英国に止まない雨が降った朝文:ブレイディみかこ
ある雑誌の企画で「いま一番聴いている5曲」という調査に参加することになり、アンケート用紙に記入してメールした後、酒を飲みながらボウイの新譜を聴いていた。
「いま一番聴いている5曲」の中にも、『Blackstar』収録の” 'Tis a Pity She Was a Whore”を入れた。過去と現在の音をカクテルにしてぐいぐいかき混ぜながら、確かに前進していると思える力強さがある。みたいなことをアンケートには書いておいた。
そして新譜を聴きながらわたしは眠った。
が、朝5時に目が覚めてしまった。
まるで天上から誰かが巨大なバケツで水をぶちまけているかのような雨が降っていたからだ。雨の音で目が覚めるというのはそうある話ではない。こんな怒涛のような雨が降り続いたら、うちのような安普請の家は破れるんじゃないかと本気で思った。妙に真っ暗で、異様なほどけたたましい雨の降る早朝だった。
しばらく経つと電話が鳴った。時計を見ると6時を少し回っている。受話器を取るとダンプを運転中の連合いだった。
「ボウイが死んだ」
「は? ボウイって誰?」
そんな変な名前の友人が連合いにいたっけ?と思った。最近やけに死ぬ人が多いので、また誰か逝ったのかと思ったのだ。
「ボウイだよ、デヴィッド・ボウイ」
と言って、連合いは電話口で”Space Oddity”を歌いだした。
「えっ」
と驚いて「いつ?」と訊くと
「いまラジオで言っている。公式発表だって」
と連合いが言った。
頭がぼんやりしていた。意味もなく、いまUKで連合いのように“Space Oddity”を歌っている人が何人いるのだろうと思った。
以前も書いたことがあるが、わたしはボウイのファンではない。そもそもロックスタアの逆張りとして登場したジョニー・ロットンを生涯の師と定めた女である。だから彼の音楽も「まあ一通り」的な聴き方をした程度だし、同世代の女性たちのように麗しのボウイ様に憧れた思い出もない。
寧ろ、彼の音楽に本格的に何かを感じ始めたのは前作の『The Next Day』からである。
アンチエイジングにしゃかりきになっているロックスタアたちへの逆張りを、誰よりもロックスタアだったボウイが始めたように感じたからだ。
彼は老いることそのものをロックにしようとしていると思った。
絶対にロックにはなり得ないものをロックにしようとする果敢さと、その方法論の聡明さにわたしは打たれた。だからこそ、2013年以降は
「いま一番ロックなのはボウイだ」
と酒の席で言い続けてきたのだ。
権力を倒せだの俺は反逆者だの戦争反対だのセックスしてえだの、そういう言葉がロックという様式芸能の中の、まるで歌舞伎の「絶景かな、絶景かな」みたいな文句になり、スーパーのロック売り場に行儀よく並べられて販売されているときに、ボウイは「老齢化」という先進国の誰もがまだしっかり目を見開いて直視することができないホラーな真実を、ひとり目を逸らさずに見据えている。そんな気がしたのである。
しかもまたボウイときたら、それをクールに行うことができた。
新譜収録の〝Lazarus”のPVの死相漂うボウイの格好良さはどうだろう。
プロデューサーのトニー・ヴィスコンティは「彼の死は、彼の人生と何ら変わりなかった。それはアートワークだった」と語っているが、ボウイは自らの死期を知っていて、別れの挨拶として新譜を作ったという。リリースのタイミングも何もかも、すべてが綿密に計画されたものだった。
思えば2年前。クール。というある世代まではどんなものより大事だったコンセプトを復権させるためにボウイは戻って来たのではなかったか。
そのコンセプトというか美意識がずぶずぶといい加減に溶け出してから、世の中はずいぶんと醜悪で愚かしい場所になってしまったから。
ボウイのクールとは、邦訳すれば矜持のことだった。
ざあざあ止まない雨の中を、子供を学校に送って行った。
息子のクラスメートの母親が、高校生の長男がショックを受けていると言っていた。
「彼にとって、なんてひどい朝なんでしょう。起きて一番最初に耳にしたのが、自分が知ったばかりの、大好きになったばかりのヒーローが亡くなったというニュースだなんて」
そう彼女は言った。
ああそう言えば、日本に送ったアンケート用紙のボウイに関する記述を過去形に訂正しなくては。と思った。
ざあざあ止まない雨が降る空は、明るいわけでも暗いわけでもなく、幽玄なまでに真っ白だった。
文:ブレイディみかこ