000yen
ADVANCE TICKET: 4,500yen (優先入場)
(https://t.livepocket.jp/e/vent_20240427)
SNS DISCOUNT: 4,000yen
Info: VENT http://vent-tokyo.net
東京都港区南青山3-18-19 フェスタ表参道ビルB1 TEL 03-6804-6652

4.28(Sun) 江ノ島 @OPPA-LA
- the ORIGINAL CHICAGO -
DJ: Larry Heard aka Mr.Fingers, DJ IZU
artwork SO-UP (phewwhoo)
supported Flor de Cana
Open 16:00 - 22:00
"Limited 134people" Mail Reservation  *SOULD OUT*
5,000yen / U-23 : 3000yen (http://oppa-la.net)
Door
6,000yen / U-23: 4,000yen
Info: OPPA-LA http://oppa-la.net
神奈川県藤沢市片瀬海岸1-12-17 江ノ島ビュータワー4F TEL 0466-54-5625

5.2 (Thu) 大阪 @Club Joule
DJ: Larry Heard aka Mr.Fingers, DJ Ageishi, YAMA, Chanaz (PAL.Sounds)
PA: Kabamix
Coffee: edenico
Open 22:00
Door 5,000yen
Advance 4,000yen (e+ 3/22~販売
https://eplus.jp/sf/detail/4073520001-P0030001)
U-23 3,000yen
Info: Club Joule www.club-joule.com
大阪市中央区西心斎橋2-11-7 南炭屋町ビル2F TEL 06-6214-1223

Larry Heard a.k.a Mr.Fingers (Alleviated Records & Music)

ゴッドファーザー・オブ・ディープハウス、シカゴハウスのオリジネーター、Mr.FingersことLarry Heardはシカゴのサウスサイドで生まれ、両親のジャズやゴスペルのレコードコレクションから音楽に興味を示すようになる。ローカルバンドでドラムを演奏していたが、シンセサイザーに魅かれ、1984年からシンセサイザーとドラムマシンでの音楽制作を開始する。1985年、Mr.Fingersとして”Mystery Of Love” でレコードデビュー。シカゴではハウスミュージックが全盛期を迎える中、1986年にリリースされたMr.Fingers ”Can You Feel It”は説明不要のハウスミュージック名曲として知られる。
1988年にリリースされたMr.Fingersファーストアルバム『Amnesia』や、Fingers Inc.(Larry Heard、Robert Owens、Ron Wilson) アルバム『Another Side』ではハウスミュージックの創造性を追求し、シカゴハウス最高峰アルバムとして評価されている。1992年、ディープハウスを背景にR&Bやジャズ、コンテンポラリーな要素を取り込んだ、Mr.Fingers アルバム『Introduction』でMCAよりメジャーデビュー。
1994年、Black Market Internationalよりリリースされた、Larry Heard名義としてのファーストアルバム『Sceneries Not Songs, Volume One』では、フュージョンやニューエイジをLarry流に昇華し、チルアウトやダウンテンポに傾倒した作風によってアンビエントハウスという言葉を産んだ。
作品はその後もコンスタントにリリースされながらもLarryは突如シーンからの引退を宣言し、コンピュータープログラミングの仕事に専念するためにメンフィスに移る。
Track Mode主宰のBrett Dancerを筆頭に、アトランタのKai AlceやデトロイトのTheo Parrishらの功労によって、アンダーグラウンドなネットワークを通じてLarryは再度シーンと接触し、2001年にLarry Heard名義のアルバム『Love's Arrival』のリリースを伴いカムバックする。
現在もメンフィスを拠点に活動し、Mr.Fingers名義での最新アルバム『Around The Sun Pt.1』(2022年)、『Around The Sun Pt.2』(2023年)を自身主宰のレーベルAlleviated Records&Musicからリリース。
彼の過去の作品が数多く再発されている近今、13年振りの来日となる。

http://alleviatedrecords.com

Free Soul - ele-king

 橋本徹手がけるコンピ・シリーズ「Free Soul」がスタートしたのは1994年。つまり今年で30周年を迎える。このアニヴァーサリーを祝し、VINYL GOES AROUNDからTシャツの登場だ。なんとヴァリエーションは30! しかも昨年発売されたときとは異なる30色だという。さらにトートバッグも3ヴァージョンが展開。完全受注生産とのことで、早めにチェックしておいたほうがよさそうだ。

今年もやります。Free Soul Tシャツが昨年とは違うカラーバリエーションで30色展開。加えてレコード収納できるトートバッグも3色で販売!

1994年に始まったコンピレーション・シリーズの“Free Soul”30周年を記念して、VINYL GOES AROUNDでは、昨年に引き続き“Free Soul”のロゴをプリントしたTシャツを販売いたします。昨年同様30種類のカラーバリエーションですが、昨年の色の組み合わせとは全く異なるバリエーションでお届けいたします。またレコードの収納が可能な“Free Soul”オリジナル・トートバッグも3色で展開いたします。

完全受注生産になりますのでお早めにどうぞ。

※1万円以上のお買い上げで日本国内は送料が無料になります。
※商品の発送は 2024年6月上旬ごろを予定しています。

https://vga.p-vine.jp/exclusive/vga-1041/

VGA-1041
Free Soul Official T-Shirts

Military Green / Mint Green / Light Blue / Lime / Safety Green / Dark Chocolate / Charcoal / Natural / Cardinal Red / Gold / Cornsilk / Sapphire / Stone Blue / White / Black / Navy / Ash / Indigo Blue / Purple / Pistachio / Red / Royal / Olive / Orange / Sand / Sky / Sport Gray / Irish Green / Prairie Dust / Maroon

S/M/L/XL/2XL
¥3,000 (With Tax ¥3,300)

VGA-1042
Free Soul Official Tote Bag

Natural / Blue / Pink

H40cm × W33cm × D15cm (Handle 58cm)
¥3,000 (With Tax ¥3,300)

※Tシャツのボディはギルダン 2000 6.0オンス ウルトラコットン Tシャツになります。
※期間限定受注生産(~2024年5月12日まで)
※限定品につき無くなり次第終了となりますのでご了承ください。

The Jesus And Mary Chain - ele-king

 ジーザス・アンド・メリー・チェインのデビュー・シングル「Upside Down」を聴いたことはありますか?

 このシングルのAサイド曲 “Upside Down” について書かれた文章は(その衝撃度の高さもあって)古今東西たくさんあるわけだけれど、個人的にいいなと思うのはサード・アルバム『オートマティック』に掲載されたライナーノーツの中で音楽評論家の大鷹俊一氏が書かれた「まるで小さな密室に閉じ込められ、あらゆる方向からフィードバックというノイズのオーケストラがいっせいに音を鳴らしはじめたような(曲)」という一文である。これを読むと、80年代のパンク/オルタナティヴなクラブ・イベントで、踊り疲れた若者たちがバーカウンター付近にへたり込んだりおしゃべりに興じたりして空になった深夜のダンスフロアにこの曲のドラムのイントロが流れ出した瞬間、簡素な作りの7インチ・シングルから放たれるギター・フィードバックの奔流にあわせて歓声をあげながらそこに居合わせた全員が踊り出す光景を思い出す。簡素だけど暴力的なビートに導かれ、7本(と言われている)のギターを駆使して生み出されたフィードバック・ノイズが鳴りはじめ……いや違う。ここではノイズが鳴るのではなく「歌いはじめる」光景を僕らは見たのだった。そのノイズは、いまの時代にノイズとしてしばしば遭遇する「耳障りの良い豊かでハイレゾリューションでコントロールされたノイズ」ではない。薄くて高域寄りで不明瞭な残響音を伴ったフリーキーなノイズである。その耳障りなノイズが武器になると知ったバンドの創設者であるリード兄弟は、初期ビーチ・ボーイズフィル・スペクター(彼がプロデュースしたガールズ・グループ、ロネッツは兄弟のお気に入りで、そのヒット曲 “Be My Baby” のリズムはメリー・チェインの初期ヒット曲 “Just Like Honey” で使われた)、シャングリラスやボブ・ディラン、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドといった60年代のクラシック・ポップのメロディやフックのエッセンスをそのノイズの隙間に効果的に配置することによって、文字どおりノイズを「歌わせた」のだ。これが単純だがとんでもなく有効な発見だったということは、その後この手法を取り入れるバンドが雨後の筍のようにたくさん現れたことからも明らかである。そういやずばりUKの黒人バンドで「黒いジーザス・アンド・メリー・チェイン」と呼ばれたグループもあった。シューゲイザーもノイズ・ポップもほとんどすべてメリー・チェインの子どもたちである。
 すべてのはじまりとなったシングル「Upside Down」がリリースされたのは1984年11月のこと。気がつけばあの衝撃からもう40年が経ったのだ。

 彼らがその衝撃のデビュー・シングルの翌年に〈ワーナー〉傘下の〈ブランコ・イ・ネグロ〉からリリースしたファースト・アルバム『Psycho Candy』は、“Upside Down” は収録されていないものの、アルバムからのファースト・シングルとなった “Never Understand” をはじめ、ほぼ全曲フィードバック・ノイズまみれで “Upside Down” と地続きの内容だった。僕はアルバムの日本盤LPの帯に書かれたキャッチコピー「ラジオは一度だけ鳴った。一度だけ。でも翌週のすべてのチャートは1位だった」にめちゃくちゃ感動したことをいまでもよく覚えている。「一度だけ」を繰り返すところがまた痺れるんだけど、いっぽうでこのころ、彼らが40年後にも活動を続けていると予想したひとは(僕も含めて)正直いなかったと思う。“Upside Down” のインパクトはすごかったけれど、アイデア一発という感覚も捨てきれず、これは長続きしないんじゃ……という思いも確かにあった。ファーストの翌年に出たセカンド『Darklands』からはトレードマークとも言えたフィードバック・ノイズが綺麗になくなっていたこともその心配に拍車をかけたとも言える。だがしかし、ノイズが取り払われた『Darklands』は、リード兄弟のソングライティング力を知らしめることにもなった。彼らが登場して数年後に勃興したいわゆる「マッドチェスター」時代において彼らは早くも時代遅れになる危険性を孕んでいたかに見えたものの、みごとにそれを乗り切ったのはその力によるものだろう。
 もっとも、バンド初期からしばしば周囲を悩ませた兄弟間の不仲がピークに達した20世紀末、通算6作目のアルバム『Munki』を〈クリエイション〉(アメリカは〈サブ・ポップ〉)からリリースするもののバンドは兄弟喧嘩により分裂。ふたりはそれぞれのプロジェクトでしばらく活動することとなったわけだけれど、2007年に復活。そこからツアーを重ねて復活から10年たった2017年、7作目となるアルバム『Damage and Joy』で外部プロデューサーとしてユース(元キリング・ジョーク、ジ・オーブ)を迎えたことは、それまでほぼすべての作品を自己プロデュースしてきたメリー・チェインとしては新境地でもあった。アルバムにはイザベル・キャンベル(元ベル・アンド・セバスチャン)、スカイ・フェレイラといった若手ゲストも参加して話題となったが、アルバムの出来は決して悪くないとはいえ、再結成からリリースまでのタイムラグにもかかわらず、アルバムに収録されたのは一時的解散期にソロやプロジェクトでリリースされた曲の再録音が半分を占めており、完全な復活作というにはやや無理があったともいえる。そう、彼らの完全な復活作は、それから7年という歳月をかけた8作目『Glasgow Eyes』だ。
 前作のユースのような外部プロデューサーは迎えず、ウィリアムとジムのリード兄弟によるセルフ・プロデュースであることはこれまでのほとんどの彼らの作品と同様だが、またゲストも前作のようなビッグネームは起用されていない(兄弟の身内やレジロスのフェイ・ファイフが参加している程度)。録音に使われたのはモグワイのスタジオ「キャッスル・オブ・ドゥーム」で、これは彼らの故郷グラスゴーにある。そしてアルバム・タイトルにもグラスゴーの語が使われていることもあわせ、アルバムは不思議なノスタルジー感をも持ち合わせているように感じられるが、しかしそれだけではない。アルバム先行シングル “jamcod” が、スーサイド的な抑制されたエレクトロ・ビートではじまることに驚いた耳は、アルバムのオープニング曲 “Venal Joy” のアップビートにさらに驚かされることになる。すでにあちこちで語られているように、最新型JAMCはエレクトロニカの要素をこれまでよりも多めに取り込んでいる(とはいえ、ギターがないわけではないのは当然だ)。クラフトワークみたいな “Discotheque”、ファズ・ギターによるドローン・ナンバー “Pure Poor”、ジョークっぽさを持つ “The Eagles and the Beatles”。薬物に対する告白をドローンに乗せて歌う “Chemical Animal”、ノスタルジックな “Second of June”、ラストはヴェルヴェッツとスーサイドを掛け合わせ、自らの名前をもじった “Hey Lou Reid” でゆったりとフェイドしていく。どの曲もふたりのソングライティング力の健在を十分に示しているし、また彼らが過去と未来を同量に見ていることも見て取れる。

 1998年に破滅的な喧嘩をして一度は袂を分かったウィリアムとジムは、相変わらず完全に仲良くなったとは言えないようだが、JAMCという魔法を維持するためにお互いを律するというルールを暗黙のうちに身につけたらしい。アメリカに住むウィリアムと、イギリス南西部に居を構えるジムが、改めていまはほとんど帰ることも少ないというふたりの故郷をタイトルに据えたアルバムを作ったことは、JAMCの新たなはじまりを意味するものだと思いたい。さて、次は何年後?

Beyoncé - ele-king

 ちょうど1年ぐらい前に公開された映画『レッド・ロケット』は落ちぶれたポルノ男優がテキサスに戻り、別居していた妻の家に転がり込むところから話は始まる。サイモン・レックス演じるマイキー・セイバーは虚勢だけで生きている男で、けして弱みは見せず、マリファナを売りさばく仕事にありつくとまたたく間に勢いを取り戻していく。そして、ドーナツ・ショップで働くストロベリーちゃんをロサンゼルスで売り出せば業界でもう一花咲かせられるという野心を抱くようになり、計画を実行に移そうとする……。マイキーはエネルギッシュで猥雑、デリカシーのかけらもなく、とてもパワフルな男として描かれる。この作品が何を表現しているかは明確で、作品の冒頭、マイキーが故郷に足を踏み入れると、そこにはくたびれた看板が置いてあり、彼の背中を見送るようにして「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」の文字が大写しになる。そう、マイキー・セイバーとはトランプ支持者のことであり、『レッド・ロケット」が提示するのは「アメリカをもう一度偉大にする」とは具体的にどんな人がどんな動機で何をするのかという一例なのである。タイトルに使われた「レッド・ロケット」とは犬のペニスが勃起している状態を指すスラングで、監督のショーン・ベイカーがその前に撮った『フロリダ・プロジェクト』と同じくラスト・シーンはマイキーの願望が凝縮されたファンタジー・ショットで締めくくられる(前作では泣かされたけれど、今回の幻想は大笑い)。

 敗者としてテキサスに戻ってきたマイキー・セイバーがトランプ支持者の心情を映し出しているとしたら、テキサス出身のビヨンセがアメリカ3部作のパート2にあたる『Cowboy Carter』でテキサスやアメリカ南部を再び視野に入れる時、それは民主党支持を表明する勝ち組の視点から見えているものがここには潜んでいると疑うべきだろう。ビヨンセがパンデミックを機に制作を始めた「アメリカ3部作」のパート1にあたる『Renaissance』が都会の風景だったとしたら、自身の本名とリベラルを代表するジミー・カーターの名を掛け合わせたらしきタイトルの『Cowboy Carter』が描き出すのはカントリー・サイドの眺めであり、幼少期の記憶を更新しながら、それこそデヴェロッパーのような改造が南部の音楽に施されたものとなっている。カントリーやブルースやロックンロール、あるいはブルーグラスやザディコやニューオリンズ・ファンクがトラップやコンテンポラリーと接続され、モダンにつくり変えられた南部の心象風景として展開されている。ビヨンセ自身はそれらをクロスオーヴァーとは捉えていず、白人の音楽だと考えられているカントリー・ミュージックなどにブラック・ルーツを見出す作業だったと発言している。いわば「見落とされてきた歴史」を顕在化させる試みということだけれど、どうだろう? 実際、リンダ・マーテルを始め、カントリーと深く関わってきた黒人ミュージシャンが多数起用され、歴史の教科書を正確に書き直す性格を持たされていることは確かだけれど、ビヨンセの検証は音楽史を隅から調べ上げたように厳密なものではないし、僕にはむしろビヨンセが幼少期に聞いていたカントリーやサザン・ソウルの影響でアルバム全体に70年代のトーンを帯びていることが興味深かった。オープニングからしてザ・フーみたいだし、全体に幼少期のビヨンセがラジオを聴いているという設定らしく、ノイズの合間からチャック・ベリーが流れ、配信オンリーの “Ya Ya” ではナンシー・シナトラやビーチ・ボーイズがサンプリングされている。あるいはデラニー&ボニーやデレク&ドミノスといった70年代のサザン・ロックがダブって聞こえる曲も少なからずで、70年代に白人のロック・ミュージシャンがブラック・ミュージックに入れ込んでいた時と裏返しの心情が投影されているような気がしてくる。オリジナルの “Protector” だけでなく、 “Jolene” のようなカントリーの代表作をビヨンセがカヴァーしているというと、ふざけているとか、共和党=カントリーという図式にビヨンセが殴り込みをかけているような印象を持ちがちだけれど、70年代にエリック・クラプトンなどがやっていたことが搾取というよりは憧れに基づく行為だったように、いずれの作業も単純に音楽で人種という壁を乗り越えていたと感じられる要素の方が強い。少なくとも僕にはそう感じられた。ビヨンセが何を意図していたにせよ、『Cowboy Carter』には無意識に滲み出してしまう部分に予想外の面白さがあり、取り込んだ要素に逆に侵食されている面もあるのではないだろうか。民主党支持を表明する勝ち組ならではの平和的なヴィジョンが無邪気に展開され、単純にそれを楽しめるか、もしくは不快に感じるかは聴く人のポジションによって様々に異なることも容易に想像できる。アメリカの政治的な風土から遠く離れた日本列島で聴く限り、 “Bodyguard” は折衷派の先駆けであるスライにも聞こえるし、チャック・ベリーのカヴァー “Oh Louisiana” はレジデンツかオート・チューンを使ったスワンプ・ドッグにも聞こえてくる。ちなみに参加ミュージシャンもスティー・ワンダー、マイリー・サイラス、ポール・マッカートニー、ウイリー・ネルソン、ポスト・マローンと、どこかで線を引いて分断することがしにくいメンツになっている(そういう人たちがわざわざ選ばれている?)。また、3部作のパート2だからか、 “II Most Wanted” や “Riiverdance” のように “i” と表記すべき部分がすべて “ii” と表記され、ポール・マッカートニーのカヴァーも “Blackbiird” となっているのに、なぜか “Oh Louisiana” だけは例外的に “i” のままである(?)。

 ビヨンセはアメリカ3部作で彼女なりの『音楽図鑑』のようなものをつくりあげるつもりなのだろう。まさかのハウスやまさかのカントリーの次は、まさかのジャズか、まさかのメタルだろうか。それともパート1が東海岸でパート2が南部だったからパート3は西海岸?

 冒頭で「すべてを失ったトランプ主義者と、すべてを手に入れた民主党支持者」を対比させ、共和党支持者に僕は言及しなかった。トランプ支持者には共和党の支持者ももちろん含まれるだろうけれど、カニエ・ウエストとドナルド・トランプを繋いだキャンディス・オーウェンズのように元々は民主党支持だったという人が少なからずいて「トランプ対民主党」という構図はリベラル同士で反目し合っている内ゲバのような面も強いと僕は思っている。現在、トランプにもバイデンにも投票したくない人たちはアメリカでダブル・ヘイターズと呼ばれている。アメリカに住む僕の友人はオバマ以前からすでにそうした気持ちになっていると話してくれたことがあるし、コメディ作家のティナ・フェイは彼女の代表作『30ロック』で「(次の選挙で)みんなにはオバマに入れると言っているけれど、私は入れないもんね」とウィンクし、「民主党を信用できない」という空気を2000年代初頭に早くもギャグにしていたことはさすがだというしかない。共和党にも民主党にも入れたくない。その頃からこれが正解だったはずなのに、新自由主義に舵を切った民主党に絶望し切れなかったリベラルが単にもう一方の選択肢だったトランプや共和党支持に反転してしまったことはどう考えても視野の狭い判断でしかない。与えられたものの中からしか選べない。自動販売機の外側に選択肢を持たないとしたら、あなたは民主党を支持するビヨンセの『Renaissance』を聴きますか? それとも『Cowboy Carter』を聴きますか?

interview with Keiji Haino - ele-king

ドアーズを初めて聴いたのが中3で、その後の2~3年で、すごいスピードでいろんな音楽を吸収した。レコードやラジオで。そして、ハードなもの、他にないもの、この二つが自分は好きなんだとわかった。

 灰野敬二さん(以下、敬称略)の伝記本執筆のためにおこなってきたインタヴューの中から、編集前の対話を紹介するシリーズの2回目。今回は、高校時代からロスト・アラーフ参加までの1969~70年頃のエピソードを2本ピックアップする。ロック・シンガー灰野敬二の揺籃期である。
 ちなみに本稿がネットにアップされる頃、灰野は今年2度目のヨーロッパ公演(イタリア、ベルギー、フランス)へと旅立っているはずだ。

■ロリー・ギャラガーとレッド・ツェッペリン

灰野さんが高校時代からドアーズやブルー・チアの熱心なファンだったことは有名ですが、当時、特に好きだったミュージシャンとしては他にはどういう人たちがいたんですか?

灰野敬二(以下、灰野):高校の学園祭では “サティスファクション” などを歌ったんだよ。先輩たちのバンドのシンガーとして。学園祭のためだけの即席バンドね。3年生のギタリストはジェフ・ベックに似ていた。その他にも、ビートルズやナインティーンテン・フルーツガム・カンパニー(1910 Fruitgum Company)の “サイモン・セッズ Simon Says” とか歌った。当時流行っていたロックやポップスの曲ばかり。先輩から声をかけられて参加したバンドだし、曲も先輩たちが決めていたからね。でも、“テル・ミー” と “サティスファクション” を10分ぐらいずつやった時は、普通の演奏をバックに、ドアーズ “When The Music's Over” を意識したストーリーテリング的ヴォーカルにしたんだ。あと、俺はテイスト(Taste)の「シュガー・ママ Sugar Mama」(69年のデビュー・アルバム『Taste』に収録)をやりたいと言ったの。でも、誰も知らなかった。俺は『Taste』の米盤を持ってて、特にロリー・ギャラガーのギターが大好きだったから。
 ギターに関しては、もちろん最初はエリック・クラプトンやジミ・ヘンドリクスなどを熱心に聴いていたけど、ロリー・ギャラガーはそういったブルース・ロック・ギタリストとはどこか違うと感じていた。変だなと。曲の作りが、ロックでもブルースでもカントリーでもない。リフも他のギタリストとは全然違う。理論ではなく直感としてそう思った。たとえば、ジミヘンやクラプトンの音楽が五つの要素から成っているとすると、ギャラガーは七つの要素で成っている。だから、飽きない。バロック音楽的要素も感じたりして。で、当時の自分の中でギャラガーは最高のギタリストになった。ちょっと後、渋谷ジァン・ジァンなどに日本のバンドのライヴを観に行くとみんなでクラプトン大会とかやってて、フーンと思っていた。当時から日本のロック・シーンはそんな感じだったんだ。


Taste “Sugar Mama”

今の若い世代は音像ではなく音響に関心を向けがちだけど、そのあたりは世代格差を感じる。センスという言葉で音の加工を重視するけど、俺はそういうのは好きじゃない。ロックを感じない。

17才でロリー・ギャラガーの特異性をしっかり感じ取れたってのはすごいですね。

灰野:とにかくいつも “違うもの” を探し求めていたから。ドアーズを初めて聴いたのが中3で、その後の2~3年で、すごいスピードでいろんな音楽を吸収した。レコードやラジオで。そして、ハードなもの、他にないもの、この二つが自分は好きなんだとわかった。ジミヘンもクラプトンもカッコいいけど、彼らはやはりロックの優等生なの。ギャラガーだってもちろん優等生だけど、そこにとどまらない、更に何か違うものがある。

アイリッシュという属性も関係してたんでしょうね。

灰野:そうそう。彼の表現の根底には反イギリスの感覚がある。ヤマトの人間が持ちえないセンスをアイヌや沖縄の音楽家が持っているように。俺はお前たちとは違うぞ、俺たちにも目を向けろ、という意志を感じる。彼の音楽の中にあるカントリー・テイストも、ルーツはアイリッシュ・フォークだし。

ロリー・ギャラガーの他には?

灰野:デビュー時のレッド・ツェッペリン。高校1年の冬だったと思うけど、パック・イン・ミュージックの火曜日、福田一郎さんが、日本盤はまだ出てなかったツェッペリンの1st『Led Zeppelin』(欧米では1969年1月リリース)の “You Shook Me” をかけたのを聴いてショックを受け、翌日か翌々日、日本の発売元だと思われる日本グラモフォンに電話した。「ツェッペリンのファン・クラブを作ってくれ」と。それぐらいこのデビュー・アルバムにはずっと、ものすごい愛情を持ってきた。“You Shook Me” の最後の部分のギターとヴォーカルの掛け合い、俺はあれでヴォーカリゼイションに目覚めたの。ブルー・チアのグルーヴ感とロバート・プラントのヴォーカルが、ミュージシャンとしての自分のスタート地点になったと思う。ドアーズの演劇的表現は別にして。


Led Zeppelin “You Shook Me”

 とにかく “You Shook Me” はショックで、パック・イン・ミュージックを聴いた後、寝られなくなった。当時はまだ高校を辞めてなかった頃で、翌日学校から戻るとすぐにお金を握りしめて渋谷ヤマハに駆け込んだ。当時あそこは6時15分が閉店で、学校から帰宅してから急いで行くとだいたい6時ちょい前ぐらいに着く。だから、試聴している時間などない。幸い、盤はあり、それを大事に抱えて帰宅したのを憶えている。米盤で、3000円近くした。当時は英盤はなかなか入ってこなかった。
 日本の発売元が日本グラモフォンだとどうやってわかったのか……はっきり憶えてないけど……当時の日本ではいいバンドの発売元はだいたいグラモフォンだったから、勘で電話したんだと思う。でも、電話に出た人はツェッペリンのことを知らず、話がまったく通じなかった。もしわかっている人が出ていたら、俺は日本のツェッペリン・ファン・クラブ会長になっていたかもしれない。だいたい、当時はヤードバーズやキンクスだって、日本ではあまり知られてなかったからね。
 ツェッペリンは今でも1stが一番好きだね。というか、2作目以降は関心がなくなった。1stはアヴァンギャルドでしょう。今の若い世代は音像ではなく音響に関心を向けがちだけど、そのあたりは世代格差を感じる。センスという言葉で音の加工を重視するけど、俺はそういうのは好きじゃない。ロックを感じない。
 “You Shook Me” を聴いて、音楽や歌や声に対する概念が自分の中で変わったと思う。ああいうことをしてもいいんだ、なんでもありなんだ、と。あと、ロックじゃないけど、ヴォーカリゼイションのヒントということだと、パティ・ウォーターズも大きかった。今はもうロバート・プラントは嫌いだよ。歌がヘタだから。声を出すことと歌うことは違う。「歌」ではなく「ヴォイス」と呼ばれることを俺が嫌いなのは、ヴォイスの人たちは歌がヘタだから。歌は、ずっと歌い続けていかないと上手くはならないんだ。

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声を出すことと歌うことは違う。「歌」ではなく「ヴォイス」と呼ばれることを俺が嫌いなのは、ヴォイスの人たちは歌がヘタだから。歌は、ずっと歌い続けていかないと上手くはならないんだ。

■錦糸町の実況録音

 音楽家になる決意を固めた灰野敬二が高校を中退したのは1969年、高校2年の2学期。17才になって間もなくの頃だ。そして、ロスト・アラーフに参加するのが70年7月。その間に灰野が短期間参加したバンドが錦糸町を拠点とする実況録音である。

狭山の高校を中退してからロスト・アラーフに参加するまでの1年ほどは、どういう活動をしていたんですか?

灰野:中退したちょっと後、69年の秋だったと思うけど……都内の高校に通っていた中学時代の級友から「友人のロック・バンドがシンガーを探しているんだけど、会ってみないか?」と誘われたんだ。彼は中学時代に俺に最初にビートルズを教えてくれた友人で、高校に入ってからも地元でのつきあいが続いていた。
 で、さっそくそのバンドのドラマーの実家の倉庫でバンドと対面した。川越の高校生とは違い、格好からして全員すごく洗練されてて、ギタリストなんて3才ぐらい年上に見えたし、最初、ちょっとナメられている感じもした。で、その彼からいきなりポール・バターフィールド・ブルース・バンドの “絶望の人生 I Got A Mind To Give Up Living”(66年の2nd『East-West』に収録)を歌ってみてくれと言われてね。当時、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドなんてちゃんと聴いている人はほとんどいなかったし、いきなり “絶望の人生” を歌ってくれと言われて驚いたけど、俺はちゃんと歌えた。最初の一節を歌っただけで、ナメた態度だった彼ら3人は「オーッ!」とびっくりした。結局その倉庫で2回ぐらい練習した後、メンバーの一人が通っていた高校の学園祭に出たんだ。その時一緒に出ていた別のバンドのシンガーが俺のヴォーカルを絶賛してくれたのはよく憶えている。彼は俺以上の長髪で、レッド・ツェッペリンの大ファンだった。


The Paul Butterfield Blues Band “I Got A Mind To Give Up Living”

そのバンドとはその後も一緒にやったんですか?

灰野:いや、それっきりだったと思うけど、その学園祭を見に来ていた人から声をかけられたんだよ。高橋さんというドラマーだった。「自分たちは錦糸町界隈でブルース・バンドをやっているんだが、歌ってくれないか?」と誘われて、会いに行った。まだバンド名がないそのグループのメンバーは皆、俺よりもちょっと年上で、俺が加入してから実況録音というバンド名をつけた。彼らは当時、フリートウッド・マックのカヴァーなどをやっていた。皆、ピーター・グリーン好きで。でも、俺がグランド・ファンク・レイルロードやMC5を歌いたいと提案したら、面白そうだからやろうということになった。その時のベイスが、70年代にカルメン・マキ&OZに参加した川上シゲ(川上茂幸)だよ。

その実況録音というバンドが、初めて参加したプロのバンドですか?

灰野:一応形の上ではギャラが発生するバンドという意味では、そういうことになるね。実際はギャラなんてなかったけど。
 実況録音はビアガーデンやゴーゴー喫茶などで演奏していた。鶯谷とかの怪しい店で。俺が実況録音で歌っていたのは、1970年の前半の半年足らずだったと思うけど、どの場所でもたいていは、一回演奏しただけで、あるいは途中で止められて、もういいと帰されていた。客が全然踊れないし、いつも俺が絶叫していたから。実況録音はロック・バンドと名乗っていたけど、彼らにしてみればロックでもなんでもなく、ノイズだったわけ。でも、メンバーも、もっと普通に歌えとかは一度も言わなかった。俺は一番年下なんだけど、彼らは常に俺に興味を持ってくれてたし、ソウルフルで礼儀正しい奴、という見方をしてくれていた。とてもいい関係だった。俺はライヴが終わると川越まで帰れないから、よく川上が泊めてくれたんだ。

客席からバンバン物が飛んできたので「かかってこい、この野郎!」と怒鳴り返した。結局、客がどんどん帰ってゆき、4ステージやることになっていた最初のステージで俺たちはクビになった。

実況録音の音を録音したものは残ってないんですか?

灰野:いや、まったく。もしかしたら、どこかにあるのかもしれないけど……あったとしても、俺が怒鳴っている声とかが入っていると思う。いつも「ヤメロー!」とか野次る客と怒鳴り合いをしてたから。銀座のソニー・ビルの屋上ビアガーデンでやった時のことはよく憶えている。1曲目でグランド・ファンク・レイルロードの “Are You Ready”(69年のデビュー・アルバム『On Time』に収録)をブルー・チア風にやったら、客席からバンバン物が飛んできたので「かかってこい、この野郎!」と怒鳴り返した。結局、客がどんどん帰ってゆき、4ステージやることになっていた最初のステージで俺たちはクビになった。もちろんギャラももらえなかった。ビートルズの “And I Love Her” とか、当時のビアガーデンの定番曲を普通にやっていればいいものをね(笑)。


Grand Funk Railroad “Are You Ready”

 実況録音のメンバーとはその後は長いことつきあいが途絶えたままだった。川上がOZなどメジャーで活動していることは知っていたけど、俺的にはOZは違うという認識だったし。でも、彼らとは数年前に再会したんだよ。ネットで調べて、ギタリストでリーダーだった伊藤寿雄さんを見つけた。伊藤さんたちは、今でも年に一度ぐらい集まってライヴをやってて、俺も彼らのライヴを観に行った。2019年の正月には、普段は錦糸町で惣菜屋をやっている伊藤さんの家に招かれて、食事もしたし。伊藤さんには俺のライヴも観てもらった。俺がギターを弾くなんて彼は知らなかったからびっくりしていたけど、「ロックだな」と言われて、うれしかった。

 ちなみに、このインタヴュー後の2022年7月2日、灰野は《三様》なるライヴ・イヴェント(高円寺 ShowBoat)で52年ぶりに伊藤、川上と一緒にステージに立った。伊藤がスタンブル・ブルース・バンド(Stumble Blues Band)のギタリストとして、川上が川上シゲ with The Sea のベイシストとして、そして灰野が川口雅巳とのデュオとしてそれぞれのライヴをこなした後、最後に、伊藤・川上・灰野 +サポート・メンバーという形で実況録音の同窓会ライヴが繰り広げられた。ステージ上で時折笑顔になる灰野を私が観たのは、後にも先にも、その時だけである。


2022年7月2日高円寺 ShowBoatでのライヴ

壊れかけのテープレコーダーズ - ele-king

 宇多田ヒカルがシミュレーション仮説に言及したり、コーネリアスこと小山田圭吾がループ量子重力理論的な思考を歌に込めたり、最近、サイエンス・フィクションにかなり近づいた哲学や物理学がポップ・ミュージックの歌詞にも影響するようになっている。それらは、現実の危うさ、不確かさ、頼りなさを積極的に肯定することで、「現実の現実感」や「現実の現実性」を忘却させ、それらに疲弊した存在を慰撫し、そこから逃避させ、この複雑怪奇な現実を生きる者の気持ちをすこし楽にさせる処方箋みたいになっているところがなくもない。「戦争の始まりを知らせる放送も/アクティヴィストの足音も届かない/この部屋にいたい もう少し」(宇多田ヒカル “あなた”)。すべては胡蝶の夢。時間は不連続であり、存在しない。そんなふうに思えたら、どんなに楽だろうか。ブルー・ピルを飲みたい者も、科学や資本主義の糖衣にくるまれたレッド・ピルを選びとりたい者も、結局、そう変わりはないように見える。そういう思考のゲーム的な傾向は現代における一種のブームのようなものにも思えるし、20世紀後半から21世紀という時代における流行だったと22世紀や23世紀の人間は──もしまだ人類という種が、この星を使いつくさずに生きながらえていたら──言うかもしれない。
 同時に、まったく無意味な対比であることはわかっていながら、こうも思う。現実の重さや確かさが増してきているのも、また事実だと。現実に起こっている戦争や殺戮は、シミュレーションでもヴァーチャルなものでもない。もちろん、戦争や殺戮だけ/こそがなにか重いものなのだと言いたいわけでもないけれど、そういうものの抗いがたい重みや確実性に打ちひしがれ、押しつぶされそうになりながら歌われる言葉も、一方で存在している。壊れかけのテープレコーダーズの『楽園から遠く離れて』は、まさにそういうことを歌っているレコードだと思う。

 壊れかけのテープレコーダーズは、リーダーの小森清貴(ヴォーカル/ギター)を中心に、遊佐春菜(ヴォーカル/オルガン)、shino(ベース)、高橋豚汁(ドラムス)からなるカルテットで、2016年、ドラマーの44Oが脱退したのちに現在のラインナップになった。小森は、大森靖子 & THEピンクトカレフ(2015年に解散)や元昆虫キッズの冷牟田敬のバンドなどでギターを弾いており、ソロ・アーティストとしても活動している。また、遊佐は、Have a Nice Day!の一員としても知られているだろう。ソロでは、〈MY BEST!〉からのインディ・ポップ的な『Spring Has Sprung』(2015年)、〈KiliKiliVilla〉からのエレクトロニックな『Another Story of Dystopia Romance』(2020年)という優れた作品をものにしており、2023年10月にもEP「夏の雫」を上梓したばかりだ。
 彼らが〈ハヤシライスレコード〉からリリースした最初のアルバム『聴こえる』(2009年)は、バンド名のとおりのローファイで荒削りなサイケデリック・ロックないしガレージ・ロック・レコードで、1960年代や1970年代の同様の音楽を、あるいは1980年代や1990年代のアンダーグラウンドでインディペンデントなそれを直接的に想起させるものだった。当時、〈ハヤシライス〉は三輪二郎や前野健太の作品も発表しており、いわゆる「東京インディ」のバンド群も現れつつある時期だったが、東高円寺のU.F.O CLUBのムードにぴったりと重なった(この形容が正しいかどうかはわからない)壊れかけのテープレコーダーズの音は、先行世代や同世代の音楽家たちとの狭間で、不思議と遊離したものに聴こえていた。
 バンドは、その頃から変わっていないといえば変わっていないし、大きく変わったといえば変わった。前作にあたる6作めのアルバム『End of the Innocent Age』は、不運にも新型コロナウイルス禍のとば口だった2020年5月に発表されていて、なおかつ、これまでになくポップや親しみやすさへの志向性が開花していた作品だった。高橋の加入も影響したのだろう、ファンクやディスコ的な16thフィールの活用など、リズムへのアプローチがまったく異なっていたのも特徴だ。

 『楽園から遠く離れて』は、それから4年ぶり、古巣の〈MY BEST!〉を離れて自主レーベルから発表した新作である。端的に言って、これは、彼らのキャリアの中でもっとも素晴らしいレコードだと思う。前作は若干、過度に、無理にポップへ向かっているように聴こえたが、4人は今回、そこでの試みやとりくみを引き継いで反映させつつも、バンドの根っこにある原像を改めて捉えかえして、さらにかき混ぜ、「壊れかけのテープレコーダーズらしい」としか言いようがないロックとして吐きだしている。痛快で、シリアスでありながらも聴き手を突き放さず、軽やかで、かわいらしくて、あたたかくて、どこかかなしげで、人間味にあふれている。
 プレス・リリースには、「コロナ禍、相次ぐ戦争、気候変動、、、未曽有の禍が現前する2020年代という時代の中で生まれた全8曲。この現実と向き合いながら生きていくことへの問いと意志を、信じるロック音楽へと込め、鳴らす」とある。4年間の出来事、いままさに起こっていることを直視したリリックは、とはいえ、小森らしく宗教的な言葉や終末的なイメージを挿しこみながら、個人的な視点や具体性よりも、シンボリックで示唆的な面がやはり強調されている。アクチュアルでありながらも、特定の時代性は嗅ぎとれない。失楽園と救済。過去と未来の併置。「映されたノスタルジア/進歩に潜むアイロニー」(“ノスタルジア”)。それでも、このひとつの現実の中で時間は単線的に進み、私たちは未来へと否応なしに押し流されていく。冷めつつも希望をかすかに透かして見るような現状認識は、ceroの髙城晶平が『e o』(2023年)で歌っていたことに重ならなくもない。そして、それらの言葉は、まさに、「死と再生のメロディー」(“梢”)にのせて歌われる。

 壊れかけのテープレコーダーズは、「原ロックを求め続ける」という言葉を掲げている。その意味するところを、私はよく理解できていない。ただ、たしかなのは、彼らの音楽が聴く者の深いところに眠っている原初的な記憶や感覚にアクセスしようとすることだ。彼らの歌や演奏には、どこか童謡のような簡潔さや虚飾のなさ、直接性があり、同時になんとも未完成で不器用でもあり、その率直さや純粋さは時におそろしくもある。このアルバムは、その性向が特に強く、だからこそ彼らの最高傑作たりえている。
 『楽園から遠く離れて』は、小学生時代の音楽の時間を思いおこさせる。音程の高低差が少ない簡素なメロディ、小森と遊佐のシンプルなユニゾンの歌唱、輪唱、叩きつけるようなあまりにも単純な拍子……。目的の音にめがけてストレートに向かう小森の歌唱も、遊佐のかすれた声も、私にはクラスメイトの歌や有孔ボードが一面に貼られた音楽室の景色を思いださせる。演奏楽器に「オルガン」とわざわざ明記されている遊佐のプレイは、もちろん、サイケデリック・ロックの伝統に連なるものであるのと同時に、オルガンという楽器が明治以降、近代日本における音楽教育で果たしてきた役割の大きさをもう一度意識させるものでもある。あるいは、小森の歌詞とあいまって、当然、キリスト教の世界観も強く喚起させるだろう。
 強調しておきたいのは、こういった壊れかけのテープレコーダーズの音楽は、専門的なレッスンによって鍛えられた見事なヴォーカリゼーション(ミックス・ヴォイスやらエッジ・ヴォイスやら)、せわしない転調、複雑な和音の多用、ペンタトニック・スケール、奇妙な構成や変拍子などを好んでつかうことによって特異性を増す一途をたどっているJ-POPの、ちょうど反対項に存在するものである、ということ。

 小森は以前、ある小学生の子どもがライヴに来るようになり、最前列で拳をあげて演奏を見ている、と語っていた。このアルバムこそは、そのことを見事に物語っているのではないだろうか。
 インタヴューは8年前のものなので、その小学生は下手したら成人しているかもしれない。もっと言うと、壊れかけのテープレコーダーズのライヴにはもう来なくなっているかもしれない。それでも、『楽園から遠く離れて』は、彼/彼女の奥底にあるなにかに語りかけるものをどこかに内包しているはずだ。それに、ここでたびたび歌われている「未来」というものは、疲労感と諦念を浮かべた表情が日常的に貼りついてしまった私たちのためというよりも、むしろ、彼や彼女のためにあるのだから。

 ブルース・スプリングスティーンに“レーシング・イン・ザ・ストリート”という曲がある。『Darkness on the Edge of Town(町外れの暗闇)』、日本では『闇に吠える街』という邦題で知られている1978年のアルバムのA面最後に入っている曲だ。アメリカという国おいて、車、そしてストリート・レースとは庶民的な、いや、労働者階級文化の庶民性をもっとも反映したサブカルチャーだ。ぼくは一度だけ、1998年9月、デトロイトでのストリート・レースを見物したことがある。たしかに「町外れの暗闇」に包まれた道路の、夜の深い時間だった。
 スプリングスティーンの“レーシング・イン・ザ・ストリート”が名曲なのは、元工場労働者/バスの運転手だった父親のもとに育った彼が、70年代後半の名作と言われている諸曲と同様に、洞察力をもってアメリカ労働者階級の日常をリリカルに描いている点にある。が、同曲の歌詞はそれ以上に手が込んでいる。歌のなかに「Well now, summer's here and the time is right/For racin' in the street(さあ夏だ、ストリートでのレースには良い季節)」というフレーズがあるが、言うまでもなくこれは、モータウンの超有名曲、マーサ&ザ・ヴァンデラスの“ダンシング・イン・ザ・ストリート”における「Summer's here and the time is right/For dancing in the street(夏よ、ストリートで踊るには良い季節)」へのオマージュで、しかしこの引用は、皮肉めいた言葉として機能している。何故なら、ザ・ヴァンデラスの陽気な曲における“ダンシング”は、生きるための希望であり、“反乱(暴動)”のメタファーとしても解釈できる。当時のモータウンのほかのどの曲よりもアグレッシヴだったし、実際それは公民権運動賛歌にもなった。ザ・ヴァンデラスというグループ名にも女性的だが破壊的なニュアンスがあるという。そうした60代のソウルの「やってやろうじゃないか」という活力に対して、70年代末の“レーシング・イン・ザ・ストリート”のなんと侘しいことか。「いまでは生きることを諦めたヤツまでいる/そして、少しずつ死んでいく」、スプリングスティーンはここまで歌っているのだ。

 言うまでもないことだが、「車」(ないしは「道路」)はアメリカのロック/ポップにおいて重要なモチーフである。ストリート・レースに関しては映画『アメリカン・グラフィティ』でも描かれているし、カー・ソングに関してはザ・ビーチ・ボーイズのお家芸とさえ言える(いまでは『Greatest Car Songs』という編集盤まである)。しかしザ・ビーチ・ボーイズの「車」には、無邪気さや自慢話こそあれ、労働者階級との繋がりが完璧に欠落している。リロイ・ジョーンズの『ブルース・ピープル(ブルースの魂)』(1963)にも、T型フォードは黒人でも初めて手が届く「貧乏人の車」だったと記されている。ウィリアムズ・S・バロウズのような固有名詞とはまったく無縁な家庭に育ったスプリングスティーンには、「車」について歌わけなければならない理由があった。
 スプリングスティーンというロック・ミュージシャンが重要なのは、ひとつには、1970年代後半、彼ほどアメリカの労働者階級の日常を直視し、時代に取り残された彼ら/彼女らについての曲を書いた人物はいなかったという点にある。さらに言えば、そのリアリズムを、日本の文化人がヤンキー文化を美化し、ロマンティックに捉えてしまうようなこととは違って、なんとも辛辣で、ありのままの葛藤、さもなければ嫌悪感まで描いている点にあるように思う。“ボーン・トゥ・ラン”がいい例だ。威勢のいいあの曲は、労働者階級の街に漂う閉塞感からなにがなんでも逃避したいという強烈な願望を歌っている。60年代の黒人ソウルの、いわば公的な前向きさと違って、彼はこうした、私的で日常的なロマンティシズム(物語)、個人的な救済の可能性を歌っている、というか、そうするしかなかったのだろう。E・ ストリート・バンドに故クラレンス・クレモンズがいたように、彼がライヴにおいて、白人も黒人も結束する労働者の文化の美しい姿を表現していたとしても、スプリングスティーンの正直さは、『闇に吠える街』の次作においては絶望へと向かっている。“ザ・リバー”という曲がそれだ。

 デイヴ・マーシュにいわく、彼にとって「何か讃える歌がいっさいはいっていない初めてのアルバム」の表題曲“ザ・リバー”でひとつキーになるのは、歌の主人公が地方で暮らす労働組合員であるというところだ。スプリングスティーンの数ある曲のなかで、もっとも打ちひしがれている曲のひとつである“ザ・リバー”における、主人公の人生から見える労働者階級コミュニティが朽ちていく様は、その前年にあたる1979年にブロンディ(デボラ・ハリー)が歌った“ユニオン・シティ・ブルー(組合の街の憂鬱)”で描かれている途方に暮れたやりきれなさと重なる。ぼくは高校生だった頃、これらロックの歌詞に「組合」という言葉が出てくることに違和感を覚え、それがなんでなのか気になっていたのだけれど、昨年になって、ようやく少しわかった気がする。考えてみれば当たり前の話だが、アメリカの近代社会において反乱の火種にさえなっていた、資本家にとってはやっかいな、いまふうに言うなら資本主義にとってうざったい存在以外の何物でもなかった労働組合および労働者コミュニティが、1970年代前半のリチャード・ニクソン時代にゆっくりと牙を抜かれ解体させられていくのだ。その時代、「労働者階級は自らを破滅させる能力以外の主体性を剥奪される。ここには解放への道はなく、ただ絶望感が押し寄せるだけだ。(…)かつて労働者たちを活気づかせていた結束力は、人種的憎悪に変わってしまった」。そして、「全国ストライキ率は急落し、経済的に武装解除された労働者階級というエディ・サドロウスキーの悪夢が現実のものとなった。70年代の初めには全米で約250万人の労働者が1000人以上のストライキに従事していた。1980年代になるとこの統計は以前の数分の1となり、大規模なストライキに参加した労働者は合計で10万人から30万人程度だった。また、大規模な争議行為も初期の約400件から1980年代半ばには約50件にまで減少した」(*)

 1998年のデトロイトのストリート・レースは、しかしスプリングスティーンのメランコリーとはだいぶ違っていた。「町外れの暗闇」のなかの人だかり。すさまじい爆音。日本人のぼくには異様な光景でしかない。白人も黒人も、男も女も、若いのも年寄りもいる。しばらくすると警察がやって来て、そこにいた全員(ぼくも含め)がいっせいに逃げる。「レースも、ベースボールと同じように、人種に関係なく参加できるんだ」とマイク・バンクスはあとから説明した。彼は賞金稼ぎのレーサーだったし、稼いだ金をつぎ込んで〈サブマージ〉という、なかば組合めいたインディ・レーベルをサポートする組織を設立した。2000年代以降のデトロイトのシーンでもっとも重要なリリースを何枚も出しているオマー・Sもレーサーで、いまでもレースをやっている。オマー・Sに関して言えば、申し分のないほどの名声を得てもフォードの工場で働いていた労働者のひとりだ。バンクスもオマー・Sも、なにせデトロイトの人たちなのだからニクソン政権の犠牲者と言える。しかし、音楽産業の巨大な歯車のなかにはいないアンダーグラウンドな彼らは、日常からの逃避としてもレースに参加してない。オマー・Sが彼いわく人種差別のはびこる工場で働くのは、家族のために保険証を手にすることができるからだ(いま現在は不明)。

 スプリングスティーンは、“ダンシング・イン・ザ・ストリート”という曲が、アメリカ北部の黒人たちの前向きさ、もっと言えば世界を変えようとする情熱さえも結果として表現していたことをちゃんとわかっていた。そもそも、黒人ソウルとロックンロールの融合を自らの音楽的な基盤とする彼が、モータウンの祝祭的音楽を引用しながら、モノクロームの沈黙のなかの勝ち目のないメロドラマたる“レーシング・イン・ザ・ストリート”を書いたことは、当時の彼に、世界の不吉な変動への予感があったことを思わざるを得ない。同じ時代、映画『タクシードライバー』(1976)でマーティン・スコセッシが描いた労働者トラヴィスにおいては、孤立し、もはや異端への憎悪と自己破壊への衝動(ないしは宙ぶらりんにさせられたリビドー)しか残されていないかのようだ。それを思えばスプリングスティーンはずいぶんと優しいし、どこまでもヒューマンに見える。だから、恋人、家族、生まれ故郷の街、こうした身近な拠り所が崩壊していったとき、“ザ・リバー”が仮に反抗よりも諦めに荷担していたとしても、ぼくには文句は言えない。それを覆すために、いや、覆したように見せるための、それがほんの一瞬の空しきシャドーボクシングだったとしても、“ボーン・イン・ザ・USA”(1984)においてはパワフルに振る舞う彼がいたのだろうから。
 厚い胸板、白いTシャツとジーンズという典型的な労働社会階級の男性の美学をもって、そのファッションと熱唱されるサビのフレーズゆえに家父長制的かつ愛国歌という大いなる誤解を受けた曲、左派からはこっぴどく批判され、右派ポピュリストには利用されたその曲を、ぼくは彼の初来日のライヴでも聴いている。何にもわかっちゃいない若者のひとりとしてだが、いま思い返せば、バブル経済真っ只中の日本で、ベトナム帰還兵の痛みや失業者たちの絶望、死人たちの街を歌ったあの曲で盛り上がったというのは、そういうものだと言われてしまえばそれまでだが、どうにも釈然としないものがあったのは当のスプリングスティーンだったのではないだろうか。
 ファンにはお馴染みの話だが、“ボーン・イン・ザ・USA”は、もともとは『ネブラスカ』制作中に生まれた曲で、当初のセッションではあの歌詞全体に通底する「絶望感」が際立った、暗く沈んだ曲調だった。拳を振り回すような、アップリフティングな曲ではなかったのだ。しかも複雑なのは、この曲の歌詞には、彼の理想とする人種的統合をほのめかすように、またしてもマーサ&ザ・ヴァンデラスのヒット曲へのじつに巧妙なオマージュが挿入されている。ただしこちらでは、「Nowhere to run(逃げる場所はどこにもない)」と。

 ドナルド・トランプの恐ろしさは、マイノリティや労働者階級からも支持されていることにもある。スプリングスティーンがいまやあのレーガン時代さえ懐かしむほどトランプに対しての嫌悪を露わにし、再選したら移住するとまで言っているのは、彼にとってのアメリカの、大事にしていた何かが消滅したのだと悟るということである。今年に入ってぼくは、 “レーシング・イン・ザ・ストリート”を何回も聴いた。『闇に吠える街』を聴き、『ザ・リバー』を聴いた。これはマーク・フィッシャーの『ポスト資本主義の欲望』(左右社)を読んだことに端を発している。同書のフィッシャーの弁によれば、マーガレット・サッチャーよりも先に新自由主義を実践した政治家はリチャード・ニクソンだ。ニクソンが分断させ、骨抜きにしていった労働者階級の共同体/文化的基板、もしくはその自尊心やアイデンティティと必死で向き合っていたのがスプリングスティーンだったと、フィッシャーが同書で紹介しているジェファーソン・カウィーの本を読んで、ぼくはようやく理解した。彼はそこから全力で逃げようとしたが、どうしようもなく愛してもいた。そこになんとか未来を見出そうと努力したのだろうけれど、誠実さにおいてそれは極めて困難なことだったのだろう。こんにちの日本であらためて彼の曲を聴いていると、もはや遠い国の憧れのヒーローの曲としてではなく、まあ、ぶっちゃけて言えば、良くも悪くも精神的強壮剤としてしか聴いていなかった40年前よりも、ずっと切なくスプリングスティーンの歌が入ってくるのだ。

 何も持たずに生まれてきた
 そのほうがいい
 何かを得るとすぐに
 彼らはそれを奪おうとする者を送り込んでくるのだから
“サムシング・イン・ザ・ナイト”

(*)Jefferson Cowie, Stayin' Alive: The 1970s and the Last Days of the Working Class , New York, 2010

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